日々これ鍛錬。
「あ゛~しんっど……」
ぼやきながら俺は、邸宅へと向けてゆっくりめに歩く馬の背に揺られていた。
王城でアルフォンス殿下に扱かれ、普段よりもずっと遅い帰宅時間でとっぷりと日も暮れている。
いや、ここのところは大体こんな時間にしか帰れてないから、もはやこの帰宅時間が日常になりかけてるような気がしないでもない。
こんな日常、まっぴらごめんなんだが。
まあそれも、結婚の儀式が終わるまでの話、と俺は自分に言い聞かせながら手綱を握り直す。
それに、ニア達が引っ越してきたから、帰るのが楽しみになったという良い面もあるわけだし。
御者のトムも来たわけだから、普通の子爵らしく馬車で行き来するのが本来なんだろうが、あいにくと我が家に馬車は一台しかないし、御者も彼一人だけ。
更にそのトムは、子爵邸に引っ越してきた後は執事の仕事もある程度代わりにやってくれているので、俺の行き帰りなんぞに来てもらうわけにもいかない。
……ローラの影に隠れがちだが、トムもかなり有能なんだよな……能力、言動を見るに、一定レベル以上の教育を受けた人間なんだろうとは思う。
どんな育ちをしてきたのか気にはなるが、ニアへの忠誠心に疑いはないし能力も間違いないから、過去を詮索するつもりはない。
いつか話してくれたら嬉しいとは思うんだが。
「ゆっくり話す時間があるかもわからんけどな~……」
はぁ、と大きく息を吐き出す。
子爵としての勉強、儀式の勉強、家に帰ればその復習。
恐らく結婚の儀式が終わるまで、自宅でのんびり寛ぐ暇はない。
そして、終わったら終わったで、領地となるストンゲイズ地方へと急ぎ向かわなければならない。
向こうに着いたらまた忙しい日々。緊張感もマシマシで、ピリピリした日常が待ってるんだろう。
……むしろそんな日常だったら戦友みたいな連帯感が生まれて、色々話してくれるかも知れんな?
我ながら脳筋思考だとは思うが、そこまで望み薄ってわけでもないだろう。
「あ、旦那様、お帰りなさいませ」
「うん、ただいま」
屋敷に戻って馬を馬屋に入れ、裏口から中へと入ったところで声を掛けてきたのは、一人の女性。
彼女は、以前ニア……ソニア王女に好意的だった王宮内メイド。
アルフォンス殿下にも手伝ってもらって、シルヴァリオ王国から引き抜いた人材の一人だ。
彼女の他にも好意的だった数人を引き抜いて、メイドなどの使用人として働いてもらってるんだが……ソニア王女に近しかった元使用人だから、当然女性がほとんど。
その結果、今この屋敷の中にいる男性は俺とトム、庭師の三人と少数派な状況なのである。
女性が多くて天国じゃないかと思う人もいるかも知れないが、とんでもない。
そもそもローラを筆頭に、彼女達にとって主はニア。
いや、ちゃんと俺を雇用主として立ててくれてはいるんだが、心の主がニアであるのは間違いない。
そんな中でニア以外の相手に鼻の下を伸ばしでもしてみろ、総スカン確定である。
もちろんそんなことをするつもりはないが。ものの例えというやつだ。
また、不遇だったニアを知っているからだろうか、彼女達の間には仲間としての強い連帯感がある。
徒党を組んでどうこうとかは別にないんだが、少数派としては何となく肩身が狭い。
ということで、トムや庭師とは肩身が狭い同士の連帯感的なものが生まれてきているような気がしないでもない。
だから、口が前よりも軽くなってるんじゃないかと思ったりもしているわけだ。
ちなみにこの庭師はローラが引っ張ってきたシルヴァリオ王宮の元使用人らしいんだが……四十過ぎで落ち着いた物腰、滑らかな身のこなしに隙の無い目配りと、庭師じゃなくてお庭番じゃねぇのか疑惑がある人物である。俺が勝手に思ってるだけだが。
なんせお庭番という諜報員組織は極東のもの。こんなところにいるわけがない。
ないんだが……どうも、普通の庭師の空気じゃないんだよなぁ。
まあ、そんな彼が居てくれること自体は、屋敷の安全のためには大歓迎なのだが。
「今日も特になにもなし、か?」
「はい、少なくとも私が知る限りは。詳しくはトムから報告があるかと思います」
「ありがとう。じゃあ着替えたら食堂に行くから……ニアにも声をかけておいてくれるか?」
「かしこまりました」
俺が頼めば、メイドは恭しく頭を下げ、俺が通り過ぎるのを待ってからニアの部屋へと向かった。
……うん、まあ。まだ俺とニアは婚約者同士であって夫婦ではないので、二人の部屋は離れている。
ローラを筆頭に全女性使用人から言われたのでは逆らえないし、俺としてもその方が安心するところはあるんだよなぁ……。
一つ屋根の下ってだけでも心臓に悪いのに、これで部屋まで近かったら、家に居る間中血圧が上がりっぱなしなんじゃないだろうか。
いくら俺が若くて頑丈さには自信があるとはいえ、うっかり血管が切れそうで怖い。
……結婚するまでにはもうちょい慣れたいところだが。
などと考えながら、屋敷内で着るちょっと砕けた服に着替えた俺は、食堂へと向かった。
「お帰りなさいませ、アーク様」
そこで微笑みながら迎えてくれたのは、もちろんニアである。
ああ、今日一日の疲れが癒やされる……。
なんてことはおくびにも出さずに、俺は向かいの席へと座った。
……顔が緩みそうになるのは勘弁して欲しい。
「ただいま帰りました、ニア。もう先に夕食は食べたんですよね?」
「はい、すみません、お先にいただきました」
「いや、俺の帰りが遅いのが悪いんだから、気にしないでください」
そもそも、遅くなったら先に食べてくれと言ってるしな。
それでも律儀に詫びてくるのがニアの人柄というものだろう。尊い。
いやここで浸ってる場合じゃないのだ。
「今日も変わりなかったようですが、どうでした?」
「そうですね、今日は……」
と、様子を聞いたりするんだが、夫婦の会話っぽくていいなと思う。
ここまでは。
そこから聞かされるのは、今日ニアがどんな勉強をしただとか、どんな情報が手に入っただとか、それを元に領地に行った際どう行動した方がいいかの提案だとか。
うん、夫婦の会話っていうか領地経営会議、あるいは戦略会議だなこれ!
いや、仕方ない、仕方ないのはわかってる!
領地に行ったらやることは山積みなんだ、今のうちに心の準備、あるいは脳内シミュレーションをしといた方がいいのもわかってる!
だが、ちょっとだけ潤いが欲しいと思うのは贅沢だろうか!
また、それだけではない。
「あ、アーク様、今のナイフの動きはいけませんね。ナイフとお皿が当たって音がしています」
「はい、すみません……」
「視線が手元に行き過ぎです。視線は相手に向けながら、もっと余裕を持って」
「こ、こうですかね……?」
と、こんな頭を使う会議をしながら、テーブルマナーの指導も受けているというしんどい状況。
だがまあ、これも仕方ない。
なんせ俺は、最低限のマナーは身に付けているが習熟しているとは言いがたい。
ついでに言えば、騎士爵時代とかは食べることに集中していても問題なかったが、子爵ともなればそうはいかない。
行儀良く食べながら会話をし、更に頭の中では考えを巡らせ、といったことを並行してやらなきゃいけないときている。
アルフォンス殿下なんかはそれはもう見事にやってのけるわけだが、残念ながら俺にそんな器用さはない。
ということで、数をこなすために毎晩ニアの指導を受けているわけだ。
アルフォンス殿下曰く、思考も運動と一緒で鍛錬できる、数をこなすのが重要、とのこと。
他の奴はともかく、殿下ほどのお方がそう言うんなら、信じるしかない。
少なくとも所作に関して言えば運動と同じに考えていいし、そっちに余裕が出来れば考え事に頭を使うことも出来るようになるはず。
おまけに自分の食事はとっくに終えているニアが付き合ってくれるんだ、絶対に成果を出さにゃならん。
「アーク様、肩に力が入りすぎです、リラックスリラックス」
「は、はいっ」
いかん、考えに力が入ったせいで身体にも力が入った、と慌てて力を抜く。
……言い方が可愛くて勝手に力が抜けた気がしないでもない。
あ、これいいかも知れんな。
リラックスリラックス、と今のニアの言葉を脳内で何度も再現してみると、良い感じで力が抜けてきた。
これだ! と思ったんだが……。
「あの、アーク様? 今の話、聞いてましたか?」
「うわっと!? す、すみません!」
今度は会話に意識がいっていなかった……。
まだまだ、マナーマスターには遠いようである。
頭を切り替え、会話にも所作にも意識しながら、俺はまた食事を再開するのだった。




