破滅の始まり
こうして、アークとニアが撒いた餌にシルヴァリオ王国第二王子バルタザールが食いついてから一か月ほど経った後。
「くっくっく、まさかこうも密やかにして速やかなる侵攻が行われるとは、如何に狡猾なブリガンディアの走狗どもといえども思うまいて」
悦に入った声を、それでも彼なりには抑えながら、バルタザールは密かにブリガンディア国内へと兵を進めていた。
彼が率いる兵数は、おおよそ一万と二千。アーク達が事前に予測していた兵数よりも少しばかり多く集まった傭兵達を率いての進軍である。
これだけの傭兵達をかき集めた手腕そのものは、決してバカに出来ない。
また、傭兵達を中心とする寄り合い所帯を多数を率いた進軍としては、彼が自画自賛するように密やかかつ速やかなものになってはいた。
彼は、決して無能ではなく、どちらかと言えば能力がある人間ではあるのだ。
ただ、その能力の使い所を間違えたり思慮が足りなかったりした結果として、自身やその周囲の人間にとっては、不幸なことになっているだけで。
「いや、誠にお見事でございます、殿下。このままいけば奴らの不意を打ち、散々に蹴散らすことも十分可能でございましょう!」
だから、バルタザールの副官としてついてきている騎士も、少々浮足立ってしまっていた。
色々と悪評を聞くこともある第二王子だが、実際に付き従ってみれば手腕は間違いなく、堂々とした振る舞いは王者のそれにすら思えてくる。
武人である彼から見れば第一王子エルマーの振る舞いはどうにも弱腰に見えてならず、それと比べた時にバルタザールの方が好ましく見えてしまったのだ。
それも合わさって、彼は状況を楽観視しすぎていた。前回の戦で痛い目を見せられた敵国の、領地内に侵攻してきているというのにも関わらず、だ。
「傭兵どもも殿下のご威光に触れて、きびきびと歩を進めております。こんなにも従順な傭兵どもは初めて見ました!」
「私もでございます!」
同じように感化されたらしい騎士たちが、バルタザールに媚びを売るかのように我も我もと誉めそやすが、それも仕方がないかも知れない。
金で雇われた傭兵は、基本的に忠誠心などろくになく、行軍訓練などもまともに行ったことがないため普通は足並みが揃うことなく、その進みは遅々としたものになる。
だが、今回の傭兵達は違った。大人しくバルタザールの指揮に従っているのだ。
今のバルタザールに感化された騎士達は、そのことを少しも不思議に思わなかった。
誰かが疑問に思い、少しでも調べればあるいは状況が変わったかも知れないが……金払いはいい雇い主、遠くから出稼ぎ同然に来ているから早く稼いで帰りたいという心情、などなど状況を説明出来る憶測がいくらでも出来てしまうのもそれに拍車をかけている。
彼らの視点から見れば、すべては順調に進んでいるのだ。
「はっはっは、我ながら自分の才能が恐ろしくなってしまうな! 品位の欠片もない傭兵どもすらこうも従うとは! この分ではビグデンの街も瞬く間に落としてしまうであろうよ!」
「まさしくまさしく! 鎧袖一触に打ち払ってみせましょうぞ!」
あからさまなおべっかに、バルタザールの機嫌はすこぶる良い。
なにしろ騎士達は半ば本心で言っているから、バルタザールの目で見抜けるわけもない。
そもそも彼は、自身に向けられる賞賛の言葉を疑うという考えがない。
彼にとってそれらは、向けられるべき当たり前の言葉なのだから。
そして残念なことに、取り巻く騎士達からも、今この瞬間においてバルタザールは賞賛に値する主君に見えていたのだ。実際がどうかはともかく。
そして、誰も諫めることなく、止めることなく軍は進む。
「あと二日も進めばビグデンの街が見えてきましょう。であれば……」
いつしか、そんな距離まで進んできてしまっていた。
もう、引き返せない。
そこまできて、その報はもたらされた。
「報告いたします! ブリガンディア軍が我らの進行方向に展開しております!」
「やはり、連中もかぎつけてはいたか」
先行していた偵察部隊からの報告に、バルタザールと彼の取り巻き立ちは互いに顔を見合わせ。
ニヤリ、と笑った。
「殿下の狙い通りになりましたな!」
「はっはっは、そうだろうそうだろう! この数であれば、連中も打って出てくると思ったわ!」
取り巻きの一人が賞賛すれば、バルタザールは鼻高々に幾度も頷いてみせる。
それもそのはず、彼からしてみれば傭兵達をまだ集めることは出来たのを敢えて抑えていたという認識なのだ。
狙いは彼が口にした通り、ブリガンディア側が打って出てくるのを誘うため。
一介の地方都市でしかないビグデンの街は、長期の籠城戦に耐えるだけの設備はない、とバルタザールは考えた。
そう、考えた、である。調べさせてなどいない。心あるシルヴァリオ王国軍人が聞けば、無言で天を仰いだことだろう。
流石に、それなりの防壁を備えていることくらいは把握しているが、それだけの話。
どれくらい食料を備蓄しているか、飲料水はどれほどもちそうか、などを綿密に調べられていなかったのだ。
これに関しては、ファーロン伯爵率いる旅団の面々が間諜に目を光らせていた、というのもあるのだが。
ともあれ、バルタザールからすればビグデンの街の籠城する能力は低いはずであり、余程の兵力差でなければ籠城はしない、と踏んで侵攻してきた結果、本当にブリガンディア側は打って出てきたわけだから、彼らとしては笑みも漏れてしまうことだろう。
「この数を見て怯まずに出てきた度胸は褒めてやるところですが、いかんせん計算できる頭はなかったようで!」
「左様、大人しく街を明け渡しておけばいいものを!」
彼らが位置するのは、一万二千に及ぶ軍勢の、最後尾。
ブリガンディア軍は遥か遠くに小さく見えるのに加え、騎乗する彼らの眼下には居並ぶ大勢の傭兵達。
戦場に出た経験が少ない彼らの目に、自分達の軍勢が実態以上のものに見えてしまったのは仕方がないと言えばそうなのだろう。
ただ、そうであれば経験が豊富な人間を副官としておくべきだった。
もっとも、騎士団長アイゼンダルク伯爵をはじめとする武辺者達は軒並みバルタザールに口煩いため、彼らは遠ざけられているのだが。
結果、今ここには、経験が浅くバルタザールへのおべっかのみ達者な連中が揃っている。
だから、誰も止める者がいない。また、適切に動かすことができる者も。
「皆の者、我らの勝利は間違いない! 全軍、突撃せよ!」
「全軍突撃!」
「全軍突撃!!」
バルタザールの号令を受け、あちこちで指揮官が声を上げて復唱し、それが軍団の末端まで連鎖するかのように広がっていく。
そして、広がっていくにつれて。
あちこちで、傭兵達が顔を見合わせる様も広がっていく。
「ええい、何をしているのだ一体! これだから傭兵どもは!」
苛立たしげな声を上げるバルタザール。
彼の脳内では、号令一下、全軍が一気に突撃するはずだった。
だが実際の光景を見れば、動かない。いや、のろのろと動き出してはいるのだが。
「まるで殿下の命令が聞こえておらぬようですな……下賤の者は耳も悪いようで」
嘆息しながら取り巻きの騎士が言うのだが、ため息を吐きたいのは傭兵達の方だろう。
そもそも、一万を超える人間が集まって行軍している中で、人一人の声など簡単に掻き消えてしまう。
そして、突撃は先頭から動き出さないと実行出来ないが、先頭は最後尾にいるバルタザール達から最も遠い。
当然バルタザールの声は届かないから、復唱が伝播してきてからようやっと動き出せたのだ。
そんなことなどわかりもしないバルタザール達からすれば、腹立たしいところだろうが。
「あやつらには言葉では通じぬのでしょう。おい、突撃の角笛を吹け!」
「は、はい!」
憤慨していた騎士の一人が命じれば、近くにいたにも関わらず今まで存在を完全に無視されていた兵士が慌てて角笛を取り出し、力いっぱいに吹いた。
流石に号令用の角笛を預けられるような兵士だけあって肺活量は見事なもの。
力強い響きは先頭にまで達し、やっと突撃の命令が伝わったのか理解されたのか、勢いよく前へと進み始める。
「やれやれ、こんなことでは勝てるものも勝てんぞ」
すっかり気分を害したらしいバルタザールが、そんなことを漏らす。
彼はまだ、勝てるつもりでいた。今、この時点においても。
動き出した傭兵達、遠くのブリガンディア軍。
これらを見ても、なお。
その意味するところを彼が理解するのは、もうしばらく後のことである。




