眼鏡を取ってもいいですか?
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細く赤いフレームの眼鏡をかけた女性がいて、彼女とは同じ職場で机を並べている。とてもいい関係だと思っている、大らかで優しくそれでいてふわふわとした関係だと思うからこそいい関係なのだ。金曜日の夜ともなれば近所の飲み屋に出掛ける――近所の飲み屋というと安っぽく聞こえるに違いないが、結構、値が張る。それもこれも、自らの職場が「イイトコ」にあるせいだ。著しく日の目を見るようになってからはずいぶんと時間が経った立地ではあるものの、まだまだ「おしゃれさん」には根強い人気がある。そのへん踏まえ、彼女に「新橋にでも行こうか」と進言した。「ぜんぜんいいよ」という満額かつ軽やかな返事。ああ、僕はいままでなにをカッコつけていたのだろう。悲しくなった。――彼女は僕にカッコつけるところなんか期待していない。それって悲しいこと? あるいは喜ばしいこと?
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また別の金曜日の夜、僕はむこうとこっちとを結ぶ少し膨らんだ橋の上に立っていた。もっと言うと、欄干に上半身を預け、煙草を吸っていた。煙草――時代に逆行するアイテムだ。まあそんなことはどうでもよく――彼女がやってきた。彼女――久枝さん。ほんとうにおばあちゃんみたいな名前だ。だけどご本人は常に非常に若々しく、だから僕は久枝さんのことをやはり他意なく久枝さんと呼ばせてもらうことにしている。それ以上でも以下でもないからだ。久枝さん、今日はいいことありましたか? ……という謎めいた不思議な質問が脳のど真ん中に去来する。
久枝さんは例によって赤縁の眼鏡――そのブリッジを押し上げた。いつもの仕草だ。僕はたぶん、彼女が眼鏡を押し上げる姿が好きなんだ。その点、言い訳のしようがない。夢がある。僕には夢がある。まあそんなことは現状どうでもよく、ただただ、久枝さんがどうあれ眼鏡をいじる姿が愛おしい。
「なんだか失礼ね、あんた馬鹿ぁ? ホント、力也くんは意地悪なんだから」
一人暮らしを長く続け、またサラリーマンをそれなりにやっていると僕――力也くん――自身のその名を忘れそうになる。事実だ。それでも僕は力也くんだ。だからといってなんだという話ではあるのだが。
「で、どうする? ちゃんと飲みに行く?」
久枝さんにそう言われて、どっと肩が落ち肩が上がった。久枝さん、よくよく考えてみてほしい。僕はあなたと過ごす時間を存分に得たくて、だからこそ、なんというか、あるいは仕事をメチャクチャがんばっているというか……。
「行こうよ、いつものワインバー。奢ってあげるからさ」
「いいですよ、そんなの。自分の分は自分で払います」
「それってさ力也くん、男としての意地なわけ?」
「違わないです」
「でも、要らない、男の意地なんて、そんなの」
「困りますよ、それは」
「こっちは要らないって言ってるじゃん」
「でも、僕は――」
「まあ、話そう。うちらは付き合うことになったわけけれど、そのじつ、お互いのことはなにひとつわかってないんだからさ」
付き合った付き合っていない。なんだかそのへんの微妙なニュアンスを含んだセリフが気に障った。気に障ったのだけれど、ツッコミを入れようとは思わなかった。僕はたぶん難しい立ち位置にいて、たぶん、久枝さんもそうなんだ。
「今夜はとことん付き合います、久枝さん」
「エッチがしたいってこと?」
「言い訳はできません」
「ただ女に突っ込みたいだけなら風俗にでも行けばいいじゃない」
「ひどい言い分ですよ。悲しいこと言わないでください」
「そうだね。いまのは失言だった。反省、反省」
久枝さんはきゃははと明るく笑って「やだぁ、すけべぇ、すけべぇっ」とまぎらわすようにまた笑った。彼女が笑うと、なんというかこう、胸の内が温かくなる。だったら僕は、彼女の側にいて、彼女のために身を削ぎたい、裂きたい――すけべもできればそれはそれで幸いだ、なんらかの機会を迎え、あるいは「その状況」を卒業したい。根本的に、久枝さんが誰かのモノになるのが嫌なのだ。
それってダメ?
――ダメじゃ、ないよな……?
きっとそうに違いない。
だけど、どうしてこんなに苦しいんだ……?
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それから間もなくして、噂が立った。僕の久枝さんが槍玉に挙がったのである。なんでも部長と寝たとか、しかも社内の会議室でやったとかそういう話である。たしかに久枝さんは奔放そうだ。性に対しても奔放そうだ。僕はいろんな意味で無視した。久枝さんに限ってそれはない。やましいことがあるなら僕になにか一言伝えてくるはずだ。要するに僕はとことん待ちに徹したわけだ。
話を伝え聞くうちに、どうやら「そんなこと」はなかったのだ」と知った。僕としてはそれだけでよかった。だって、最愛のヒトの無実が立証されたのだ。だったらなにも疑う余地なんて――。
でもオフィスで顔を合わせると、久枝さんは避けるようにして僕の目線を避けた。やっぱり赤い眼鏡が印象的だった。赤い眼鏡を信じた。とりあえずはそれだけで言いように思うことにした。ダメだなと思う。ホント、僕はダメだ。まだまだ疑わしくてもその旨、問い質すように前向きに動くことができない。
赤い眼鏡、赤い眼鏡、赤い眼鏡。
それは久枝さんがつけるにふさわしいにもかかわらず、なのにどうしてだろう、ひょっとしたらベッドの上でそれをやんわり排除されたのかなぁと思うと、胸を掻きむしりたくなるくらいに嫉妬した。
――どうあれ僕は、久枝さんのことを 一人占めにしたいんだ。
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久枝さんに飲みに誘われた。LINEに入った「弁解させて」って。いや、もはや疑う余地などないのだが? そう伝えたのだけれど、「お願い」とだけ返ってきた。どうしてだろう。僕のどんな振る舞いが彼女を不安にさせている?
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以前、少々のやり取りをした安いラブホテルだ。ベッドの端に座って待っていると、先にシャワーを浴びていた久枝さんが――久枝さんが裸体で出てきた。その様子はとても悲しげに見え、だから僕は素直に「どうしたの?」とだけ訊ねた。アホみたいに簡素な丸テーブルに置かれていた「赤縁眼鏡」を手にし、それをかけ、それから久枝さんは「ごめんなさい……」と謝った。
「どうして謝るんですか?」
「それは簡単だよ、力也くん。きみに不義理を働いてしまったと思って……」
「不義理を働いたんですか?」
「馬鹿言わないで。きみに悪いことはなにもしていない。ほかの誰かとセックスとか、そんなこともないよ」
「だったら不義理なんかないじゃありませんか」
「そうだけど……」
いよいよたまらなくなって、僕は久枝さんのことをベッドに押し倒した。久枝さんは「ひゃっ」と悲鳴を上げ――だけどそれから静かにしてくれた。
抱きたい――。
抱きたい、抱きたい、抱きたい、抱きたい――。
久枝さんは笑った。
ダメだよと言って笑った。
僕にはまだ、なにかが足りないらしい。
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現場に入った。データセンターだ。片系を落としつつのロードバランサ―の設定変更である。難しい作業ではない。ただ主系を落とすのだから……まあそういうことである。
もうこれが嫌だった。
久枝さんは「イヤラシイカラダ」をしているから、先方に卑猥な目でじろじろ見られるのである。
殺してやろうかと思った。
だって久枝さんは僕のモノなのだから。
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正午までに作業は終わった――早々に解放されたということだ。僕は結構プンスコだった――だけど、このへん難しい。公私混同などあってはならないと考えるからだ。だったら久枝さんを男の邪な目線に晒すことを良しとしてもいい? どうにもそうは思えないから結構、苦労しているように思うのだ。
作業後、いつもステーキハウスに寄る。僕は大きなステーキをオーダーする。久枝さんもそうだ。割り勘にしようと決めている。僕は独り身で、だからしょうもないとも言える貯金をたくわえているのだけれど、彼女の言うことには従う。いつか二人分を払うようにはなりたい。――なりたい。僕は肩を落とす。それって結婚したいと望むことと同義ではないか。
久枝さんがご自慢の? 赤いフレームの眼鏡を押し上げた。僕はそのたびぞくぞくするのだが、その旨伝えてしまうとただの気持ち悪い男になってしまうだろう。でも、ぞくぞくする。久枝さんのほっそりとした顔に赤い眼鏡が装備されているとぞくぞくする。でも、僕は言えないのだ。「久枝さん、僕に抱かれろぉっ!」とは言えないのだ。ただ、そのへんは僕の美学に則しているし、だからこそ、余計な言葉は発したくない。
ただ、ヤバいんだよなぁ。
赤眼鏡姿の久枝さんはいろんな意味でヤバいんだよなぁ……。
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じつは天王洲なのである。向こう岸へと続く少々ぽっこりとふくらんだ橋があって、まあなんにせよ、僕はその橋の真ん中で待っていたわけである。久枝さんが駆けてきた。ダメだな、久枝さん。駆けてくる必要なんてないのに。僕はいつまでだって待っていたのに。
「ひゃあっ!」
僕のすぐそばまで来たところで、久枝さんが前のめりに転びそうになった。すかさず身体を支えてやる。久枝さんは笑ったのだ。「ありがとう」と言って、照れ臭そうに笑ったのだった。
例の赤いフレームの眼鏡が落ちてしまった。拾い上げ、僕はそれを久枝さんにかけてやる。また「ありがとう」。当方、その眼鏡姿が大好きなので、「どういたしまして」と微笑むに留めておいた。
「どこ行きます? 例のワインバー、大歓迎なんですけど」
すると久枝さんは難しい顔をして、それから顔を真っ赤にして。
ずれていたので赤い眼鏡を正しい位置に戻してやると怒って、怒って。
――だけど、すぐにまた、顔を真っ赤にして。
「……抱いて?」
「えっ、は?」
「抱いてって言ったの」
僕の目は点になっているはずだ。
「ま、待ってください。僕たち、まだそんな関係じゃあ――」
「だったらいつ関係を進める、深めることができるの?」
「え、それは、えぇっと……」
「あなたになら乱暴されてもいいのに」
「ら、乱暴? そんなのダメですよ」
久枝さんはしくしく泣きだしてしまった。
その理由はわからない。
ただ、悲しいことがあるのだろう。
「赤い眼鏡……」
「は、はい?」
「赤い眼鏡、力也くん、好きでしょ?」
否定できないから困った。
「さて、儀式を始めようか」
泣いていたくせに、久枝さんは笑った。
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乱暴に覆いかぶさると、重ねて非常に魅力的な女性だなと感じた。僕はきちんと訊かなくちゃならなかった。
「眼鏡を取ってもいいですか?」って。
「ダメ」
「えっ?」
「眼鏡は取らない。取らないけど、抱いて」
「嫌だ、取りますよ」
「どうして取りたいの?」
「それは……あなたの素顔を見たいから……」
「でもさ、力也くん。眼鏡女子を抱けるなんて、そうそうないよ?」
「ああ、だったらそうか……そうなのかなぁ……」
私は逃げたりしないから。
そう言われてしまうと、上半身も下半身もむずむずした。
ねぇ、力也くんと言い、久枝さんが首に腕を巻きつけてきた。
「やっぱりいいよ。眼鏡、取ってくれていい」
「眼鏡のアイデンティティの意味を知りたいです」
「そんなの、なあんもないよ。あたしは眼鏡が好きだってだけ」
「ほんとうですか?」
「じつは嘘」久枝さんはクスクス笑った。「でもね? 単純に目が悪いってだけ。どう? もっと危ない理由を期待した? 探した?」
「危ない理由とは?」
「そんなのわかんないよ」
ふふと笑った久枝さん。
僕はふぅと息を吐き、安心を示した。
「嫌ですよ、僕は。久枝さんの、あなたの過去も未来も肯定したいですから」
大げさだねと言って、久枝さんは笑った。
「眼鏡……取って?」
「いいんですか?」
「取ってよ。そして抱いて」
僕はそのシャープ赤い眼鏡を取って……。
抱いた、抱いた、抱いた。
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僕たちのあいだに子どもができた。要するに、久枝さんが身籠ったということである。ああっ、僕はなんて罪深いのだろうと思った。だって久枝さん、そのせいで会社を辞めざるを得なかったのだから。だが、だからこそ、僕はますますがんばろうと決意した次第だ。
「久枝さん、そもそもなんだけど」
「なあに?」
「毎日、赤い眼鏡なんだね」」
「お気になだけ。ダメ?」
「いや。すごくいいと思う」
またいつかベッドの上で獣のように猛るとき、僕は彼女の素顔を拝見することを望むのだろう。
眼鏡を取ってもいいですか?
一応、そうお伺いを立ててから。