10.第十話
世界が白く染まった直後、俺の鼓膜を劈いたのは、爆発音ではなく、何かが「消滅」する音だった。空気が削り取られるような、不快な真空音。
俺――佐藤健太は、瓦礫の陰で目を開けた。土煙が晴れていく。目の前に広がる光景を見て、俺は呼吸を忘れた。
「……嘘だろ」
研究所の最深部。広大だった地下空間は、その半分が消し飛んでいた。壁も、床も、天井も。巨大なスプーンで空間ごと掬い取られたかのように、球状に抉り取られている。 その縁に、一人の少女が立っていた。
会長は日傘をさしたまま、退屈そうに欠伸を噛み殺している。その足元には、博士だったものが転がっていた。いや、「博士だったもの」ですらない。白衣の切れ端と、わずかな血痕だけが、そこに人間がいたことを証明していた。
「ガ、ア……アァ……!」
呻き声が響く。抉り取られた空間の中央、辛うじて残った地面の上に、「完成体」が這いつくばっていた。右半身が消滅している。再生能力が高いはずの肉体が、断面から炭化し、崩れ落ちていく。再生が追いついていない。いや、再生する端から「死」を与えられ続けているのだ。
「しぶといわね」
会長が、汚いものを見る目で完成体を見下ろした。
「流石は私のメイドのコピー。耐久力だけは褒めてあげる」
彼女はヒールの音を響かせて歩み寄る。完成体が、残った左腕を振り上げる。黒いエネルギーの刃が生成され、会長の細い首を狙う。速い。俺の動体視力では捉えきれない速度。
だが、乾いた音がして、黒い刃が霧散した。会長が、平手打ちで叩き落としたのだ。蚊を払うような手つきで。
「遅い」
会長が冷たく告げる。
「パワーはあるけど、出力の制御が雑。スピードはあるけど、予備動作が大きすぎる……採点する価値もないわ」
彼女は完成体の目の前に立ち、その顔を覗き込んだ。氷室先輩と同じ顔をした怪物は、恐怖に歪んだ表情で、ガチガチと歯を鳴らしている。
理性を持たないはずの生体兵器が、本能レベルで理解しているのだ。目の前の存在が、決して逆らってはいけない「捕食者」であることを。
「ア……ア……」
「お喋りもできないの? 品性がないわね」
会長が右手をかざす。その掌に、赤黒い澱みのような光が収束していく。
「もういいわ。飽きたもの」
それが、終わりの合図だった。必殺技の名前などない。詠唱もない。ただの「処理」。
会長の手から放たれた衝撃波が、完成体を飲み込んだ。断末魔の叫びすら上げることなく、怪物の肉体は細胞レベルまで分解され、塵となって空気に溶けた。
後に残ったのは、静寂と、少しの焦げ臭さだけ。
終わった。五年間、地下で脈々と続けられてきた狂気の実験は、たった一人の魔女の気まぐれによって、跡形もなく消滅したのだ。
もっともその研究が五年続いたのも会長のせいなのだが。
「……ふぅ。埃っぽい」
会長はドレスの裾を払い、クルリと振り返った。その表情は、散歩から帰ってきた少女のように晴れやかで、そして残酷なほどに無邪気だった。
「さ、帰るわよ。お腹空いちゃった」
俺たちは、言葉を発することさえできなかった。ただ、その圧倒的な「格の違い」に、魂が震えていた。
地上への帰還。夜明け前の空は、群青色に染まり始めていた。研究所の残骸(というか更地)を背に、俺たちは迎えの車に乗り込んだ。
行きの車内は、まだマシだった。これから戦場に向かう緊張感があったからだ。だが、帰りの車内は、地獄のような静けさに包まれていた。
運転席には神宮寺社長。助手席に俺。後部座席には、会長と氷室先輩、そして桃。誰も口を開かない。エンジン音だけが、虚しく響いている。
俺はチラリとバックミラーを見た。氷室先輩は、窓の外を流れる景色をじっと見つめている。その横顔は、いつものクールな美貌だが、どこか生気がない。まるでガラス細工のように、触れれば砕けてしまいそうだった。
無理もない。彼女は今日、自分の出生の秘密と向き合った。自分が人間ではなく、実験によって作られた「被験体」であり、数千の姉妹の死の上に立つ「唯一の成功例」であることを、俺たちに知られてしまったのだ。
「…………」
隣に座る桃も、気まずそうに膝の上の手を握りしめている。普段なら「腹減ったー!」とか「クソアマ!」とか騒ぐはずの彼女が、借りてきた猫のように大人しい。
彼女は氷室先輩を「お姉様」と慕っている。その姉が抱えていた闇の深さに、かける言葉が見つからないのだろう。
そして会長。彼女だけは通常運転だった。スマホをいじりながら、時折クスクスと笑っている。たぶん、博士が死ぬ瞬間の映像でも見返しているのだろう。この人の神経はどうなっているんだ。
いや考えない方が良い。会長の思考なんて誰も分からない。多分、分かるとしたら会長本人だけだ。
――重い。空気が重すぎる。比重の重い液体の中に沈められている気分だ。何か言わなきゃ。何か言葉をかけなきゃ。
でも、なんて言えばいい? 『気にしなくていいですよ』? 無責任すぎる。『先輩は先輩ですよ』? さっき言ったけど、今の空気じゃ薄っぺらい。
俺が冷や汗を流しながら葛藤していると、後部座席から小さな声が聞こえた。
「……申し訳、ありません」
氷室先輩の声だった。消え入りそうな、震える声。
「私の……個人的な事情に、皆さんを巻き込んでしまって」
「い、いや! そんなことないですよ! 業務命令ですし!」
俺は慌ててフォローする。
「それに、俺たち社員じゃないですか! 助け合うのは当然というか……」
「……違います」
氷室先輩は、俺の言葉を遮った。
「私は、人間ではありません……ただの、作られた人形です。貴方たちとは違う」
彼女は膝の上で拳を握りしめた。
「所詮は、会長に拾われた廃棄物……皆さんと並んで歩く資格など、最初からなかったんです」
その言葉は、拒絶だった。自分自身への、そして世界への拒絶。彼女は自分で自分に線を引いてしまった。ここから先は入ってくるなと。私は化け物側だからと。
車内が再び沈黙に包まれる。桃が唇を噛み締め、何か言いかけて、止める。会長は興味なさそうに欠伸をしている。少しは興味を持てよこのドS幼女。
ダメだ。このままじゃ、氷室先輩が壊れてしまう。何か。何か、この空気をぶち壊す方法は――。
「ええいッ!!」
突然、運転席から大声が轟いた。俺はビクッと飛び上がった。
「しゃ、社長!?」
「我慢ならん! 湿っぽいのは筋肉に悪い! 筋肉分解が起きてしまうわ!」
神宮寺社長がハンドルを握りしめたまま叫んだ。彼はバックミラー越しに、氷室先輩をギロリと睨みつけた。
「氷室君! 君の事情は聞いた! 実験体だの、廃棄物だの、確かに重い過去だ!」
「……はい」
「だが! そんなことはどうでもいい!」
社長がいきなりブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴を上げ、車が路肩に停車する。
「な、何やってんですか社長! こんな山道で!」
「見るんだ! 私の大胸筋を!」
社長はシートベルトを外すと、狭い運転席で身をよじらせた。そして。着ていた高級スーツの上着を、内側から筋肉を膨張させて弾け飛ばした。
ワイシャツのボタンが散弾銃のように飛び散り、フロントガラスにヒビが入る。
「うわぁっ! ガラスが! 弁償ですよ!」
「関係ない! 見ろ! この輝きを!」
社長は半裸(ブーメランパンツ一丁)になり、運転席で窮屈そうにダブルバイセップスのポーズを取った。
車内灯に照らされ、オイルでテカテカになった筋肉がヌラリと光る。
「……は?」
氷室先輩が、ぽかんと口を開けた。涙も引っ込むほどの衝撃映像。
「人間か、作られたものか、そんな定義になんの意味がある! 重要なのは『仕上がり』だ!」
社長が熱弁を振るう。
「私は人間だが、銃で撃たれても無傷だ! MRIに入れば機械を壊す! 医者からは『ゴリラと人間のハイブリッド』と診断されたこともある! だが私は気にしない! なぜなら、この筋肉が美しいからだ!」
「論理が破綻してますよ社長!」
「黙りたまえ佐藤君! 今は魂の話をしている!」
社長はポーズを変えた。サイドチェスト。狭い車内で、彼の右腕が俺の顔面にめり込む。
「ぐえっ」
「氷室君! 君が何で作られていようと、君は君だ! 君の淹れる紅茶は美味い! 君の事務処理は完璧だ! そして何より……君は我が社の優秀な『仲間』だ! 私の筋肉たちも君は仲間であると叫んでいる!!!」
社長の目から、サングラスがずり落ちる。そのつぶらな瞳が、真剣な眼差しで氷室先輩を見つめていた。
「過去など、筋トレ前のストレッチに過ぎん! 大切なのは、今、どれだけの重量(人生)を持ち上げられるかだ! ……違うか!?」
暑苦しい。物理的にも、精神的にも、猛烈に暑苦しい。車内の温度が五度は上がった気がする。
汗とオイルの匂いが充満している。だが。その暑苦しさが、凍りついていた空気を、強引に溶かしてしまった。
「……ふっ」
後ろから、小さな音が聞こえた。振り返ると、氷室先輩が口元を押さえていた。肩が震えている。泣いているのではない。
「……ふふっ、あはははは!」
彼女が、笑っていた。いつもの冷笑ではない。年相応の少女のような、屈託のない笑い声。
「なんですか、それ……滅茶苦茶です、社長」
「むっ、笑うな! 私は大真面目だぞ!」
「ええ、分かっています……本当に、バカですね。貴方たちは」
氷室先輩は目尻に浮かんだ涙を拭った。その顔からは、先ほどまでの悲壮感は消え失せていた。
「暑苦しいんだよ、筋肉ダルマ!」
桃が身を乗り出して、社長の頭をペシッと叩いた。
「狭い車内で脱ぐんじゃねぇ! オイルがつく!」
「なんだと桃君! 君も脱ぐか!? マッスル・コラボレーションといこう!」
「死んでも嫌だわ! ……でもまぁ、言ってることだけは、認めてやるよ」
桃はツンと顔を背けながら、ボソッと言った。
「人造人間だろうと何だろうと、私のお姉様であることに変わりはねぇしな」
「……桃」
氷室先輩が優しく微笑む。俺も、ため息をつきながら言った。
「そうですよ、先輩。俺なんて、中学時代の痛いポエムを握られてるんですよ? 先輩が人間じゃなかろうが宇宙人だろうが、その弱みを握られてる限り、俺は一生頭が上がりませんから」
「……ふふっ。そうでしたね、『頭痛が痛い騎士』さん」
「その名前で呼ぶな!」
車内に笑いが戻った。重苦しい空気は、筋肉の熱気と馬鹿話によって霧散した。
「……やれやれ。騒がしい連中ね」
ずっと黙っていた会長が、呆れたように呟いた。だが、スマホから目を離した彼女の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
「メイド」
「はい、会長」
「貴女が何者か、なんてどうでもいいのよ。私が拾って、私が『氷室澪』と名付けた……それだけで、貴女の存在価値は保証されているわ」
それは、彼女なりの最大の賛辞であり、所有宣言だった。神が土くれから人を造ったように、彼女は廃棄物から「氷室澪」という人間を造り上げたのだ。文句があるなら私を通せ、という絶対的な自信。
「……はい。光栄です、会長」
氷室先輩は深く頭を下げた。その表情は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「さあ、茶番は終わりよ。早く出しなさい筋肉。私はお腹が空いたわ」
「イエッサー! マッスル・ドライブ再開!」
社長がアクセルを踏み込む。車は再び走り出した。窓の外では、朝日が昇り始めていた。山々の稜線を黄金色に染め上げる光が、車内を明るく照らす。
数時間後。東京に戻った俺たちは、いつもの事務所にいた。徹夜明けの気だるさと、達成感(?)が漂う中、俺たちは朝食をとることにした。
「いただきまーす!」
コンビニで買ってきたおにぎりとサンドイッチ。なんてことのない食事だが、地獄のような一夜を越えた後だと、格別の味がする。
「んめぇ! やっぱシャバの飯は最高だな!」
「桃君、タンパク質が足りないぞ。私のサラダチキンを分けてやろう」
「いらねぇよ! パサパサするんだよ!」
いつもの喧騒。いつもの風景。氷室先輩は、自分のデスクでコーヒーを淹れている。その背中は、以前よりも少しだけ、頼もしく見えた。
「佐藤君」
ふと、氷室先輩が俺を呼んだ。
「はい?」
「……今回の件、残業代は申請しておきますね。深夜手当と、危険手当も含めて」
「えっ! 本当ですか!?」
「ええ。あと、貴方のポエムのデータですが……」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「サーバーからは消去しておきました」
「せ、先輩……! 一生ついていきます!」
「ですが、バックアップは私の個人USBに保存してありますので。これからも精進してくださいね」
「上げて落とすのやめてぇぇぇ!!」
俺の絶叫が響く。桃が爆笑し、社長がポーズを取り、会長がつまらなそうにテレビを見ている。
異常で、理不尽で、ブラックな職場。怪物たちが巣食う、魔窟のような会社。だけど。
「……ま、悪くないか」
俺は小さく呟いて、おにぎりを頬張った。ここが、俺の居場所だ。傾いた家も、雪山も、人工生命体も、全てを筋肉と暴力で解決する、クレイジーな掃除屋さん。
株式会社クライシス・クリーンサービス。本日の営業は、これにて終了。また明日も、きっとロクでもない依頼が舞い込んでくるのだろう。
俺は窓の外の青空を見上げ、深く、深くあくびをした。




