あなたの知らないわたし
シェリルは見つめていた。
視線の先には三人の人物がいる。
豊かな美しい金色の髪に美しい青い瞳、シミひとつない真っ白な肌に桃色の唇は嬉しそうに微笑んでいる。
その正面にいる人物もまた美しかった。陽の光に輝く銀色の髪に銀の瞳、少し華奢な印象はあるもののとても美しい男性だ。
そしてそこから少し距離をとるようにして、しかしその二人を微笑ましく見つめる人物。烏の濡れ羽色の真っ黒な髪は精悍に整えられ、紫色の瞳は切れ長で少し冷たい印象を受ける。よく鍛えられた体躯は騎士のものだった。
彼らはこの国の主要人物達だ。政治的な意味合いもそうだが、今巷の乙女達の間でも非常に話題になっていた。
この国の第一王子である銀色の貴公子ルーファス、そしてその側近で幼馴染の黒髪の騎士ヴィンセント、その二人の中心にいる伯爵令嬢アイリス。
アイリスは伯爵令嬢といえど愛人の子であり平民の血を引いている。しかしその美しさや刺繍の腕の良さで王子や他の高位貴族の男性陣の心を射止め、ついにはルーファス王子の婚約者に決定したというそのサクセスストーリーによって話題になっている。
平民からの人気はもちろん、貴族達からも教養があると支持されていた。
もちろん、批判的な貴族、特に若い女性からは節操がないという陰口は存在する。
しかしそのような悪評が陰口にしかならない程度の支持を大勢の人々から得ていた。
というのも、この国では女性は刺繍の腕が良い者ほど尊敬を受ける。身につけるものに自らの手で刺繍をほどこし、それが美しく精緻であればあるほど教養があり素晴らしいとされるのだ。
事実、彼女が今身につけているドレスもとても素晴らしいものだった。
薄桃色のドレスには白い糸で花や蝶、鳥の刺繍がほどこされ、それが陽の光の加減によりきらきらと輝く。刺繍は目立たない色で、しかし全身にほどこされており、一見シンプルながらも手がかかっているのがわかる一品だ。
とても美しいドレスだ。シェリルもそう思う。
だってあのドレスはシェリルが作ったものなのだから。
燃えるような赤毛をおさげに編み込み、その青い瞳に涙を浮かべながらシェリルは視線の先の腹違いの義姉を見つめた。
シェリル・トリスタンはトリスタン伯爵家の長女として生まれた。
しかし父と母の仲は悪く、シェリルが父親に可愛がられることはなかった。
そしてそんな中、シェリルの母親が亡くなり、父親が愛人を後妻にすえ、その娘であるアイリスが長女としておさまることになった。
ある日突然できた継母と義姉に驚く間もなく、それまでシェリルのものであったものはすべて義姉に奪われた。
日当たりの良い部屋、母から譲り受けたネックレスなどの装飾品、そば付きのメイド達もほとんどがアイリスへとつけられ、シェリルの元に残ったのは乳母とその娘であるメリアだけだ。
そしてシェリルが作ってきた作品も。
アイリスが来てからシェリルは社交の場にもほとんど出られず屋敷の隅の方の部屋で刺繍をして過ごしていた。時間だけはありあまるほどあるのでその腕はめきめきと上達した。そしてある日なぜだか部屋を訪れたアイリスが言ったのだ。
「あら、そのドレスいいじゃない。わたしにぴったりだわ」
それまで両親からの愛情はあったとはいえ、貴族としての教育を受けてこずその教養のなさを周囲に指摘されていたアイリスは、そのシェリルのドレスを身につけたことで一夜にして称賛を浴びる立場へと変わった。
そしてそれに味を占めたのだろう。
シェリルの作るドレスやハンカチ、リボンなどをたびたび強奪していくようになった。
父にそれを訴えたが無視された。
継母など言わずもがなだ。
刺繍をしないでおけばいいと作ることをやめたら頬を張られ暴言を吐かれた。
「言うことを聞かないならいますぐこの家から追い出してもいいのよ!」
そう言われ、当時10歳だったシェリルは逆らうことができなかった。
言われるがままに義姉の求めるものを作り、差し出してきた。
その結果が『これ』である。
義姉と第一王子の婚約。
シェリルは目元をハンカチでぬぐった。そしてそのままハンカチをポケットにしまおうとして取り落とす。
「誰だ?」
そのわずかな物音にヴィンセントが反応した。彼は腕の良い騎士で王からの信頼も厚い。
シェリルは落ちたハンカチをそのままにその場から逃げ出した。
ヴィンセントはその場に落ちていたハンカチを拾った。
(今のは……)
赤毛のおさげに青い瞳の少女が逃げ去る姿がヴィンセントにはしっかりと見えていた。
その瞳に浮かんでいた涙も。
拾ったハンカチに目を落とす。それは精緻な柄が刺繍された見事なものだった。意匠は花や蝶だ。
(さすがはアイリス嬢の妹なだけはある)
アイリスの妹のシェリルは社交嫌いと評判であまり表舞台には出てこない。しかしその姿をデビュタントで一度だけ目にしたことがあった。
道に迷っている様子なので声をかけたのだ。
しばらくその当時のことを思い出しつつその見事な刺繍を感心しながら眺めていると、そのハンカチの隅にいる蝶が目に止まった。
それは一見するとただの美しい蝶だが、よくよくみると「S」の字が浮かび上がってくるイニシャルを縫ったものだった。その部分だけが強調されるように異なる糸で縫われている。
「ヴィンセント、何事だ?」
そうルーファスが問いかけてくるのにヴィンセントは思わずそのハンカチを隠した。
「いや、ただの野良猫だったようだ」
「あら、どんな可愛い野良猫かしら? わたしも見てみたかったわ」
にこにこと可愛らしく微笑んでアイリスが言う。
「ああ……」
しかしヴィンセントは笑えなかった。
彼女のドレスには見事な刺繍がほどこされている。鳥や花、そして蝶の刺繍が。
ハンカチに縫い付けられていた「S」のイニシャル。それまでは気づかなかったが、ハンカチを見た後ならばわかる。
微笑むアイリスの身に纏うドレスには、たくさんの「S」の文字が踊っていた。
「お、お嬢様っ! 大変です!!」
その知らせは唐突に訪れた。
そば付きのメイドであるメリアがばたばたと駆けつける。
「どうしたの? メリア」
シェリルは手元の刺繍から目を離さずに尋ねた。その視線を遮るようにメリアはずいっと一枚の手紙を差し出してくる。
それはシンプルなけれど上質な封筒だった。受け取ると香が焚かれているのかわずかにさわやかな香りがする。
そして押された封蝋の紋章は見覚えのあるものだった。
「これ! ヴィンセント様からです!!」
「そうみたいねぇ」
興奮気味に言うメリアにシェリルはそっけなく返す。それに彼女は怪訝そうな顔をした。
「驚かれないんですか?」
「十分に驚いているわ。こんなに早いなんて」
なにせ『覗き見ハンカチ落とし事件』から3日しか経っていない。
シェリルは封筒を矯めつ眇めついろんな角度から眺めた。
「なにをなさっているんですか? お嬢様」
「中身が透けて見えないか試しているのよ。さすが伯爵家の封筒。全然透けないわ」
「そんなことなさるくらいなら素直に開けて中身を確認してください」
「あら、メリア、あなたなんてことをいうの」
シェリルは封筒から目を離すとメリアのことを真剣に見つめた。
「中身がなにか怖いから先に妄想をして楽しんでいるんじゃないの。中身を知る前にしかできない素敵な遊びよ」
その封筒を摘む手はよく見るとわずかに震えている。
メリアはその言葉に呆れてため息をついた。
「お嬢様。動揺されているならもう少しわかりやすくうろたえてください」
「いやよ。それよりこれどうしようかしら。とりあえず棚の上にでも飾っておく?」
「開けてください」
シンプルに一刀両断されてシェリルはしぶしぶナイフを手に取った。それで封蝋を丁寧に剥がす。
「あら見て、とても綺麗に開いたわ。今日は運がいいからこのまま出かけようかしら」
「お嬢様!」
往生際悪く抵抗するとさらに強い口調で言われた。シェリルは仕方なく手紙を開く。
(だって中身がとんでもない内容だったらどうするの?)
まさかあの公明正大なヴィンセントに限ってないとは思うが、もしも姉に関する頼み事でもされた日にはシェリルは失神する自信がある。
初めて出会った日。デビュタントにも関わらず姉の作った下手なドレスを着せられ両親にも放置されて道に迷い、一人途方に暮れるシェリルに優しく声をかけてくれた時から憧れだったのだ。
ドレスの刺繍が不恰好で恥ずかしいと泣くシェリルに、彼は「一生懸命作ったことが大事だ。努力を笑われることがあればすぐに駆けつけて相手をいさめてやる」と言ってくれた。
そして彼はダンスに誘ってくれたのだ。そのおかげでシェリルは一人ぼっちで恥をかくこともなくデビュタントを終えることができた。
そんな彼に、もしもとんでもないことを言われてしまったら。
シェリルはごくりとひとつ唾を飲み込むと、できる限り薄目で折りたたまれた手紙も薄ーく開けてその隙間から覗き込むようにして中身を見た。
「お嬢様、なんて書いてありました?」
「……読めないわ」
「そんな見方をしてるからです! もうっ!」
メリアはふがいない主人から手紙を奪い取ると中身を見た。そして目を見開く。
「……なんて書いてあった?」
両目を手で覆いながらシェリルは尋ねる。それに喜色満面の笑みを浮かべながらメリアは「お嬢様!」と声を弾ませた。
「面会の申し込みです! お嬢様とお話がしたいそうです! これはもしかしたらデートのお誘いでは?」
シェリルの視界は真っ暗になった。用件がわからないからだ。
何を言われるかわからない恐怖は次の機会へと持ち越しとなった。
数日後、シェリルは覚悟を決めてヴィンセントからの呼び出しに挑んでいた。
本日はお忍びでの外出である。いつも通り義姉の仕立てた下手な刺繍の施されたドレスでこそこそと馬車に乗り込む。
ヴィンセントがうまいこと取り計らってくれたのか義姉は外出中で、勘ぐられることもなくスムーズに出かけることができた。
そうして手紙に書かれていた待ち合わせ場所である庭園へとシェリルは足を踏み入れた。
ここは最近開設された国営の植物庭園だ。全面ガラス張りで出来ており、貴族達の社交場のひとつとなっている。
おそらくお互いの屋敷に出入りするのは婚約者のいないシェリルに悪いだろうという配慮だ。ここならば一緒にいるところを目撃されたところで偶然会って話していたで誤魔化せる。
彼は庭園の隅、白百合の咲き誇るエリアのベンチのそばへと立っていた。
シェリルが近づくとすぐに気づき、そして彼自身は立ったままシェリルにベンチへ座るよう促す。
「…………」
シェリルはおずおずと促されるままベンチへと腰掛けた。
「今日は来てくれて感謝する」
「いえ、あの……」
『ご用件は?』などと自分の首を絞めるようなことはとても口に出せず口籠る。その様子にヴィンセントはそっとある物を差し出した。
「…………っ!!」
「これはあなたが落とした物で間違いないな?」
疑問形を取ってはいるが、それは紛れもない断定だった。
ハンカチだ。
あの日落としたハンカチを、彼が拾っていた。
「えっと、それは……」
もごもごと口ごもる。
もしも彼が拾ったハンカチを返すだけならばシェリルを呼び出す必要などない。義姉に渡すように頼めばいいだけである。
けれど彼はそうせず、これを今差し出している。
さもこれが重要機密かのような険しい表情で。
「このハンカチの刺繍は見事なものだ」
彼は静かにそう言った。
「まるでそう、アイリスの刺繍のように」
その言葉に、彼は気づいたのだと確信した。
アイリスの刺繍のカラクリに。
「……説明してくれないか」
その押し殺した声に、けれどシェリルは答えられなかった。恐れるように周囲を横目で見回す。
その視線の意図を察したのだろう。彼は「アイリスなら今は王宮だ」と告げた。
「殿下に頼んで予定を教えてもらった。……理由までは伝えていないが、君の返答次第で伝えねばならない」
「…………」
「シェリル嬢」
それでも口を開けないシェリルに、彼は言う。
「ならば話さなくていい。俺の考えを今から話す。それが合っていたら頷いてくれ」
その言葉にシェリルは顔を上げた。ヴィンセントのまっすぐな眼差しとぶつかる。
「君は、アイリスの代わりにドレスを仕立てていた。君の今着ているドレスはアイリスが作ったものだな?」
「…………」
シェリルは無言で頷いた。
ヴィンセントはため息をつく。
「なぜそのようなことを? 強要されているのか?」
シェリルは再び頷く。
「アイリスに?」
「……義姉にも、父にも、継母にもです」
なんとか絞り出されたその言葉に、彼は額をおさえた。
「なんてことだ。それが本当ならとんでもないことになるぞ。彼女は殿下を謀ったのか」
「ヴィンセント様、どうかこのことは……」
「なぜ?」
黙っていて欲しいと伝える前に彼はそう尋ねる。
「君にとってもこのままが最善ではないだろう」
シェリルは唇を噛み締める。
「……バレたら、義姉達はどうなりますか?」
「婚約破棄は当然だが、倫理に反する行いによって信頼は地に落ちるだろう。君の父上の立場の降格は免れまい。アイリスにも次の縁談の話はないだろう」
「…………」
「この期に及んでかばうのか?」
少し表情を緩め、なだめるように彼は尋ねる。
「……それでも家族なんです」
囁くようなかすれ声で告げた言葉に、彼は首を横に振った。
「君は優しいな」
「…………」
「しかし間違いは正されなくては」
「……バレれば、わたしも折檻されます」
その言い訳じみた訴えに、彼は子どものわがままをなだめるように笑う。
「そうならないように手は打つ」
「……え?」
驚くシェリルに、彼は優しく微笑みかけた。
「どういうことなの!?」
その翌日の朝、トリスタン家にアイリスの雷が落ちた。
「あのグズのシェリルがヴィンセント様と婚約だなんてっ!!」
「本当よねぇ、一体どんな小狡い手を使ったのかしら」
それに母は同意するように眉をひそめる。
「まぁまぁ、二人とも落ち着いて。理由はわからないが家柄的に繋がりを持てるのはいいことだ。あんなのでも我が家の役に立ったんだよ」
父親のガルドはそう言って二人を宥めた。
事の始まりは早朝だ。突然訪ねてきたヴィンセントがいきなり婚約の話を持ってきて、ガルドのことを勢いで押し切るとそのまま「家の教育があるから」とシェリルのことを連れ去ってしまったのだ。
まだ起きていなかったアイリスは今その話を聞くことになったのだ。
(ヴィンセント様! なんでシェリルなんかと!!)
ルーファス王子のことは当然愛している。その地位も美貌も性格も申し分のないお気に入り第一位である。しかしヴィンセントのこともアイリスはお気に入りだった。それこそ立場上体の関係は持てなくとも側で抱えこんでおきたかったのだ。
(それをあのシェリルにかすめ取られるなんて!)
アイリスには許しがたいことだ。
しかし許しがたいとはいえヴィンセントにそれを訴え出ることなど出来はしない。猫をかぶっているアイリスはシェリルのこともルーファスとヴィンセントの二人の前では「可愛い義妹だ」と仲良しアピールをしていた。
ここは表面上は喜んでおかなくては不自然だ。
(……まぁ、いいわ)
ふん、と鼻を鳴らす。
どうせシェリルはアイリスの言いなりなのだ。ならば頃合いを見てシェリルから断らせるなり、ヴィンセントに愛想を尽かされるような悪事をでっちあげればいいのだ。
(そうだわ、そして傷心のヴィンセント様をわたしが慰めてあげるの)
良い思いつきにアイリスは機嫌を直した。
彼女はまだ事態を甘く見ていたのである。
その日からシェリルとアイリスが顔を合わせる機会はぐんと消えた。
なにせ「花嫁修行」と称して朝早くから夜遅くまでシェリルは連れ去られてしまうのである。
それに対してアイリスは「ヴィンセントが婚約者でなくてよかった」と胸を撫で下ろした。
これだけ頻繁に呼び出されるということはそうとう厳しく教育されているに違いないのだ。ルーファスの婚約者としてアイリスも王宮に呼び出しを受けることがあるが、妃教育としての授業などはほぼ聞き流していたし、教師達はみんな甘かったのでアイリスがけなげに振る舞えば簡単に懐柔することができていた。唯一ルーファスの母である現王妃は厳しかったが、二人きりになることはなく、ルーファスが間に入ってとりなしてくれていた。
アイリスがルーファスに王妃と二人きりになりたくないと頼んだからである。
他にも厳しい人たちとの接触は理由をつけて避けていた。教師達の中で気に入らない人間は虐待をでっちあげて追い出したこともある。
おかげで今は悠々自適だ。
シェリルに会って事情を問い詰められないのは残念だが、それは少しいい気味だとアイリスは笑った。どうせ夜には部屋にいるのだから必要になるまで放っておこうぐらいの気持ちだ。
そうして、ほとんど会わないままある舞踏会の日を迎えた。
「シェリル! シェリルはどこ!?」
その日、アイリスは朝から金切り声をあげていた。
「お、お嬢様、シェリル様は先ほどヴィンセント様がお迎えに……」
「なんですって!?」
アイリスは目を吊り上げる。
「わたしのドレスはどこにあるのよ!?」
そう、今夜着ていくドレスがどこにもなかったのだ。
いつも何も言わずともシェリルはアイリスのドレスを用意していた。もしかしたらシェリルは自分用に仕立てていたつもりなのかもしれないがそんなことはアイリスには関係ない。とにかくシェリルの部屋に当日押し掛ければ彼女の美しいドレスがいつだって用意されていたのだ。
それがない。
どこを探してもないのだ。いつも1〜2着は並行で新しいドレスができているというのに、シェリルの部屋にあるのはアイリスが過去に押し付けた下手な刺繍のドレスだけだった。
しかし問い詰めようにも本人はいない。
(ヴィンセント様に言って帰してもらう? ……いいえ)
それはあまりにも不自然だ。それこそアイリスが今夜舞踏会に出られなくなるほどの何かでも起きない限りそのような無作法はさすがにできない。
しかし舞踏会は欠席したくない。しかし舞踏会に参加するためにはシェリルを連れ戻してドレスを用意させる必要がある。
アイリスはイライラと爪を噛んだ。
夜になり舞踏会の会場へとアイリスは向かった。しかしその足取りは重く内心では怒りが燃え盛っている。
結局あの後シェリルを連れ戻すことなどできず、過去のドレスを引っ張り出してきたのだ。
(今年の始めのドレスだからみんな覚えていないわ!)
そう自分に言い聞かせることしかできない。一応アクセサリーや小物はアレンジをきかせ、前回とは多少印象も変えている。
数年前のドレスはさすがにサイズが合わず、泣く泣く着れる物を選んだのだ。
「アイリス」
「ルーファス殿下!」
馬車を降りてすぐ、会場の前で声をかけられてアイリスはすぐに表情を取り繕った。
銀色の髪に銀の瞳を持つ彼女の婚約者は、今日もとても素敵で輝いている。
しかしいつもは屋敷に馬車を回して一緒に会場入りするはずなのに、今日は公務が忙しいとかで迎えには来てくれなかった。それだけが不満だ。
「もう、わたしとっても寂しかったわ。一人で会場まで来るなんて何年ぶりかしら」
小さく唇を尖らせて拗ねてみせるが、
「ははは、すまない。どうしても外せない用事があってね」
といつも通り柔和だがどこかそっけない。
(……? 一体……)
どうしたのだろうと内心で首をひねっている間に、
「今日はそのドレスなんだね」
と彼はアイリスの姿を見て言った。
今のアイリスは真っ赤なドレスを身に纏っている。金色の糸で繊細な花と蝶の刺繍がドレス中を大胆に飛び回る派手な物で、ウエストには黒いリボンが結ばれている。以前着た時はウエストのリボンは藍色で鳥の羽のような金の刺繍が施され、パールの飾りのついた物だったが、アレンジでシンプルな黒のリボンに変えたのだ。……それしか替えがなかったとは言えない秘密だ。
その他髪の飾りやアクセサリーも黒で統一し、ショールの色も黒だ。多少地味になってしまったが仕方がない。
アイリスは微笑みを浮かべ、「ええ」といつものように頷こうとして、
「確か今年の春にも着ていたね。とても斬新なデザインだったから覚えているよ」
と続けられた言葉に表情を失った。
「あ……、えっと……」
「リボンとショールも変えたのかな? あれは古い伝記に出てくる春を告げる鳥を表現した刺繍と色彩だったと記憶しているけれど、ずいぶんシンプルになったね」
「…………」
そんなことは知らない。
古い書物などアイリスは読まないし何をモチーフにしたかなどいままでシェリルに聞いたこともなかった。
黙り込み何も言えないアイリスの様子をしばらく眺めた後、ルーファスは微笑みを浮かべて手を差し出した。
「そろそろ行こうか。今日は重大な発表があるようだから遅れられない」
「え、あ、そうなのですね。では急がないと」
その言葉に助け舟とばかりにアイリスは飛びついた。
誤魔化すことに必死な彼女は、だから彼女を見つめるルーファスの目がかつての熱を失い冷め切っていることにも気が付かなかった。
*
舞踏会は厳かに開始した。
いつも通りルーファスにエスコートされ入場したアイリスは、しかしいつものような称賛の声ではなく息をひそめるような囁きの中会場へと入った。
(なに? 一体なんなのよ!?)
あからさまなそれに表情は引きつりかけるが、なんとか笑顔を保つ。
「ねぇ、あのドレス……」
「アイリス様らしくないわね」
「あれって春に着ていた……」
「春告鳥……」
やがて聞こえてきた囁き声にアイリスの頬は真っ赤に染まる。
(ばれてる……っ!!)
一回ぐらいの着回しは大丈夫だろうと思ったドレスがバレているのだ。
それもそのはずだった。アイリスはその見事な刺繍の腕で名を馳せ、ファッションリーダーのような存在だった。彼女のドレスはいつだってみんなに注目されているのだ。
見て覚えたドレスを後から絵に描き起こす猛者までいるほどだ。
下手をすればそれが流行になったりもする。そのためアイリスにとっては「一回」でも他の人にとっては何度も目にする機会があるのだ。
いつもではありえないざわめきの中、アイリスはそっと目を伏せた。
(シェリル……っ!!)
しかしこの期におよんで彼女の中では妹に対する怒りが燃えていた。人の手柄を奪う自分のことは棚に上げて肝心な時にいなかった妹に理不尽にも怒りが向かう。
(許さないわ!!)
こんな屈辱は初めてだった。
帰ったら一体どう折檻してやろうかと内心で考えていると、再び会場の扉が開かれた。
「ヴィンセント様、シェリル様のご到着です!」
入場のたびに誰が来るのかを皆に知らせてくれる門番がそう告げながら扉を開くのにアイリスは思わず顔を上げた。
そして再び表情を失う。
そこには真っ黒なタキシード姿の凛々しいヴィンセントにエスコートされた、水色の妖精のようなドレスを着たシェリルの姿があった。
周囲が歓声にざわめく。
「あれって……」
「なんて素敵なドレスなのかしら?」
「秋に恋に落ちた水の妖精がモチーフなのね!」
「見てちょうだい、あの繊細で緻密な刺繍! あんな子いたかしら?」
あの見事なドレスの少女は一体誰かという話題で会場中が満たされる。
その中で、「あのドレス、まるでアイリス様が作られるものみたいね」という声がした。
ぎくり、とアイリスは身をすくませる。
周囲の視線がアイリスに突き刺さる。
「あらまぁ、ほんとに……」
「待って? 『シェリル様』って、確かアイリス様の妹君の……」
「あら、わたしも聞いたことがあるわ」
(シェリル……!!)
ざわめきが徐々に広がっていくことにアイリスは燃えそうな顔をうつむかせて耐える。
(許せない……!!)
なんとシェリルはあろうことか、アイリスのドレスを用意せずに自分のドレスだけ用意していたのだ。
(あんなの部屋にはなかったわ!)
ということは、そこまで考えてアイリスは気づいた。
ヴィンセントの屋敷である。
彼女は朝から晩までヴィンセントの屋敷にいた。その時にドレスを縫っていたのだとしたら?
そう思い至ったところで、自分の目の前に人が立ったことに気づきアイリスは固まった。
うつむくアイリスにはその足元しか見えないが、それでも誰が立っているのかはわかる。
「ヴィ、ヴィンセント、様……」
「やぁ、アイリス様」
恐る恐る顔を上げるアイリスに、ヴィンセントは氷のような冷たい視線を向けてきた。
そしてアイリスの姿をじろじろと不躾に検分する。
「釈明をする気はあるかな」
「は……?」
「自ら罪を認める気は?」
「……い、一体何の話でしょうか?」
なんとか誤魔化すがアイリスももう気づいていた。
彼はこのドレスを作ったのがアイリスではないと知っているのだ。
その時するりとアイリスの手からルーファスの腕が消えた。
「で、殿下……」
「僕も聞かせてもらいたいな」
そう彼はいつもと変わらぬ穏やかさで、静かに告げる。
しかしその月のような銀色の瞳は笑ってはいない。
「きみはいままで、一体なにをしてきたのかな?」
「ご、誤解です……っ!!」
アイリスは叫ぶ。そうしなくてはすべてを失うのだということだけはわかった。
「わ、わたしは……っ!」
「何が誤解なんだろう」
しかし冷静なルーファスの言葉がそれを遮る。
「僕はまだ何も言ってはいないよ」
「…………っ!!」
「今きみは一体何を言われると思って何を誤解だと言ったんだい? 心当たりがあるんだろう?」
いつもは優しい銀の瞳が今は凍えるように冷たい。
「教えてくれないか?」
「…………っ!!」
何も言えずに黙り込む。なんと言い訳すればいいかが思いつかなかったのだ。
ふと、視界の隅にシェリルの姿が映り、アイリスはとっさに、
「シェリルっ!!」
と怒鳴っていた。
「あんたからも説明しなさい! わたしは何もしてないって!!」
アイリスの声に彼女はびくりと身体を震わせた。その肩をなだめるようにヴィンセントがなでる。
「そうやって、いままでもシェリルに服作りを強要していたんだな」
ヴィンセントの紫色の瞳が鋭くアイリスのことを射抜いた。
「ちが……っ! わ、わたしは……っ!!」
「では今日のていたらくはなんなのかな?」
ルーファスが前へと進み出て尋ねる。
「シェリル嬢を脅迫することができないようにヴィンセントは彼女のことを自身の屋敷に匿っていた。その結果としてシェリル嬢は見事なドレスをヴィンセントの目の前で仕立ててみせたよ。それに対して君はどうだろう。自ら作ることもシェリル嬢のドレスを横取りすることもできなかった結果が今のその姿なんじゃないのか?」
ルーファスの指摘に周囲がどよめいた。あまりのことにアイリスはすっかり失念していたが、ここまでのやり取りは会場中の人々に聞かれていたのだ。皆口々に「まぁ、なんて酷い」「私たちのことも騙していたってこと?」と非難の言葉を囁きながらアイリスのことを見た。
その視線がアイリスに突き刺さる。
「ち、ちがう! わたしは……っ 本当に自分でっ!」
それでもなんとか弁明しようとした言葉は、
「これを見ろ」
ヴィンセントに遮られる。その手には一枚のハンカチがあった。シンプルだが見事な刺繍の、蝶の意匠があしらわれたハンカチだ。
よくよく見るとその蝶はSの字が浮かび上がって見える。
「それが、一体……?」
「わからないか?」
いぶかしむアイリスにヴィンセントは告げる。
「おまえの今着ているドレス。そこに刺繍されている蝶はこのハンカチと同じ蝶だ」
そう言われてその場にいる全ての人々の視線がアイリスのドレスに突き刺さった。
アイリスの真っ赤なドレス、そこに大胆に飛び回る蝶はハンカチの蝶よりはわかりにくいが、よくよく見れば確かにSの字を隠していた。
アイリスの顔は蒼白に染まる。
「おまえは自分のイニシャルでもないSの字をわざわざドレスに縫い付けるのか? それはシェリルのSだ。そのドレスはシェリルの作った物だ」
その断定にアイリスは膝から崩れ落ちた。
シェリルはその光景を口元を手でおおいながら見ていた。
そうしなくては今にも高らかに笑い出しそうだったからだ。
(うまくいった!!)
内心は狂喜乱舞である。
そう、すべてはシェリルの計画通りだった。
アイリスにドレスを作るよう強要されるようになってから、シェリルは誰かが気づくようにとイニシャルの蝶を縫い続けていた。
しかしシェリルの刺繍があまりにも見事すぎて誰もそのささやかな主張には気づかなかったのだ。
そこで一計を案じた。
わざとSの字を強調した刺繍をハンカチにほどこし、それをヴィンセントに気づかれるように落としたのだ。
正義感の強い彼ならば必ず大事にしてアイリスのことを糾弾してくれると信じていた。
それにどうせ助けてもらうならばそのヒーロー役は好きな人がいいに決まっている。
初めて出会って優しく慰めてくれた時から、シェリルは彼のことが好きだった。
だからアイリスが自分の刺繍を使って王子だけではなくヴィンセントに接近した時は許せなかった。なんとしてでも化けの皮を剥がして、彼を自分のものにしなくては我慢がならなかったのだ。
そうして迎えた今日、ヴィンセントは健気で可哀想なシェリルのことを助けてくれた。
目の前には皆から後ろ指を差されてうずくまるようにして座るアイリスがいる。
シェリルはそっとヴィンセントから離れるとアイリスの目の前へと膝をつき、彼女に手を差し伸べた。
そうして驚き顔をあげる彼女の耳元へとそっと囁く。
「ざまぁみなさい、お馬鹿さん」
その言葉の意味を理解するのに時間がかかったのか、アイリスは目を見開いた後、みるみる顔を赤く染め上げ、そして手を振り上げた。
「ふざけんじゃないわよ!! あんたのせいで……っ!!」
その手が強くシェリルの頬を打つ。シェリルはわざと驚いた顔をして尻もちをついてみせた。
周囲からは許そうとした寛大な妹を更に鞭打つ極悪非道な姉の姿に見えたことだろう。
「シェリル!!」
ヴィンセントがすぐさまシェリルのことを助け起こし、アイリスは周囲にいた人々によって取り押さえられた。
「ちょっと!! 離しなさいよ!! あの女ふざけやがって……っ!!」
「連れて行け」
ルーファスが冷静に告げると暴れながらもアイリスは引き摺られていく。そこには普段の美しい姿は欠片も存在しなかった。
とても醜悪に喚き散らす犯罪者がそこにいるだけだ。
「わたし……、そんなつもりじゃ……」
「わかっている」
殊勝なふりをして呟いたシェリルの言葉にヴィンセントはうなずくとそっと優しく抱きしめてくれた。
「痛かっただろう。もうあれに構うのはやめなさい。手当てをしよう」
「わたし……、これからどうしたらいいか」
ヴィンセントに手を引かれて歩きながら途方に暮れたようにつぶやくと、彼は人気のないところまできて立ち止まった。そしてそっと打たれた頬をいたわるように手のひらで覆う。
「心配しなくていい」
「ヴィンセント様……」
「きみのことは俺が必ず幸せにしよう」
シェリルは目を見開く。
「それって……」
驚くシェリルに、ヴィンセントは微笑むとひざまずいた。そしてシェリルの手の甲へとそっと口づけを落とす。
「君が嫌でなければ、夫として君のことを支えさせてほしい」
「……っ! ヴィンセント様っ!!」
感極まったように涙を浮かべてシェリルはヴィンセントへと抱きついた。彼は優しくその体を抱きしめてくれる。
(ざまぁみろ)
姉は確かに上手かった。人を騙してうまく成り上がっていった。しかしシェリルのほうが役者が上だ。なにごとも『勝ち過ぎる』のはよくない。
本当に欲しいものを手に入れる時だけ、ぼろが出ないようにズルはするべきなのだ。
これまではアイリスの勝ちだった。でもこれからはシェリルの勝ちだ。
シェリルはそっとヴィンセントに見えないように、舌をべーと出してみせた。
おもしろいなと思っていただけたらブックマーク、⭐︎での評価などをしていだだけると励みになります。
よければわたしの他の拙作も読んでみてください。
よろしくお願いします。