人妻なのに婚約破棄されました?
「レイチェル・グランステア、その傍若無人な振る舞い、王子妃として相応しくない。婚約を破棄させて貰う」
華やかなパーティの場で告げられた言葉に、槍玉に上げられた令嬢は、きょとん、として首を傾げた。
「はい……?」
蝋をかたどったかのように真っ白で滑らかな肌に、さくらんぼのような瑞々しく赤い唇が良く映え、その唇より深く濃い蘇芳色の瞳が目を惹く、美しい女性だった。謹み深く頭を被ったウィンプルのために髪は見えないが、蘇芳を彩る長いまつげから、冬空の雲のような銀髪であることが予想出来る。
年の頃は、彼女に指を突き付ける青年より、二つ三つ上の、十八、九歳と言ったところだろうか。
秀でた額と涼やかな目許が、理知的で落ち着いた印象を与える。
「婚約、破棄ですか?誰と、誰の婚約を?」
いまひとつ、言われたことが理解出来ないと言った顔で、レイチェルと呼ばれた令嬢は問い返す。
「お前と私の婚約に決まっているだろう」
「殿下」
レイチェルが眉をひそめて苦言を呈した。
「いくら交流があろうと、女性に対してお前などと言う呼び掛けは失礼ですよ」
「失礼はどちらだ!お前はそのようにことあるごとにぐちぐちと難癖を付けて」
「難癖ではなく、ひととして当然の礼儀です」
「煩い。私は王子だぞ!」
「だからです」
頭が痛いと言いたげに、レイチェルが額を押さえる。
「あなたが王子だから、特に同年代では指導出来るものがおらず、仕方なくわたくしが口を出しているのです。あなたがなにかやらかすたびに、わたくしに陳情が来ているのですよ。学年どころか校舎も違うと言うのに、良い迷惑です」
「なっ……王族に対してその無礼な振る舞い、婚約破棄程度では事足りぬ!おい、誰かこの女を捕らえて牢に入れよ!!」
喚いた青年に反応してか、それとも端で見ていた国王代の宰相の命か、パーティ会場でも唯一帯剣を許されている騎士たちのなか、とりわけ華々しい衣装の者ふたりがレイチェルに歩み寄る。
だが、歩み寄ったふたりの動きは捕らえるためのものではなく。
「御前、失礼致します」
「暴行はされておりませんか、殿下」
「大事ありません。ありがとう」
レイチェルを青年から守るように立った騎士に、青年が目を剥く。
「お前ら、何をしている。私は捕らえろと言ったんだぞ!」
「殿下、祝いの場でそのような大声、はしたないですよ」
「まだ言うか、」
「当たり前でしょう」
ぴしゃりと言い捨てられて、青年が固まる。
明らかな怒気をにじませて、レイチェルは青年を見据えていた。
「あなたは王族、それも今上陛下の実の御子なのですよ。王位は継がない第二王子とて、その行動は王家の品位、ひいては我が国の品位に関わるのです。学院内での行動であれば、学び舎内の他愛ない失態と見逃せるものを、このような学外の祝賀の場で、あまりにも常識をわきまえない行動ばかり。未だ学生だとは言え成人の義は済んでいるのですから、いい加減恥をお知りなさいませ!」
朗々たる叱責ののちに、レイチェルはさらに不快もあらわに首を振る。
「しかも言うに事欠いて、わたくしとあなたの婚約などとざれごとを。呆れてものも言えないとはこのことです。侮辱にも程がある。いったいいつ、わたくしが、第二王子と、婚約したと言うのですか」
「は……?」
憤慨するレイチェルに、青年が間抜けな声を漏らした。
「私の婚約者でないと言うなら、なぜみなお前にかしづく。偉そうに私にもの申しまでして」
「ですからお前呼びは失礼だと言っているでしょう。はぁ……グランステア家も十二分に高位の貴族です。あなたはその視野の狭さをどうにかなさい。敬われるのは王家だけとは限りませんし、王族はあなただけではありません」
「だが兄上にはもう婚約者がいるだろう!」
詰め寄ろうとした青年が、騎士に行く手を阻まれる。
「そもそも前提が間違っているのです」
そんな無様な青年を見据えて、レイチェルは言った。
「確かに便宜上略称であるレイチェル・グランステアを名乗っておりますが、それが正式な名前ではありません。そして、わたくしの場合、婚約などと言う不安定な鎖では許されませんでした」
「なにを、言っている?」
「わたくしの正式な名前は、レイチェル・オリビア・グランステア・フォン・ファルデレオナ。王弟殿下、あなたの叔父君の正妃、つまりあなたの叔母です。現時点では王弟殿下が王太子ですから、王太子妃に当たります。無冠の王子であるあなたより、地位は上です」
唖然とする青年に、レイチェルが呆れた顔で言う。
「だからあなたに指導も出来たし、わざわざ面倒な役目を買って出ていたのでしょうに。同じ王族としての義理がなければ、あなたなど見捨てて好きに滅びさせていましたよ。それが仏心で面倒を見たために、婚約者と勘違いされて言い掛かりを付けられるとは、仮にも旦那さまの甥子と持っていた慈悲も尽きると言うものです」
「なっ、だが、お前と叔父上の婚姻の儀など、見た覚えはないぞ」
「それは当然でしょう」
ゆるりと首を振り、レイチェルは告げた。
「わたくしは齢三歳、すなわちあなたが生まれてすぐに、当時十五歳だった王弟殿下と婚姻しています。乳飲み子の頃の記憶など、覚えているはずもありませんし、そもそも式に列席されていませんでした」
「三歳で婚礼だと?」
「王侯貴族ならばない話でもないでしょう。わたくしの場合、二歳になる少し前に、魔弾の射手に覚醒したのが理由です。魔弾の射手はご存じでしょう?」
さすがに、と副音声が聞こえそうな言い振りだったが、青年は逆上も忘れて頷いた。
「平民や下級貴族ならばともかく、上流の、まして魔力の高い血筋の魔弾の射手は、一騎当千などと言う言葉では生温いほど強固な防衛戦力になると聞く。ゆえに他国からも狙われると」
「ええ。ですから公爵家や侯爵家から魔弾の射手が出た場合、可及的速やかに王家もしくは公爵家との婚姻が結ばれます。公爵家直系からは実に百年振り、それも魔道師家系であるグランステア家から、二歳にも満たぬ歳で覚醒する逸材となれば、他国には決して渡せない駒です」
「だからと言って、叔父上は十二も歳上だろう」
「それでも未婚の王族のなかでは最も歳が近かったのです」
レイチェルが、わずかに視線を伏せる。
「他国が王族の妃にと求める動きも出ており、はね退けるにはこちらも王族を立てるしかありませんでした。王妃さまが臨月でしたが生まれた御子は姫君、帝国より皇太子の正妃にとの打診が来てしまった以上、すでに王太子妃に内定していると返答し、すぐに婚約発表するより取れる道はなく、そして、強硬手段での婚約者交代を防ぐためには、最短ギリギリの公示期間で結婚に踏み切り、き、いえ、奪わせるつもりがないことを大々的に知らしめることが最善でした」
「そこに、お前、いや、あなたの意思は」
「公爵家の娘ですから」
一切の迷いを見せず、レイチェルは微笑んで見せた。
「国のためにこの身を使うことこそ本望です。ただ、わたくしのせいで王弟殿下の自由を奪ってしまったことだけは、申し訳なく思いますが」
「王侯貴族は国家の奴隷。その筆頭が王族だ。あなたが国に献身することこそ本望と言うならば、それは僕も同じこと。いつもそう言っているはずだけれど」
「え……?」
ぽわ、と目を見開き視線を巡らせたレイチェルは、その姿を見留めた瞬間ぶわわと顔に血を昇らせた。
「で、殿下?い、いつ御戻りになられたのですか!?教えて下さればわたくし、お迎えに上がりましたのに!」
「今日の昼過ぎにね。研究が忙しいと聞いていたし、義務で結婚したからと言って、無理に僕に尽くす必要はないよ。僕はあなたに、出来る限り自由でいて欲しい」
「わたくしが、殿下をお迎えしたかったのです。お久し振りの帰還なのですから、一刻でも早くお顔を拝見したかった」
ぱたぱたと、レイチェルが足早に歩み寄ったのは、貴族と言うには日焼けの強い男。油っ気のない赤金色の、ふわふわとまとまりのない長髪を無造作にくくり、昼間の太陽のような金の瞳をした男が、近寄って来るレイチェルを控えめに迎え入れる。
年の頃は、三十に届いたところ、と言った程度だろう。細身だが長身で、顔を見せてと手を伸ばすレイチェルのために、そっと膝と腰を屈める。
「お身体に不調はございませんか?お怪我は?少し、お痩せになったのではありませんか?」
「身体は健康そのもので、痩せてもいないよ。あなたも、風邪などひきはしなかったかな」
「お陰さまで、元気に過ごしておりました。今回はどのくらいこちらに滞在なさるのですか?お時間を頂けるなら、お話を伺いたいです」
男の顔を両手で包んでみたり、胸に手を置いてみたり、レイチェルの姿は戦役から戻った恋人を迎え入れる少女そのもので、それは青年を叱責する姿とはかけ離れていた。
「たぶん少し長めに滞在することになると思う。慈雨の呼び手が覚醒したと聞いたから」
「……慈雨の呼び手、ですか」
「あなたほどの要人になるとは思わないけれど、これでも旅盾の騎士団長だからね。国防に関することに知らんぷりと言うわけにも行かない。あなたを得られなかった帝国が、今度は慈雨の呼び手を狙わないとも言えないしね」
レイチェルの表情が曇る。
「慈雨の呼び手が、殿下を選んだら」
「えっ?慈雨の呼び手って確か、十五、六歳の学生数人だったよね?僕みたいなおじさんは好まないんじゃないかな。僕より兄上たちの子供や、公爵家の子たちの方が歳が近いでしょう?」
「殿下は魅力的ですもの、年齢なんて関係ありません」
レイチェルが男の服の胸元を、ぎゅっと掴んで言えば、男は躊躇ったあとでそっと、レイチェルの頬に触れた。
「妻帯者に別の女性を娶るように言うほど、兄上も非道ではないよ。それとも、あなたが僕に嫌気がさしたかな」
「そんなこと!ありえません」
「うん。古い風習なのに、律儀に守ってくれる健気な妻がいるからね。誰に求婚されても断るよ。でも、守っているものなんて、よほど敬虔な信徒しかいないのだから、気にせずお洒落してくれて良いのに。あなたは髪もとても綺麗だから」
ウィンプルをつまんだ青年から目を細めて言われたレイチェルが、頬を赤らめてはにかむ。
「見て褒めて欲しいたったひとりに見せられれば、それで十分です」
「……うん、そっか。それより、これはなんの騒ぎなのかな?途中から来たから、話の趣旨がいまひとつわからなかったのだけれど」
「このおん、彼女が、叔父上の妻だと言うのは事実ですか?」
青年、王子がレイチェルを無礼な呼び方で語りかけた瞬間、男、王弟の視線が険しくなった。それにびくりと身を震わせ、王子は姿勢も言葉も改める。
「事実だ。それがどうかしたか」
言葉のみならず態度でも示すかのようにレイチェルの肩を抱き、王弟は頷いた。
「私の、婚約者、では」
「は?」
殺気立った声に怯えを見せなかったのは、幸せそうに王弟に身を寄せるレイチェルだけだった。
「なぜそんな馬鹿げた勘違いを。ウィンプルの意味も知らないとでも言うのかな」
古い風習だ。既婚女性は夫以外の男に髪を見せてはならないと言う、教会の教えによるもの。先ほど王弟自身が言った通り、敬虔な信徒以外はもう守っていないような、寂れた風習。
レイチェルが頑なに守っているのは、王弟以外の妻になる気はないと言う意思表示のためだ。外出時はもちろん、家にいても、男性の使用人がいる場所では決してウィンプルを外さない。
王弟との年の差を隙と見てレイチェルに擦り寄ろうとしたものは、国内外にいた。
けれど頑なにウィンプルを外さず、誰に言い寄られても見向きもしないその一途さに、みな無理だと諦めたのだ。
その、一途さは、国に命じられて嫁がされた幼い妻に負い目を感じていた王弟の心すら、溶かすほどで。
政略により婚姻を義務付けられた王弟夫妻は、しっかりと愛を育んでいた。
それこそ、王子の横槍など入る隙のないほどに。
「誰かが、お前にそんな話を吹き込みでもしたのか?」
ここで名前を呼ばれたら死ぬと、レイチェルと王子以外のその場にいた全員が思った。
「そうだとすれば、我が国に害意があるものの可能性がある。未だに魔弾の射手を諦めていない国はあるからな。あるいは、魔弾の射手の伴侶として地位を高めたい国内貴族と言うこともあり得るか」
険しい顔で呟いた王弟が、王子へと矛先を向ける。
「誰にそそのかされた?いや、ここで答えなくていい。騎士団の詰め所に来い。そこで詳しく聴取しよう。レド、連れて行け」
黙って控えていた騎士が、指示を受けて従う。
「レイチェル、少し用が出来た。ユリアは連れているね?離れないようにして。また、あなたを狙う不届き者が出て来たかもしれない。すぐ片付けるよ」
「そんな、でも、慈雨の呼び手のために戻られたのでしょう?」
「あなた以上に優先すべきものなど僕にはないよ。旅盾の騎士団長としても、王太子としても、僕個人としてもね」
王弟から真摯な目を向けられたレイチェルは、恋する乙女の顔をしていた。
「わかりました。今日はもう、ユリアと王城に戻ります。安全が確保されるまで、外出は控えます」
「それは……そうしてくれれば、僕も安心出来るが、あなたに不自由を強いる気は、」
「わたくしだって、自分の役目は理解しております。わたくし自身の意思で、殿下と国のために、我が身を守ることを選んだのです。魔弾の射手としても、王太子妃としても、わたくし個人としても」
王弟の胸に手を当て、レイチェルは美しく微笑む。
「王城にて、無事のお戻りを、お待ちしております」
「わかった。待っていて」
ちらりと周囲を一瞥した王弟が、纏っていた外套を拡げてレイチェルを覆い隠し、自分もその幕の内へと身を屈めた。
「では、行って来るよ」
マントを手放し微笑んだ王弟は、爽やかな笑みをレイチェルに向けてから歩み去り。
見送るレイチェルは、両手で口許を覆って、顔を真っ赤に染めていた。
「妃殿下」
控えていた護衛が、遠慮がちに声を掛ける。
「ひゃ、はい。も、戻りましょう、ユリア!」
「はい。すぐに車を回させます」
出来る護衛はうろたえる主には触れず、静かに頭を下げた。
ё ё ё ё ё ё
それから王弟は、鬼気迫る様相で徹底的に王子の周りを洗い、レイチェルが巻き込まれた陰謀を、根こそぎ潰し尽くした。
黒幕は隣接する帝国の皇帝。魔弾の射手であり、その美貌も広く知られるレイチェルを、諦めきれずにいた彼が、画策したものだった。目的はレイチェルに醜聞を立て、弱らせること。弱った隙を突いて、自分が口説き落とそうと思っていたらしい。
協力者は隣国の王女で、こちらはなんと、レイチェルの夫である王弟に恋をしていて、レイチェルと王弟の仲を引き裂きたかったそうだ。
皇帝と王女はそれぞれ手勢を送り込み、愚かであることが知られていた王子を騙して、そそのかした。利権の関係で、彼らに協力した国内貴族もいたらしい。
結果として起こったのが、あの騒ぎ、と言うことだ。
王弟は激怒し、二国に烈火の抗議を行った。武力をちらつかせた状態での抗議に、二国は泡を食い、皇帝も王女も地位を追われ、斬首されることとなった。他国に与した国内貴族も、軒並み家ごと罰され、首謀者は首を落とされた。
温厚で知られていた王弟の怒りの苛烈さに、国内は震撼した。魔弾の射手が王弟の逆鱗であることは、国内のみならず周辺諸国にまで知れ渡り、レイチェルにちょっかいを掛けようと言う者は、すっかり消え去った。慈雨の呼び手のなかには、王弟に密かな憧れを持っていたものもいたが、一連の騒動で恐れをなして、不必要に王弟に近付くことはなくなった。
そして、評価を塗り替えて戻った王弟を、レイチェルは抱擁で迎え入れる。怒りの苛烈さも、行いの残虐さも、レイチェルの気持ちを冷めさせることはなかったのだ。
愛する妻の元気な姿に、王弟はようやく怒りを鎮め。
魔弾の射手とその夫は、末長く、仲睦まじく、幸せに暮らした。
つたないお話をお読み頂きありがとうございました
もうちょっと立場とか深堀りする予定だったのですが
深掘りしなくても話は通りそうだなと思って
すっきりまとめてしまいました