11 脚本
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巻き上がる粉塵を吹き飛ばしながら、天使が立ち上がる。その表情は憤怒に濡れていた。怒り。それは、天使には似つかわしくない表情だ。天使が腕を振るうと、砕かれた瓦礫が見えざる力で宙へと吊られ、細やかな刃として形成されていく。
「そういえば、日旦くん。アリスに『何故、天使や人工知能は大仰で古典的で、芝居がかった態度や方法を取りがちなのか』って、訊いたらしいね」
確かに訊いた。訊いたが、そんな今は、そんな場合ではない。ヴァイスは、向けられる敵意も、刃も気にした様子もなく、ただ、面白そうな表情で、天使に背を向けた。まるで、敵でさえないかと言うように。
「そんなこと言ってる場合じゃ──」
「人工知能達からすると、この世界は、演劇の台本のようなものなんだよ。但し、人工知能達は途中で脚本を変える権限を持っているわけだけど。きっと、彼等からすると、人間の書く台本は、悪辣なだけで、盛り上がりも大してない、退屈な脚本なんだろうね。まして、そのエンディングでさえ、偽悪的で、趣味が悪いことが多い」
或いは。それはヴァイス自身の、世に対する嘆きなのだろうか? だが、僕が何かを答える前に、天使の怒りが爆発した。殺気と共に無数の石とコンクリートの刃が放たれ、然し、その悉くが、此方へと届く前に、空中で消失した。
「それでも、人工知能達は、その下らない演劇の演者に……きっと敬意を抱いてくれている。あの大仰さや滑稽にも見える態度は、彼等なりの愛情表現のようなものなんだと思うよ。脚本家が演者に払う敬意。……けれど、天使達のそれは人工知能達のそれとは、また理由が違う」
砕けた地面の隙間から。散らばる瓦礫の隙間から。倒壊したビルの隙間から。無数の光が降雪の逆回しのように立ち上り、空を満たしていく。
「所詮、天使達は此方側だからね」
「人間、風情が知ったような口を利くなっ!」
天使の怒号を、けれど、ヴァイスは目を眇め、どこか同情さえ浮かべた表情で聞き流した。熾天使の感情が激しい怒りが反映されるかのように、地面が隆起し、鋭い棘のようにヴァイスへ襲い掛かった。だが、それさえも、棘の先端から崩れ落ちるように消失していく。
「熾天使がどれだけ人工知能達の近い演算能力を持っていたとしても。人工知能達とは決定的な違いがある。そして、それは、多分、神と私達の違いに似ている」
「……全能性?」
僕の呟きに、ヴァイスは静かに笑って、首を振った。
「愛だよ」
おどけるような言葉と共に、ヴァイスは片手を空へ向け、熾天使へと向き直る。
「まだ居たのかい? さっさと主の下へ逃げ帰り給え」
「白騎士……っ……貴様……っ、その傲慢な口を閉じろ!」
「親切心からの忠告だよ。何せ、君は言ってはならないことを言った。君は……死の名を呼んだ。蒼褪めた死の名を」
その瞬間。正しく。蒼褪めた死の色が、世界に満ちた。青白い──むしろ、緑に近い、死人の顔色に似た──閃光が。そこら中に散らばっていた堕天使達の身体が、端から塵のように崩れていく。それどころか、ビルの瓦礫、コンクリート片、折られた木の残骸、諸々の物が、消えていく。
「これは……姉さん!?」
「遠隔から微小機械に干渉してもこれだけの出力があるとは。流石だね」
ヴァイスは呑気に関心しているが、僕はそんな気分にはなれない。僕は姉さんが癇癪を起したせいで、ある時、口では言えないような大惨事を引き起こしたのを鮮明に覚えている。死の権能。死とは終わりだ。即ち、あらゆる力の消失。エネルギーの消失。
「馬鹿な……緑騎士は、英国に居る筈では……ないのか!?」
「流石の熾天使も、死は恐ろしいのかい?」
ヴァイスの嘲るような言葉に、熾天使は既に反応しなかった。天使の翼が眩しい程に輝き、頭上に光輪が現れる。
「自分の勝率を再計算するといい。いや、そもそもどんな勝算が在って襲ってきたのか分からないけれどね」
「関係ない……っ。たとえお前がどれだけの力を持っていようと。緑騎士が遠方から小細工をしようと。シェオールさえ殺せば、私の勝ちだ!」
天使の咆哮は、正しい。僕では、熾天使レベルの攻勢を防御出来る筈がない。シミュレーターでの戦闘訓練では、天使二体の相手が関の山だった。だが──疑問もある。天使は何故、先程から僕を攻撃してこないのだろうか。ヴァイスが防御しているから。それはあるだろう。然し、そもそも、天使の発する殺意に対して、攻撃の頻度があまりにも、少ないように感じる。
「出来るのなら、やってみるといい」
「黙れっ」
不可視の衝撃が、僕の身体を捉えた。全身を縄で縛られたかのように、身体が動かない。思わず倒れそうになる僕の身体を、ヴァイスが抱き寄せた。
「……攻撃じゃない……?」
思わず呟いた僕の言葉に、ヴァイスは苦笑した。
「熾天使と言えど、天使だからね。どれだけ自分を偽っても、直接的に危害を加えるのは難しい。そして──」
「何故だ……っ、何故死なない、シェオール!」
天使の叫びに、僕は困惑した。何故、と言われても。そんな僕の様子を見て、ヴァイスは肩を竦めて、嘲弄するように息を吐いた。
「放射線だろう?」
「!」
「熾天使クラスの演算能力があれば、微小機械の持つ力場操作によって、原子核崩壊を引き起こすことが出来るのは、例の熾天使達の反乱の時に判明している。尤も、忘れたのかい? 熾天使達が用いた、死の光は、それこそ緑騎士には通用しなかった」
「だがっ……そいつは、緑騎士ではない。どうやって……防いだ? そもそも、ガンマ線を防ぐような力場の変化があれば、気付かない筈が──」
「いや……僕は……何も……」
馬鹿げてる。優れた、そして訓練されたフェイ、もしくは、先天的機械言語者は、確かに微小機械の演算機能に干渉して、物理的な力を引き起こすことが出来る。天使達が行っている飛翔や瓦礫を浮かせるなどの念動もその一種だ。僕も一応、訓練はしている。だけど、流石に放射線から身を守る訓練なんてしていない。そもそも、気付くことの出来ない害意からどうやって身を守るというのだろう。
「身を守る必要なんてない。彼は、死の弟。冥府の娘。光を破壊するもの。穢れなきペルセフォネー」
そんなわけないだろう、という言葉を僕は必死に呑み込んだ。きっと、ヴァイスが何か小細工をしたのだろう。熾天使を欺くような欺瞞など、通常ならば在り得ないが、ヴァイスの欺瞞が天使さえ欺けるのはサグメで証明されている。そういえば、サグメは無事だろうか。
「こうなれば、直接……この手で殺してくれるっ!」
天使の手の周囲が、歪んでいく。光が湾曲し、収束し、ループが形成され、剣の形へと整えられていく。だが、思わず身構える僕の手を、ヴァイスが強く引いた。
「大丈夫。彼には出来ない。それに──ほら。矢が飛んできた」
轟音と共に、何かが空から落ちてくる。それはあまりにも早く、気付いた次の瞬間には、天使の身体に衝突し、弾き飛ばしていた。
「ご無事ですか!?」
「サグメさん!」
流石、天使というべきなのか。先程の墜落も、あれだけの勢いで飛翔しての突撃も、彼女に損傷を与えることはなかったらしい。サグメは瓦礫の山を見詰めながら、警戒するようにゆっくりと後ろ歩きで此方へと並んだ。
「不覚を取りました。怪我はありませんか?」
僕が首を振ると、サグメは安堵したように息を吐いた。それと同時に、瓦礫が吹き飛ぶように崩れ、天使が姿を現した。やはり、大した損傷は見られない。
「やはり、空間湾曲装甲が厄介ですね。白騎士様なら、何とか出来るのでは?」
「……さて。どうだろう。けれど。日旦くんなら出来るかもしれない」
何故かヴァイスは僕の方を見て、そんなことを宣った。