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怪異清掃、請負います  作者: 夾竹桃


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3/3

03.第三話

人生における「詰み」とは、将棋やチェスの盤上だけで起こるものではない。

たとえば、時給千円の気楽なバイト生活から一転、怪しい清掃会社に入社した結果、初仕事で5000万円の壺を割り、闇金も真っ青の借金を背負わされた今の俺――佐藤健太の状況こそが、まさに「詰み」そのものだった。


「……社長、これ本当にやるんですか?」


俺は目の前にそびえ立つ「それ」を見上げ、鼻をつまみながら問いかけた。

場所は都内の閑静な住宅街。周囲には小綺麗な新築住宅が並ぶ中、そこだけ時空が歪んだかのように昭和初期――いや、明治末期から取り残されたような木造家屋が鎮座していた。

蔦が血管のように絡まり、壁は皮膚病のように剥がれ落ち、屋根は老婆の背中のように波打っている。風が吹けばギシギシと断末魔のような悲鳴を上げ、野良猫すら寄り付かない。

何より酷いのが、その「汚れ」具合だ。俺の目には、その家全体がドス黒いヘドロのような粘液で覆われているように見えた。

窓枠からは黒いタールのようなものが垂れ下がり、屋根には不定形の黒いモヤがへばりついている。そして臭い。ドブ川と生ゴミを煮詰めて放置したような、強烈な腐臭が漂ってくる。


「もちろんだとも、佐藤君! 私の大胸筋が『高重量トレーニングの予感だ』と武者震いしている!」


答えたのは、俺の雇い主であり、この狂った会社の社長、神宮寺剛だ。身長百九十センチ超えの巨躯を、はち切れんばかりの高級イタリア製スーツに包んでいる。

スキンヘッドにサングラスという出で立ちは、どう見てもカタギではない。いや、この会社自体がカタギではないのだが。


「けっ。かったりぃ。臭くてかなわねぇな」


そしてもう一人、不機嫌そうにアスファルトを蹴る桃がいる。見た目は可愛らしい美少女だが、その背中には彼女の身長ほどもある巨大な業務用ポリッシャー(鉄塊)を軽々と担いでいる。

あんな重機をランドセルのように背負う時点で普通の人間ではない気がするが、彼女はこの会社で「掃除(物理攻撃)」を担当するエースであり、俺の借金の原因を作った張本人でもある。性格は凶暴極まりない。


「おい新人。さっさと終わらせるぞ。鼻が曲がりそうだ」


「同感だよ。なんだよあの黒い汚れ。ペンキぶちまけたみたいになってるぞ」


俺が屋根のヘドロを指差すと、桃が少しだけ意外そうな顔をした。


「へぇ、お前見えてんのか。ま、掃除屋なら汚れが見えなきゃ話になんねぇか」


「そりゃあんなに汚れていれば見えるだろ……」


俺たちの会話をよそに、屋敷の持ち主である初老の男性が、ハンカチで冷や汗を拭いながら立っていた。顔色が悪いのは、家のせいか、それとも社長の見た目のせいか。


「あ、あの……本当に大丈夫なんでしょうか? 他の業者さんには『入った瞬間に倒壊するから無理だ』と断られ続けていまして……」


「ごもっともです」


依頼人の不安は正論すぎる。俺だって断りたい。だが、社長はサングラスを外し、つぶらな瞳を輝かせて依頼人の肩に手を置いた。


「ご安心ください。我が社の社訓は『筋肉は裏切らない』。どんな汚れも、私のマッスル・パワーと、彼らの技術で跡形もなく消し去って見せましょう」


「は、はぁ……」


「ただし、条件があります」


「条件、ですか?」


「ええ。屋敷があまりに繊細(フラジャイル)だ。私の筋肉が入室すれば、その質量だけで床が抜ける恐れがある」


社長は真顔で言い放った。


「よって、実働は彼ら二名に任せ、私は庭から『マッスル・エール』を送ることにします」


「……はい?」


「サボりじゃないですか! あんた一番働けよ!」


俺のツッコミは、五月の爽やかな風と、屋敷からの腐臭に流された。




屋敷の中は、外見以上に地獄だった。一歩踏み出すたびに床板が悲鳴を上げ、天井からは埃と共に何かの幼虫が落ちてくる。そして何より、視界が悪い。

廊下の壁も床も、べっとりと黒いシミのようなものがこびりついている。それが時折、呼吸するように動いているのが気味悪い。


「うわっ、なんだこれ。ネバネバする」


足裏に伝わる不快な感触。靴底を見ると、黒い粘液が糸を引いていた。ただの古い家じゃない。明らかに衛生環境が終わっている。


「あー、うっぜぇ! 狭い! 脆い! 汚い!」


桃がイライラしながら、廊下を進む。彼女が担いでいるポリッシャーは、本来ならコンクリートや石材を研磨するための重機だ。

それを、こんな腐りかけの木造家屋で振り回せばどうなるか。


「桃ちゃん、絶対に暴れるなよ。壁に一撃入れたら、この家ジェンガみたいに崩れるぞ」


「わかってるよ! だからイライラしてんだ!」


桃は舌打ちをした。彼女の掃除スタイルは「破壊」だ。汚れごと対象物を粉砕するのが彼女の流儀。

しかし今回のミッションは「家を壊さずに、汚れだけを落とす」という、外科手術のような精密動作が求められる。ダンプカーで針の穴に糸を通せと言われているようなものだ。


「おい新人、汚れの元はどこだ。鼻で探せ」


「俺は犬か!……でも、確かに奥の方が臭いな。腐った雑巾みたいな臭いがする」


俺は鼻をつまみながら、臭気の発生源を探った。そして視覚的にも、廊下の奥へ行くほど壁の「黒ずみ」が濃くなっているのがわかる。


「あっちだ、居間の方。壁が真っ黒になってる」


「チッ、案内しろ」


俺たちは懐中電灯を片手に、ドロドロとした廊下を進んだ。

居間にたどり着くと、そこの空気はさらに澱んでいた。部屋の中央には太い大黒柱があるのだが、そこが一番酷い。

まるでタールを頭から被ったように、柱全体がドス黒く変色している。しかもその汚れが、ボコボコと沸騰するように泡立っていた。


「うへぇ……なんだあれ。カビか? いや、なんか動いてないか?」


「ビンゴだ。あの柱、汚物の巣になってやがる」


桃がポリッシャーを構える。俺は慌てて止めた。


「ちょ、待て待て! あの大黒柱、この家の命綱だぞ! 削りすぎたら屋根が落ちてくる!」


「じゃあどうすんだよ! 見てみろ、あいつら歓迎ムードだぞ!」


桃が指差した先。柱の黒いヘドロが、ズルリと垂れ落ち、床の上で形を変え始めた。泥人形のような、あるいは人の手のような形をとって、こちらへ這いずってくる。


「ひぃっ! なんか出た! 新種の菌類か!?」


「雑魚(汚れ)どもが。舐めてんじゃねぇぞ!」


桃の殺気が膨れ上がった瞬間、屋敷全体がガタガタと震え出した。


「いくぞ! ソフトタッチで削り殺してやる!」


桃がポリッシャーのスイッチを入れる。高速回転するブラシの音が、静まり返った廃屋に響く。


「揺れてる! 家が揺れてるって!」


「うるせぇ! 集中させろ!」


桃がポリッシャーを構え、迫りくる黒い泥人形に向かって突っ込む。彼女の腕力と制御技術は凄まじかった。

本来なら触れた瞬間に木材ごと粉砕するであろう回転ブラシを、桃はミリ単位の精度で操り、襲い来る「黒いヘドロ」だけを弾き飛ばしていく。

ヘドロが霧散するたびに、鼻を突く焦げ臭さと腐臭が広がる。


「すごい……本当に削ってる……」


俺は感心している場合ではなかった。敵の数が多い。四方八方から湧き出る汚れに対し、家を壊さないように戦うのはあまりに不利だ。


「おい新人! ボケっとしてんな! 後ろから来るぞ!」


「えっ、うわぁぁぁ!」


背後の床板の隙間から、黒い触手のようなものが俺の足を掴もうとしていた。俺は無様に転がりながら回避する。


「戦えよ! お前も社員だろ!」


「俺はただの借金まみれの一般人だ! 洗剤もデッキブラシもないのにどうしろってんだ!」


「チッ……足手まといが!」


桃が舌打ちしつつ、俺を庇うように立ち回る。その時だった。


「むぅぅぅぅぅん!!!!!」


庭から、野太い雄叫びが聞こえてきた。俺と桃、そして襲いかかろうとしていた泥のようなナニカまでもが、一瞬動きを止める。


「……なんだ今の」


「社長だ」


俺はため息をつきながら、割れた窓ガラスから庭を覗いた。そこには、地獄絵図が広がっていた。

先ほどまで着ていた高級スーツを脱ぎ捨て、ブーメランパンツ一丁になった神宮寺剛が、全身にオイルを塗りたくり、太陽光を反射して輝いている。

そして、屋敷に向かって「サイドチェスト」のポーズを決めていた。


「ナイスバルク! キレてるよ! さあ、私の筋肉の波動を受け取りたまえ!」


依頼人のお爺さんが、白目を剥いて泡を吹いて倒れているのが見えた。


「あのアホ……何してんだ」


「マッスル・エールらしいぞ」


「殺す。帰ったら絶対に殺す」


桃の殺気が限界突破した瞬間、屋敷の汚れが過剰反応した。外部からの強烈な「陽の気(筋肉)」と、内部の「殺気(桃)」に刺激され、眠っていた親玉が活性化したのだ。

大黒柱の黒ずみが一気に膨れ上がり、人の顔のような形を成す。あれが一番ヤバい汚れだ。直感的にそう感じた。


「出やがったな本体! そこを削れば終わりだろ!」


桃が踏み込む。だが、床が「ミシッ」と悲鳴を上げた。

まずい。このボロ屋敷、今の激しい動きで床の強度が限界に来ている。

桃がジャンプして高い位置にある「顔」を攻撃すれば、着地の衝撃で床が抜ける。


「届かねぇ! ジャンプしたら床が死ぬ!」


「何か足場はないか!?」


「ねぇよ! あるのは腐った畳とお前だけだ!」


「俺……?」


桃がギロリと俺を見た。嫌な予感がする。


「おい新人。四つん這いになれ」


「は?」


「お前が踏み台になれ! 私がそれに乗る!」


「ふざけんな! 俺の背骨が折れるわ!」


「家が壊れるのと、お前が壊れるの、どっちがマシだ!」


「俺だよ! 俺の方が大事だよ!」


「失敗したら今月の給料なしだぞ! 借金の利息でマグロ漁船だぞ!」


「ッ!?」


この会社において「給料」という言葉は、いかなる呪文よりも強力な拘束力を持つ。俺の脳裏に、笑顔の会長と、借金取りのヤクザの顔が走馬灯のように駆け巡った。


「くっ……くそぉぉぉぉ!」


俺は涙目で大黒柱の前に四つん這いになった。プライド? そんなものは5000万円の借用書と一緒に燃やした。


「いくぞ新人! 歯ぁ食いしばれ!」


「優しく乗ってね! ぐえぇっ!?」


重い。桃の体重は軽いはずだが、彼女が持っている鉄塊のようなポリッシャーと金棒(隠し持ってた)の重さが、俺の脊椎にダイレクトに伝わる。

ミシミシと俺の骨が鳴る音が聞こえた。屋敷が壊れる前に俺が壊れる。


「とらえたぞ……汚物消毒ぅぅぅ!!」


桃が俺の背中を足場に、背伸びをするようにポリッシャーを高く掲げた。高速回転するブラシが、大黒柱に巣食う「顔」の眉間に押し付けられる。

断末魔のような音が響き、黒いヘドロが飛び散る。桃は繊細かつ大胆に、柱の繊維を一本たりとも傷つけず、表面の「癌」だけを削り取った。


「消滅確認! 掃除完了だ!」


桃が俺の背中から降りる。同時に、屋敷中に充満していた重い空気が、ふっと軽くなった。

柱にこびりついていた黒いシミも消え、本来の木目が現れる。成功だ。屋敷を壊さずに、汚れを落とすことに成功したんだ。


「やったな……俺たち、生きてる……腰が痛いけど……」


「ふん、チョロいもんだ」


俺たちが安堵の息をついた、その時だった。外から、サイレンの音が近づいてくる。パトカーだ。


「あ、通報された」


俺は直感した。住宅街の真ん中で、全裸に近いマッチョが奇声を上げてポージングしていれば、それは通報される。

むしろ今までされなかったのが不思議なくらいだ。


「む? 公権力の介入か! 私の筋肉に対する嫉妬だな!」


庭から社長の声が聞こえる。そして次の瞬間、ドタバタと駆け回る足音と、「確保ーっ!」という警官の声。社長がマッスルポーズを取りながら警官と向き合うために、高く跳躍した。

体重百キロ超えの筋肉ダルマが全力で地面を蹴ったその衝撃は、限界を迎えていた地盤にとって、最後の一押しとしては十分すぎた。


「あ」


「あ」


俺と桃が声を揃える。嫌な音が響き渡り、視界がゆっくりと傾いでいった。




「……どういうことですか、これは」


気絶から目覚めた依頼人が、目の前の光景を見て震える声で言った。除霊は成功した。屋敷の中は驚くほど清浄になり、カビ臭さも消え、爽やかな風が吹き抜けている。

だが、一つだけ問題があった。家が、物理的に傾いていた。ピサの斜塔もびっくりな角度で、右側に15度ほどズレている。


「あー、その、これはですね……」


俺が言い訳を考えようとした時、厳重注意を受けて解放された(服は着た)社長が、自信満々に歩み出た。

なお、駆けつけた警察は「クライシス・クリーンサービス」という社名を聞いた瞬間、青い顔をして「あ、関わりたくない……」と逃げるように去って行った。

ほんとに大丈夫かこの会社。公権力が逃げるってどんな悪名があるんだよ。


「ご安心ください、オーナー。これは『正常』です」


「は、はい? どう見ても傾いていますが……」


「見てください、この角度を」


社長は屋敷の前に立ち、再びスーツの上着を脱ぎ捨てた。またかよ。そして、自らの脇腹を見せつけるようにポーズをとる。


「この屋敷の傾き……およそ15度。これは、私の鍛え抜かれた『外腹斜筋サイド・アブドミナル』のラインと、完全に一致しています」


「は……?」


「つまり、この屋敷は私の筋肉と同じ角度に進化したのです。これは崩壊ではありません。成長ビルドアップです!」


俺は口をポカンと開けて見ていた。何を言っているんだこの人は。だが、社長の熱弁は止まらない。


「そう! 家も筋肉も、破壊と再生を繰り返して強くなる! この傾きこそが、強固な地盤と霊的守護を手に入れた証! これぞ『マッスル・アーキテクチャ』!!」


「まっする……あーきてくちゃ……」


「陰気な直立不動ではなく、常に前に進もうとするアグレッシブな前傾姿勢! オーナー、貴方の家は今日からマッチョハウスです!」


依頼人は涙目で社長の筋肉を見つめ、そして屋敷を見つめ……。


「な、なるほど……! 言われてみれば、この角度、力強さを感じます! 以前のような陰気さが消え、なんだか元気が出てきました!」


「そうでしょう! マッチョハウス万歳!」


「マッチョハウス万歳! ありがとうございます!」


……騙された。いや、あるいは霊的な瘴気が晴れたことで、依頼人の頭がハッピーセットになってしまったのかもしれない。

二人はガッチリと筋肉質な握手を交わし、桃は「終わったなら帰ってパンケーキ食おうぜ」と欠伸をしている。

俺だけが、傾いた世界の中で立ち尽くしていた。この会社、色々な意味でやっぱりダメかもしれない。



帰社後。事の顛末の報告を受けた会長は、高級ソファで足を組みながら、つまらなそうに言った。


「ふーん。家を傾けたの」


「すみません……俺がもっと上手く立ち回っていれば……」


「いいえ、褒めてあげるわ」


予想外の言葉に、俺は顔を上げる。会長は手元のタブレットで依頼人からの入金を確認しながら、ニヤリと笑った。


「『傾いた家』なんて珍しい物件、SNSで話題になっているわよ。おかげでウチの会社の名前も売れたわ。『どんな家でも筋肉で解決する』ってね」


「悪名しか広まってない気がしますが」


「悪名も名声よ。それに、依頼人も喜んでるんだから文句ないでしょ……ま、次はもう少し派手に壊してもいいけどね」


彼女の瞳の奥で、赤い光が揺らめいた気がした。俺は背筋が寒くなるのを感じながら、深く頭を下げる。


「……精進します」


こうして、俺の(借金返済のための)労働の日々は続いていく。傾いた家と、歪んだ常識と、筋肉に囲まれて。

普通の生活に戻れる日は、まだ遠い。帰り道、夜道を歩いていると、隣を歩く桃が話しかけてきた。


「おい、あのクソアマが褒めたって?」


「え、ああ。会社の名前が売れたって言っていたよ」


「ありえねぇ。あのクソアマが人を褒めるなんて天変地異の前触れか?」


「そこは素直に受け取ろうよ!」


桃は疑わしそうに眉をひそめる。彼女と会長の間には、俺の知らない因縁があるようだ。


「いや、あのクソアマのことだ。何かでっかい絶望を用意して、その前準備のためにこっちに希望を持たせているに違いない」


「まぁ会長だし……」


否定できない自分がいた。暴君を超えた暴君、御堂アリス会長。彼女がただの「良い上司」で終わるはずがない。

夜空を見上げると、月の中に彼女の嘲笑う顔が浮かんだ気がして、俺は身震いをした。

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