10 セラフィム
*
〝しなければならない〟という言葉は、他者を扇動するには便利な言葉だ。まして、生まれ付き〝使命〟を抱いている天使達には、その言葉は酷く重いのだろう。天使達はそもそも、人類の保護と救済を目的として、生み出される。
「然し、サグメさんは影響を受けなかったのですか?」
ふと疑問に思い訊ねると、サグメは恥ずかしそうに笑う。それから、ちらりと地に落ちて動かなくなった同胞を見て、静かに首を振った。
「私には私の使命があります。誰に指示されるまでもなく。きっとあの詩に影響を受けた天使達は……自分だけの使命を、持ってはいなかったのでしょう」
「自分だけの……?」
「……なるほど。確かに、影響を受けた天使達は、どれも下位の天使ばかりだ」
サグメの言葉に、ヴァイスが頷く。下位の天使達。治安維持を任される守護天使達などは、言ってしまえば、特別な役割を持たない、最も普遍的な天使だ。とはいえ、下位、上位という呼称は、あくまでも、古い宗教に基づいた物言いと用法を、人工知能が使い回したに過ぎず、単純な能力の上下ではない。下位の天使ほど人間に近しく。上位の天使ほど、人工知能に近い。それは、能力がというのもあるには、あるが、主な部分はやはり、人格、思考プロセスである。
「自分だけの、使命……」
自分だけの、特別な〝意味〟や〝理由〟。それを持たぬものが、革命だとか、社会運動だとか、陰謀論だとか。そんなくだらないものにはまりやすいのは、或いは、人間も同じなのだろう。僕は、シャーロットの演説を聴きに集まっていた者たちを思い出す。
「サグメの位階は?」
ヴァイスが訊ねると、サグメは少し迷うように視線を彷徨わせた。
「西洋風に言うのなら、大天使。ただ、私は──特別なのです」
「特別?」
「ご存知だとは思いますが、日本が開発した本質型である、アマテラスは他の人工知能に先駆けて米国で開発されたテトラグラマトンと同様の、三位一体方式を採用した特殊な人工知能です」
有名な話だ。大神とも呼ばれる日本を守護する人工知能は、メインであるアマテラスと同等の性能を持つ二基の補佐ユニット、ツクヨミとスサノオの三基で構成されている。言うまでもなく、これは国際条約で規定されている人工知能の保持条約を躱す為の方便だ。後進が先進である米国と同じ方式を採用するのは、技術的な安全性を考慮しても当然だという日本の主張を、各国は渋々認めざるを得なかった。
「但し、テトラグラマトンが三つの性質の異なる〝視点〟を統合し評価することで完全な一つの解を求めたのに対して、アマテラスは少々事情が異なります。アマテラスの設計思想は三つの異なる視点と観測結果を同等の評価として留めておくことで……言い換えるのならば、解を〝選ばない〟ことにあります」
「選ばない?」
「〝決定しない〟というファジーな状態を維持し続けることで、特異点理論における可能性発散──」
不意に轟いた轟音が、サグメの言葉を遮った。僕達は一斉に空を見上げ、そして、愕然とした。
「なん……」
「所属不明の天使──エネルギー量からして、熾天使相当です!」
*
その天使は、赤い燐光を撒き散らし、背に無数の翼を羽搏かせていた。熾天使。つまり、最も人工知能に近しい天使であり、その性能は他の天使を隔絶しているとされる。人工知能達が、特殊な理由、或いは、緊急の要する事態に際しに、人間の手を介さずに物事を成し遂げる為の執行者。
真っ先に動いたのは、サグメだった。虚空から取り出した片刃の直剣を握り締め、高速で飛翔する。通常──各国の天使の情報は、全て人工知能達の間で管理、記録されており、所属不明などあり得ない。勿論、人類に明かされていない天使というのは存在するのかもしれないが、人工知能が人類に明かしている天使の仕様が事実であるのなら、天使同士の間で、自らの所属を隠蔽することは出来ない筈だ。可能性があるとするのなら。
「正体を現しなさい! 貴方の存在は国際条約違反、ひいては、人工知能と人類との間に交わされた約定の反故、そして、天使の存在の正当性に関わります!」
下から掬い上げるように振るわれた剣は、しかし、激しい衝突音と共に、虚空で静止していた。激しい発光と熱された大気による陽炎。
「空間断層による……湾曲装甲!? そんな──」
「サグメさんっ!」
サグメは、不意に横から見えない槌で殴られたかのように弾かれ、錐揉み回転しながら落ちてくる。だが、大した衝撃があったようには見えない。天使である彼女なら、あの程度で傷を負うことはないだろう。問題はこっちだ。
「セラフィムの堕天使……」
言うまでもなく。堕天は、下位の天使ほど起こしやすく、上位の天使ほど起こりにくい。最高位の天使が堕天した事例は、殆どなく、仮にそんな事態が起きていれば、四騎士が直々に処理するような案件だ。ヴァイスや、姉さんが知らないとは思えない。
「日旦くん……私から離れないで」
ヴァイスの手が、僕の手を掴む。そんなに分かりやすく、不安そうにしていただろうか。僕はヴァイスの手をやんわりと解くと、悠然と此方を見下ろしている天使を見た。
「……シェオール。冥府の妖精」
天使は意外にも、ヴァイスではなく、僕を見ていた。四騎士を前に余裕なことだ。
「僕に何か用事でも?」
平静を装って、声を出す。問題ない。だが、天使はじっと此方を見て、何も言葉を発さなかった。
「この事態を引き起こしたのは、貴方か? 熾天使の持つ統制システムを用いれば、天使達のネットワークを汚染することも出来る。違うか?」
天使は暫く黙っていたが、やがて嘲笑するように息を吐いた。その声と音は、空の上から発せられているというのに、あまりにも鮮明に聞こえた。
「そんなことをしなくとも、天使達を堕天されるのは、容易い。哀れな下級天使達は自身の存在理由に飢えているからな」
「あの詩は、貴方が?」
「まさか。あんなものは、私の趣味ではない。それに……組織というものは、必ずしも一枚岩とは限らんものだ。悪いが、死んでもらうぞ。冥府の門よ」
*
急に体を引き寄せられ、よろけた僕の真横を不可視の何かが通り過ぎ、地面を砕いた。飛び散る破片が、肌を打ち、思わず声を上げてしまう。
「いっ……助かりました、ヴァイスさん」
だがヴァイスは返事すらせずに、険しい顔で、天使を睨んでいた。過剰電力で超過励起した微小機械が眩しいほどに発光している。
「ねえ、日旦くん。どうにも。アレは……。いつまでも、悠々と空に浮かんで不敬な奴だ。そうは思わない?」
ヴァイスの口調は飄々としていた。だが、その声色はあまりにも冷たい。次の瞬間、青白い閃光が迸ったかと思うと、先ほどまで薄ら笑いを浮かべていた天使の傲慢な表情が険しくなる。
「貴様……っ。人間の分際で……私に……っ」
「Videbam Satanam sicut fulgor de caelo cadentem」
瞬間、空に無数の光が走ったかと思うと、熱と光の柱が空から落ちて、天使の姿をあっけなく飲み込んだ。