プロローグ
私の名前は神谷契。
平凡なサラリーマンの私は、今日、死んだ。
死んだはずなのに、意識はある。
体はない。それでも、確かに「私」は存在していた。
その証拠に――私は今、空の彼方から地球を見下ろしている。
夜の都市が宝石のように瞬いている。
映画や写真で見たことは何度もあったが、実物は比べものにならないほど神秘的だった。
……これから、私はどうなるんだろう。
そんなことを考えていると、地平線から太陽が昇り始めた。
光に包まれる。
いや、正確には違う。実体のない私は、光をすり抜けているだけだ。
――ん?
太陽の中に、影が見えた。
目を凝らすと、それは人の形をしていた。
影は次第に大きくなり、こちらへと近づいてくる。
◆◆◆
光の中に現れたのは、白いローブを纏った老人だった。
白髪に長い髭。絵本に出てくるような、典型的な神の姿。
老人が腕を広げると、足元に水面が広がった。
私はその上に、ふわりと降り立つ。
沈まない。不思議と、当然のように。
「美しき魂よ、汝に選択の機会を与えよう」
穏やかで、威厳のある声。
「あなたは……」
「私は魂の管理者。本来は概念として存在するものだが、人の想像力によって姿を得た」
老人は微笑んだ。
「一言で言えば――神と呼ばれている存在だ」
「神様……本当に、いたんですね」
神は静かに頷く。
「さて、汝はこれより選択をする」
「選択?」
「一つは、魂の帰る場所。集合意識」
「集合意識……」
「すべての魂と記憶が溶け合う場所だ」
「……もう一つは?」
「異世界への転生」
「異世界……」
「人の想像力が形を得た世界だ。死後転生という概念もまた、そこから生まれた」
なるほど。
だから、こんなにも都合がいい。
「私も……そこへ行けるんですか」
「汝が望むなら」
しばし、沈黙。
異世界転生。
物語の中だけの話だと思っていた。
「行かない場合は?」
「集合意識へ還り、個は消える」
「……無条件で行けるんですか」
「契約を結ぶことになる」
その言葉に、胸がざわついた。
「異世界で何を望むかによって、契約内容は変わる。どうする?」
「……死んでも、契約ですか」
「縛られるのは転生後だ。集合意識を選ぶなら、何も求めぬ」
優しい声だった。
だからこそ、胸に刺さる。
「神様」
私は意を決して言った。
「私の話を、聞いてもらえますか」
「……うむ」
◆◆◆
私は四十二年間、日本で生きてきた。
ごく普通のサラリーマンだった。
毎日、満員電車に揺られ、上司と取引先に頭を下げる。
特別な才能はない。それでも、幸せだった。
妻がいた。
息子がいた。
「私の人生は、契約の連続でした」
雇用契約。
住宅ローン。
保険。
公共料金。
クレジットカード。
「契約があるから、家族を守れる。そう信じていました」
妻の名前は御先。
息子は悠人。七歳だった。
「でも、あの日――すべてが終わった」
交通事故。
加害者は、私がローンを組んでいる銀行の役員だった。
妻と息子は即死。
男は軽傷。
「裁判を起こしました。でも、負けました」
金と立場の差。
それだけで、結果は決まった。
名誉毀損で逆に訴えられ、家を失った。
保険も解約した。
気づけば、何も残っていなかった。
「私は、死のうとしました」
失敗した。
「病院で目を覚ました時、治療費の請求書を見て笑うしか無かった」
「最後に提示されたのが、臓器提供の契約だった」
「私は署名しました」
怒りも、悲しみもなかった。
ただ、虚しかった。
「数日後、私は死にました」
誰にも看取られずに。
「契約に始まり、契約に終わった人生でした」
◆◆◆
神は黙って聞いていた。
「……汝の無念、確かに受け取った」
「なら、願いを聞いてください」
「あの男に、天罰を」
神は首を振る。
「それは叶わぬ。私は管理者だ。干渉できるのは異世界のみ」
「……そうですか」
「では、選択を」
集合意識。
溶け合い、すべてを忘れる場所。
「……家族を殺した男も、そこへ行くんですか」
「すべての魂は、いずれ還る」
背筋が凍った。
あいつと、一つになる?
御先と悠人の記憶も、消える?
「……嫌だ」
私は顔を上げた。
「忘れたくない」
「二人がいた証を、消したくない」
沈黙。
「では、どうする」
私は、理解した。
生きるのが怖いのではない。
弱いまま、奪われるのが怖いのだ。
「異世界への転生を選びます」
「望みは」
「最強の存在に生まれ変わりたい」
「誰にも奪われず、契約すら踏み越えられる存在として」
神の目が、わずかに揺れた。
「……大きな望みだ」
「承知しています」
しばらくの沈黙の後、神は言った。
「よかろう。ただし条件がある」
「神に逆らわぬこと」
「神の使徒として、信仰を広めよ」
「逆らえば?」
「死の呪いを受ける」
……結局、契約か。
「構いません」
私は神の手を取った。
「では、契約成立だ」
水面が割れ、私は沈んでいく。
「汝は最強の存在として生まれよ」
意識が遠のく。
◆◆◆
目を開くと、空だった。
二つの月。
見知らぬ大陸。
私は降下していく。
森を越え、山を越え――巨大な洞窟へ。
新しい世界。
新しい人生。
もう、奪われない。
今度こそ、自由に生きる。
最強の存在として。




