01.第一話
「逃げんなやあぁぁぁ!! ブチ殺すぞテメェェェ!!」
背後から、女子高生の怒号と共に業務用ポリッシャーの駆動音が迫ってくる。鼓膜を劈くような殺意の波動。だが、俺の頭の中は奇妙なほど冷静だった。
人の命は、地球より重いと言われているが、それは嘘だ。少なくとも現在の資本主義社会において、俺の命よりこの『時価5000万円の壺』の方が重いことは、火を見るよりも明らかだ。
「待てって言ってんだろ! 私のパンケーキ予約時間が過ぎるだろうが!」
「知るかよぉぉぉ!! 仕事とパンケーキどっちが大事なんだ!!」
俺は叫びながら、廊下の角をドリフト気味に曲がった。肺が焼けつくように熱い。
ふと振り返れば、本来は俺のバディである『桃』と呼ばれる女子高生が、数百キロはある鉄塊という名の業務用ポリッシャーを小枝のように振り回しながら追いすがってくる。
「パンケーキに決まってんだろ殺すぞ!!」
「理不尽んんん!!」
ダメだ、会話が成立しない。俺こと佐藤健太の人生は、どうやらスイーツの下に位置づけられているらしい。
求人誌には「アットホームな職場です」と書いてあったはずだ。まさかそのアットホームが、「物理的に(ホームを)破壊する」という意味だとは、夢にも思わなかった。
「ああもう!!! 気軽に応募するんじゃなかったぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
時間は数時間前に戻る。俺は昔から金運がないのか常に貧乏だった。多少のお金が入れば紛失するのは当たり前、下手すれば盗られることもあった。その上、俺には人にはないものが見えた。
それは『黒いヘドロ』だ。どういう訳か俺は吐き気の催す『黒いヘドロ』を見ることが多かった。それは視覚と嗅覚に大ダメージを与えることが多く、そのため俺はまともな仕事に就くことが出来なかった。
学校卒業後、アルバイトで何とか食いつないでいた。そんな中、求人誌に『時給二千円、体力に自信がある方希望。特に視力を求める』という募集を目にした。
すぐ飛びつくも仕方ないだろ?だって時給二千円だぞ?毎日モヤシで腹を満たす貧乏フリーターには飛びつかないわけがない。だが、その結果がこの様だ!!!
「君、この内容が分かるのかね?」
俺を面接したのは筋肉ムキムキのマッチョマンだった。身長は190センチ超、体重は100キロ以上。社長というよりは、武装した傭兵かSPに近い。威圧感が凄まじい。後、筋肉が暑苦しい。
「ええ、分かりますけど……『時給二千円、体力に自信がある方希望。特に視力を求める』、ですよね?」
俺は不思議に思いながらも、求人誌に書かれた通りの文言を読み上げた。すると、社長――確か神宮寺剛と名乗った男の、分厚い胸板がピクリと跳ねた。
「……素晴らしい。私の僧帽筋が『彼は本物だ』と囁いている。合格だ」
神宮寺社長はサングラスの奥で目を細め、俺の全身をねめ回すように観察する。そして突然、俺に対して謎のポーズをして「合格」と言った。面接じゃないのか、と思ったがその時の俺は高給バイトが決まって喜んでばかりだった。
「佐藤健太……佐藤君、これが見えるかね?」
「えっと、上腕二頭筋ですか?」
「うむ!!! 素晴らしい!! やはり私の筋肉が君を求めている!!!」
(何で!?)
上腕二頭筋を指さしながら凄く笑顔を浮かべる社長に俺はもはや理解が追いつかなかった。どうしよう、この人ヤバいかも……だがこの時の俺は時給二千円が惜しかったので逃げなかった。
今思えば逃げろという本能からの警告だったのだが、俺はそれを時給二千円で蓋をしてしまった。なぜ「視力」が必要なのか。なぜ社長の筋肉が判定を下したのか。
その求人広告が、実は『適性のある人間にしか文字が見えない特殊インク』で書かれていたことなど、知る由もなかったのだ。
「ではいくぞ!!」
「はい!!」
ひとまず仕事が何か知らないが、流石に移動中に説明があるだろう、と俺は思った。それが甘いと思ったのは十分もいらなかった。
「私の大胸筋が風を感じる!!」
「まともに運転してください!」
神宮寺社長はやはり会話が成立しなかった。ムキムキのポーズで運転し、赤信号で止まればポージングをする。煽り運転を喰らったが、社長が爽やか笑顔でポージングをしたら煽ってきた車がスッと消えていった。
分かる。俺なら絶対に近づきたくない。煽っている奴も冷静にさせる社長の不気味さはまさに無敵といえた。
「てか何処に向かっているんですか!」
「心配するな。私の三角筋が行くべき場所を告げている!」
「ナビを使ってください!! 今時スマホにすら入っているでしょ!」
「私の筋肉の方が正確だ!! これは道を間違えていないぞ!!!」
「何が!!!」
真っ赤なオープンカーは何処へ向かうのか、そして俺は何をするかの説明を一切受けないまま現場に向かっていた。駄目だこの社長、全てを筋肉に例えている。だが俺は文句を言えない。
何故かって、社長の腕……俺の足ぐらいあるんだぜ?殴られたら俺死んじゃうよ。それ以上に、この人は何言っても会話が成立しないので、何言っても無駄だと諦めているだけだがな。
俺は乾いた笑いをしながら景色を眺めるしかなかった。やがて車は郊外の豪邸の前で止まった。
「うわ、ドブクサい!」
傍目には静かな場所なのだろうが、俺の鼻にはドブとゲロを混ぜたような臭いが充満している地獄の場所だった。吐きそうなのを必死に耐える。
何となくだが下手な事をすれば損害賠償請求されそうだと思ったからだ。金の危険について俺は当たるんだぜ!
「ほほぅ、やはり君は素晴らしい。私の上腕三頭筋も『君を離すな』と叫んでいる」
その後、俺は神宮寺社長の上腕三頭筋と上腕二頭筋から求愛という名のホールドを喰らった。叫びたかったが叫ぶ余力もない。明らかに俺の顔を破壊出来そうな筋肉の暴力に俺は屈した。
豪邸の玄関まで行くと、顔色の悪い中年の男が出てきた。手には桐箱のようなものを抱えている。依頼人だろう。
「おお、神宮寺社長! お待ちしておりました! 例の壺が夜な夜な動き回って……もう限界でして!」
「うむ。任せたまえ。私の大胸筋が『全てを破壊せよ』と唸っている」
「は、はあ……破壊?」
依頼人が困惑しているが、社長は気にしない。彼から箱を受け取ると凄くよい笑顔を浮かべた。依頼人は困惑しながらも、これ以上箱のそばにいたくなかったのか、神宮寺社長が受け取ったのを確認するとそそくさと何処かにいった。
彼が何処かに行ったのを確認した神宮寺社長が、桐箱をあける。中には人間が一人入りそうな大きさの、古めかしい壺があった。神宮寺社長はそれを無造作に掴むと箱から取り出した。
「では後は任せた」
「えっ、俺ですか?」
「当然だ。今はちょうど、私の筋肉における『プロテイン・ゴールデンタイム』なのだ。重い物を持って筋肉を緊張させると、分解が進んでしまう」
「仕事しろよあんた!!」
俺は反論しようとしたが社長の威圧感と、何より壺が放つ強烈な悪臭に気圧され、反射的に壺を受け取ってしまった。そして俺は受け取って後悔した。
(なんだこれ……汚ねぇ……! いや、汚ねぇってもんじゃねぇ! なんでこんなに汚れているのに箱に入れていたんだ!!)
うげっと声が漏れたのは何故か、美しい装飾が施された壺の表面を、コールタールのようなドス黒い粘液が這いずり回っているのをはっきり見たからだ。ここまでどす黒いものが見えたのは久々だ。
そして壺の中から漂う異臭、俺は思わず壺の中にはきかけた。だが神宮寺社長の言葉が俺の吐き気を止めた。
「気を付けたまえ佐藤君、それは正確には分からないが時価で五千万は下らない骨董品だ」
「ごっ!! そんなもんを気軽に渡さないでくださいよ!!」
「落としたら君の時給では……まぁ死ぬまでには返せるだろう? だから心配するな、私の腹直筋も言っている、成せばなる、と」
「わかるかぁあぁぁぁぁぁぁ!!!!」
時価五千万という言葉に俺は汗が噴き出る。手が震えて今にも落としそうになっている。これは危険だ、俺は神宮司社長に押し付けようと思った。
だが「ヴィイイイイイイイイ!!!」という静かな高級住宅街に、似つかわしくない爆音が俺の動きを止めた。工事?と思って周りを見ると左の角から現れたのは、制服姿の小柄な女子高生だった。
街中で見れば十人中二十人が振り返るほどの美少女だ。俺も街中で見たら確実に四回は見る、それほど和風美人な女子高生だ。
ただし、その肩に身の丈ほどもある巨大な機械――業務用の床磨き機が担がれているのを無視すれば、だが。
「筋肉と新人かよ。澪お姉様は?」
「今日は桃君と佐藤君で仕事だ」
彼女、桃と呼ばれた女子高生は不機嫌そうにガムを噛みながら、俺を上から下までじろじろと見ていた。
「お前があたしのバディ……ねぇ?」
「えと、よろしく桃ちゃん」
「気安く話しかけるな殺すぞテメェ」
「理不尽!」
「てかコイツはどうでもよい。澪お姉様は何処だよ?」
「氷室君なら事務処理中だ。出発前に確認したが、現場は君たちに任せるとの事だ」
「はぁぁぁぁ!!!」
怒髪天を衝く、とはこの事かと俺は現実逃避をした。桃の眉間に青筋が何本も浮かんでいるが、それでも社長は笑顔をやめない。もうやだ、この仕事場。
「ふざけんなよ、今日この後、お姉様とパンケーキ食べに行く約束してんだぞ!? こんな足手まといがいたら残業じゃねぇか!!」
「ならば急ぐと良い。私の広背筋も君たちを応援している」
空気がビキリとひび割れた音が聞こえた、気がする。桃が凶暴な表情と視線で俺を、正確には俺が持っている壺を睨み付ける。
「……カビ臭ぇなその壺」
「え、あ、はい。結構臭いますね」
「だよな……なら汚れてるモンは、綺麗に掃除しねぇとなぁ!」
彼女は獰猛に笑うと業務用ポリッシャーのスイッチをONにした。昔掃除のバイトをしたから分かる。本来はスイッチを押したりレバーを握ったりして電源を入れるはずだ。
なのに彼女は赤いスイッチ一つで電源を入れた。俺の本能が警告する。アレから感じるのは掃除の気配ではない。
「ちょ、ま、待って! これ五千万……!」
「あ? カンケーねぇよ。そこに『汚れ』があるなら、全部落とすのが掃除屋だろ?」
ポリッシャーから、そして桃から感じるのは純粋なほどの殺意。俺の本能が、今日一番の大音量で「逃げろ」と警鐘を鳴らした。
「オラァ! その壺を床に置け! 『汚れ』ごと粉末にしてやる!!」
「ひいぃぃぃぃ!? 無理ぃぃぃぃ!!」
俺は壺を抱えて走り出した。こうして、冒頭の理不尽な『死の鬼ごっこ』へと繋がるのである。
――そして、時間は現在に戻る。
「逃げんなやあぁぁぁ!! ブチ殺すぞテメェェェ!!」
状況は変わらない。いや、さっきより悪化している。桃の振るうポリッシャーの回転数が、明らかに許容範囲を超えていた。
あれは掃除用具じゃない。回転鋸だ。俺の体なんて簡単に引き裂く、触れるだけで……死ぬ。
「待って! 待ってくれ桃ちゃん! 話を聞いて!」
「聞いてやるよ! 遺言ならな!!」
「違う! 『汚れ』だ! 壺全体を壊さなくても、汚れだけ落とせばいいんだろ!?」
俺は走りながら涙目で壺の表面を凝視した。恐怖で研ぎ澄まされたせいか、さっきよりも「それ」がハッキリと見える。壺全体を覆うドス黒い粘液、その発生源。
「底だ! 壺の底に『核』がある!!」
「はぁ? 底ぉ? あたしには見えないが?」
「あるんだよ!! そこを一撃で削り取れば、全部剥がれ落ちる! そうすれば掃除完了だ!」
俺はイチかバチか、最大の切り札を切った。
「掃除が早く終われば、パンケーキ屋の予約に間に合うぞ!!」
間に合う、その言葉に反応したのか背後の殺気が止んだ。
「……その核とかいう『汚れ』を落とせば間に合うんだな?」
「ここで嘘をついてどうする! 俺の命がかかってるんだぞ!」
「上等だ。違った場合はテメェの頭蓋骨で弁償させるからな」
桃が床を蹴った。一瞬で俺との距離が詰まる。今まで遊んでいたのかよ! と思いながら俺は底面を彼女に向けるように壺を掲げた。
「オラァアアアア!!」
桃がポリッシャーを突き出す。高速回転するブラシの先端が、壺の底、わずか数センチの「黒い点」に吸い込まれていく。衝突音はない。代わりに歯医者で聞くような高周波が響いた。
次の瞬間。壺を覆っていたドス黒いヘドロが、ガラスが砕けるように弾け飛び、霧散した。あとに残ったのは、一点の曇りもない、美しい骨董品の壺だけだ。
助かった。俺はへなへなと座り込みそうになるのを堪え、壺を抱きしめた。軽く触るが無傷だ。どこも割れていない。5000万を守り切った。
「本当にポリッシャーで除霊しやがった……別の意味ですげぇ」
「あたしを誰だと思ってんだ、『汚れ』は一つたりとも残さねぇぜ。それがプロの掃除屋ってもんよ」
桃はふん、と鼻を鳴らすと、ポリッシャーの電源を切った。今までどんよりした空気が霧散し、周囲の空気が澄み渡っていく。完全な仕事ぶりだ。
「汚染物質の除去を確認――掃除完了、これより撤収作業に移る」
彼女は事務的にそう告げると、肩に担いでいた数百キロの鉄塊を、無造作に床に下ろした。
まるで爆弾が落ちたような轟音が、静寂な廊下に響き渡った。緊張の糸が切れ、完全に油断していた俺の心臓が、早鐘のように跳ねた。
「ひょえ!」
驚いた拍子に、手汗で濡れていた指先が滑る。スローモーションになる世界。俺の手を離れ5000万円が、重力に従って落下していく。
数秒後、乾いた音が、やけに綺麗に響いた。俺の足元には、ついさっきまで5000万円だった陶器の破片が、無残に散らばっている。
静寂が場を支配、したように見えたが桃はスマホで時間を確認し、破壊された壺と、蒼白になった俺を一瞥した。
「んじゃ、私は定時なんで帰るわ。後片付け、よろしくー」
「あ、あの……?」
「澪お姉様とのデート楽しみだ-」
パタン、とドアが閉まる。残されたのは、粉々になった壺と、俺。
「あああああああああああああああああああ!!!!」
俺の絶叫は、誰にも届くことなく虚しく響き渡った。
「初日から派手にやってくれたわね」
あれから数時間後。俺は会社の一室で、豪奢なソファに座る少女と対峙していた。対峙ではない、俺は床で土下座していた。
見た目は小学生くらいの愛らしい美少女は、この会社の会長である御堂アリスだ。そして彼女の前にあるテーブルの上に置かれているのは請求書。
「除霊報酬は金一封で50万円。対して、君が破壊した壺の損害賠償は5000万円……計算できるわよね?」
「マイナス4950万……です」
土下座のまま俺は涙声で答える。
「正解。賢いおもちゃは好きよ」
会長は愛らしく微笑むと、二枚の紙を俺の目の前に放った。『借用書』と『労働契約書』と書かれていた。
「私が代わりに払ってあげる。その代わり、今日から君は私の『おもちゃ』よ。毎日私を楽しませなさい」
「は、はいぃぃ」
「無理なら他の方法を教えてあげるわ。そうね、最近は北海道のカニが美味しいわ」
「死ぬ気で働かせて頂きます!!!」
「そう? それから面白い事をすれば許すけど、十日つまらない事が続いたら利子は二割ね」
「法外!!」
「私を楽しませれば良いのよ。その間、利子はゼロよ。こんなに優しい条件、ないと思うけれどね」
地獄の二択だった。借金を一気に返すならカニ漁船、無理ならここで働いて徐々に返す。その間、目の前のドS幼女を楽しませなければならない。
それを怠れば十日で二割という、闇金も真っ青の利子がつく。悪魔だ、この幼女、悪魔だ。だが俺に反論する気力はなかった。
(明日、労基に逃げ込もう)
俺が震える手でサインをしようとした時、ポケットのスマホが震えた。通知画面には、さっき無理やり交換させられた『桃』の名前。
『てめぇが壺を割ったせいで、澪お姉様が始末書作成で残業になった。予約してたパンケーキ屋、ラストオーダー過ぎたんだが? 代わりにファミレスになった。ドリンクバーのココアは美味かったが、私は許さない』
文末にはひしゃげたスチールロッカーの写真が添付されていた。そして、最後の一文。
『明日、楽しみに待っていろ』
前面の魔王、後方の殺し屋、俺は現実逃避するかのようにスマホの電源を切った。
(明日、絶対に行こう。でなければ明日行くのは……地獄だ)
俺の決意は、夜のオフィスの闇に虚しく吸い込まれていった。




