第2話 混乱と衝撃と興奮
「おい……おい、アルデルト!大丈夫か!?」
頭の奥で、誰かが叫んでいる。
だが、意識はまるで水の底に沈んでいるようで、声はぼやけていた。
目が覚めた。
ぼやけた視界の先に見えたのは、煤けた鉄骨の天井。
油と錆が混じった空気。コンクリートの床がひんやりと冷たい。
「……うっ」
上半身を起こすと、すぐ傍に見知らぬ男の顔。
心配そうな表情を浮かべている。軍服の上から作業服を羽織ったその姿は、まさしくドイツの軍人だった。
「おい、しっかりしろ。医者を呼ぶか?」
「……大丈夫です。少し、目眩がしただけで」
自然に口をついて出たドイツ語。しかも、発音はネイティブそのもの。
違和感はある。だが、それ以上に不気味な感覚が襲ってきた。
(……ここは……どこだ?)
周囲を見回す。粗末な木の机、工具箱、分解された車輛のシャーシ。
そして、汚れた作業服を着た男たちが数人、何事かと伺うように、こちらを見ている。
「少し顔を洗ってきます……」
「トイレは廊下を出てすぐ左だ。無理するなよ」
礼を言い、ふらつく足取りで廊下へと向かう。
壁に貼られた掲示物や張り紙の字体も、どこか古めかしい。
さらに、建物の外まで響く重厚な機械音が、混乱した脳内に重くのしかかる。
ようやく洗面所にたどり着き、蛇口をひねって顔を洗う。
冷たい水が、ぼやけた思考を少しずつ澄ませていく。
落ち着きを取り戻しかけたその時、ふと鏡に映った、自分の顔に目が留まった。
(……誰だ、これ)
金髪、青い目、彫りの深い顔立ち。
毎朝、義務のように洗面台の鏡で確認していた、平たい顔ではなかった。
手を上げる。鏡の中の男も同じ動きをする……当然だ、鏡なのだから。
(これは夢なんかじゃない!)
呼吸が速まる。心臓の鼓動がやたらとうるさい。
「……落ち着け、まずは落ち着け……」
視線を落としたとき、洗面台の横に置かれていた新聞が目に入った。
手に取り、日付を見た。
1939年11月12日と書かれている。
(……1939年……?)
手が震える。
記事の見出しには「大戦果」の文字。
鉄製のヘルメットを被り、ドイツ軍の軍服に身を包んだ兵士たちの写真が添えられている。
確信はない。だが、元いた時代でないことは明らかだった。
混乱しながらも、直感で理解する。
(俺は……時代を越えて、別の誰かになっている)
思考がようやくはっきりしてきたその瞬間、突如として脳内に見覚えのない記憶が雪崩れ込んできた。
鋭い頭痛が襲うも、数分で静かに引いていく。
そして、最初に脳内に浮かび上がった記憶は、今の自分の名前だった。
ギュンター・パウル・アルデルト。
この時代に来る前に、興味を持って探り続けていたその人物。まさに、その名だった。
(ギュンター・パウル・アルデルト……俺が?)
信じられなかった。だが、脳内に刻まれている記憶は嘘ではない。
兵器局での勤務、同僚たちの顔、日々の業務内容。ギュンター・アルデルトとしての情報が染み込んでいた。
(まさか……俺が追っていたあの……本人になるなんて……)
呆然としたまま、鏡の中の金髪の男、自分を見つめる。
正気を保っていられるのが不思議な程だった。
(これは……もしかしてチャンスなんじゃないか?)
この時代の歴史を知り、ギュンター・アルデルトの足跡を調べ続けてきた勝流にとって、これは奇跡に等しい出来事だった。
だがその一方で、焦燥がじわじわと胸を蝕む。
(この時代は、間違いなく地獄に向かっていく。のんきに歴史探訪してる場合じゃないぞ)
ふと、トイレのドアの外から誰かの声がした。
「おいアルデルト、大丈夫か? 具合が悪いなら、今日は上に報告して早退してもいいんだぞ」
声の主は、記憶の中にある人物と一致した。エアハルトだ。
ギュンター・アルデルトの直属の上官であり、親しみのある人物。
アルデルトの記憶によれば、兵器局に配属された当初から、よく世話を焼いてくれる先輩らしい。
もちろん、歴史の資料にはそんな人物の名前はない。というか、資料そのものがない。アルデルトが生まれてから兵器局に入るまでの経歴は、何ひとつ記録を見出せなかったのだ。
此出勝流――ギュンター・アルデルトは、深く息を吐き、ドアに手をかけた。
「おぉ、大丈夫かアルデルト」
「大丈夫です。少し寝不足で……ご心配をおかけしました」
「そうか、ならいいが……まったく、お前は真面目すぎるんだ。あんなポンコツ車輛相手に、夢中になりすぎるなよ」
「はは……気をつけます」
口ではそう言いながらも、ギュンターの頭の中には、そのポンコツと評されたその戦車の名前が、はっきりと浮かんでいた。
Ⅰ号戦車。
性能こそ決して誉められるものではなかったが、その車体構造や機構は、後のドイツ戦車開発における技術的系譜に、重要な影響を残している。
まさに、ドイツ戦車の土台を作ったと言っても過言ではない。
もちろん、勝流はこの時代に来る前から、Ⅰ号戦車の持つ意義と功績、そして偉大さを理解していた。
(こんな機会、逃す手はない。構造も実働状態も、生で見られるんだ)
興奮がこみ上げてくる。
自分が、この時代の技術者として、この場にいるという現実。
エアハルトが肩を叩いてきた。
「ま、今日は軽めに済ませよう。お前が倒れると、また書類仕事が増えるからな」
「了解です」
アルデルトは笑って答えたが、内心では別の決意を固めていた。
(俺はこの時代で、生きていくしかない。そして……あの兵器の真相に辿り着いてみせる)
謎多き兵器、アルデルト・ヴァッフェントレーガー。
誕生した経緯、思想、失われた構想図。
全ては、この世界のどこかに存在している。
俺がそれを掘り起こす。
そして、あの真相不明の逸話を、自分自身で見届けるんだ。
真っ当な社会人だった此出勝流の、ギュンター・アルデルトとしての物語が、静かに動き始めた。