伝わったもの、伝わらないもの
※アークの一人称でなく、三人称視点になります。
そんな、アルフォンスが思う存分腹黒さを発揮していた頃。
「はぁ……」
アークの子爵邸へ向かう引っ越し準備が一段落した家の自室で、ニアは机に頬杖を突くお行儀の悪い姿勢で溜息を吐いていた。
「どうしたんですか姫様、溜息なんて吐いて」
お茶のお代わりでも、と部屋に入ってきたローラが声を掛ける。
だが、普段ならば直ぐに返事をするニアから返事が返ってこない。
呼吸が速い様子はなく、姿勢を見るに身体に力が入らないわけでもないとなれば、病気や体調不良ではなさそうだ。
であれば、別の要因だろうか、とローラが観察しながら考えていると、ゆっくりとニアが身体を起こした。
「ねえ、ローラ」
「はい姫様?」
問いかけられて、即座に返事を返すローラ。
主の声に即反応できるよう己を律しているその姿は、侍女の鑑と言ってもいいかも知れない。
本人の本質的な気性はともかくとして。
そして、問いかけたニアは……しかし、直ぐには問いを発しない。
言いかけては口を閉じ、視線を逸らし。
躊躇い、恥じらい。
そんな主の様子は可愛いので、それはそれでいいのだが。
しかし、彼女をそうさせている存在が誰なのかわかっているだけに、素直に喜べない。
ましてその男が、主であるニアと結婚して雇用主となるなど。
と、主向けの和やかな笑顔でアークへの恨みを積み重ねていたローラへと、ニアがやっと問いを発した。
「アーク様って……私のこと、かなり好き、みたい、よね……?」
躊躇いがちに言うその顔は、頬を染めて、自信なさげに目を少しばかり伏せた……恋する乙女としか形容のできないそれで。
このタイミングでのそれは、ローラにとってかなりな痛恨の一撃となった。
うっかり顔面のガードが崩れそうになったローラは、慌てて表情を微笑みの形に引き締めながらニアへと答える。
「左様でございますね、あれはかなりではないかと」
「そうよね……」
ローラの答えに返すニアの吐息は、随分と熱っぽい。
聡明ではあれど純粋無垢だった姫様が、大人の階段を一歩登ってしまった。
そのことに愕然とした想いになるものの、それでもまだローラは踏みとどまる。
というか、そもそもニアにそれが伝わってしまったのは彼女のせいなのだから。
「想いを込めた拳が、あんなに熱の籠もったものに見えるだなんて、知らなかったわ……」
そう言いながら、もう一度ニアは熱っぽい溜息を零した。
事の発端は、もちろんアークとバラクーダ伯爵のステゴロ、もとい肉体言語による話し合いである。
アークの意識からは外れていたが、ローラは二人の首相撲辺りからずっと実況・解説を一人で続けていた。
それはひとえに、主であるニアを安心させるために。
何しろ傑物と呼ばれるに値する武人二人の格闘戦だ、素人目には何が何だか追うことも出来ず、とにかく恐ろしい迫力だということくらいしかわからない。
……普通は。
色々とくぐり抜けてきたニアは冷静に見据える肝の据わりっぷりを見せていたのだが、それでも理解は追いつかない。
だからローラが実況解説を買って出たのだが……それが良くなかった。ローラ的には。
「まあ確かに、武門の伯爵家として守るべき誇りを背負ったバラクーダ伯爵と、貫きたい己の意地を張り通したマクガイン様のあの攻防は、武に携わる者であれば必見と言うべきものではありましたが」
悔しいが、確かに見事な戦いぶりだった。そして見事な勝利だった。
そこは認めざるを得ないのが、また悔しい。
何しろ、主であるニアが、その戦いにすっかり魅入られてしまったのだから。
「そうよね、そうよね! 武門の名家であるバラクーダ伯爵の、一門を背負ったが故の力強さ、実に見事だったわ。
だけど……それに対抗して、凌駕したアーク様……その、あの拳に込められたものって……つまり、そういうことよね?」
「そういうこと、ではよくわかりませんが、多分そうなんじゃないでしょうか」
すっかり浮かれポンチになってしまったニアの姿に、ローラはどう反応したらいいのかわからない。
正直に言えば嘆かわしい。こんな浮かれきった姿は見たくなかった。
だが、浮かれきってしまうだけの相手を見つけたことは喜ばしい。
また、その相手があの『黒狼』。
ローラからすれば祖国をボコってくれてありがとうと言いたくなりはすれども、同時に三桁斬りの猛将という曰く付き物件である。
野蛮で血生臭い相手などとんでもないと思いはしつつ、しかしある意味恩人でもあるのだから悩ましい。
まして、こんな恋に悩む顔を見せられては。
「我ながら野蛮だとは思うのだけれど……アーク様が、私との婚約のために戦う姿を……私への想いを込めた拳を振るうところを見たら、胸が高鳴ってしまって……。
それが、今日になっても収まらないの。
ねえ、ローラ。私、どうしたらいいのかしら」
どうにも手の付けようがないと思いますよ、というのが正直なところである。
だが、ローラはそれを堪えた。必死に。己の持つ忍耐力を総動員して。
アークが絡むとどうしようもないが、それ以外であれば未だに敬愛すべき主なのだ、見捨てることなど出来るわけが無い。
ただ、悩んでいるのか惚気ているのかわからない言動だけはどうにかならないものかと思いはする。
口にはとても出せないが。
「いっそ、素直にそうおっしゃればいいのでは?」
どうでもいいです、を最大限オブラートに包んだ結果の言葉に、しかしニアは恥じらう表情を見せる。
そんな表情はとても愛らしいのだが。
そんな表情にさせるあの男が憎らしくもある。
「そんなこと、とても言えないわ! 殿方が殴り合う姿を見て胸をときめかせました、だなんてそんな、はしたない!」
「ええまあ、普通の淑女でしたら気を失っていてもおかしくない光景だったとは思いますが」
答えながら、ローラは思わず遠い目になる。
アークとバラクーダ伯爵の殴り合いを思い出すと身震いをしてしまうくらいに、二人の肉体言語による話し合いは凄まじかった。
アーク本人は、それが当たり前の領域にいるから平然とした顔だったが、並みの武人であれば指をかけることすら出来ない段階にあの二人はいた。
とても残念なことに、ローラはそこに近い段階にいるからこそ、自分がその領域に至ることが出来ないことを理解してしまった。
理解出来てしまった。
結果、アークに対する感情はますます複雑になってしまう。
「気を失うだなんて勿体ない。あんなに熱烈なラブコール、一瞬たりとも見逃せないわ」
全てが正確に伝わってしまった後となれば、尚更のこと。
だからローラには、悪い考えが浮かんでしまった。
「でしたら姫様。マクガイン様の思いに気付いていない振りをしていたら、ああいった姿を何度も見られるかも知れませんよ?」
もしも今この場にアークが居たら、『何言ってんだお前はぁぁぁぁ!』と絶叫しそうなことを、さも当然のような顔でさらりと言うローラ。
せめて同じ男であるトムが居たら話は変わったかも知れないが、残念ながら女性の主であるニアの部屋に彼は滅多に入ってこない。
だから、ローラの発言を咎める者はいなかったのである。
「そ、それは……確かにそうかも知れないけれど……なんだかアーク様に悪い気がするわ」
「いいんですよ、そこで踏ん張って頑張るのが男の甲斐性ってものですから」
多分。きっと。もしかしたら違うかも知れませんが。
そんな言葉をおくびにも出さずにローラは笑顔を作る。
聡明だが男女の機微に疎いニアは、ローラの言葉に半信半疑。
つまり、半分は信じかけている。何しろ、ニアはローラに全幅の信頼を寄せているのだから。
その信頼を悪用しているようで心苦しいが、あの『黒狼』の右往左往する姿が見られるのならば仕方が無い。
どうせ遠からず両思いであることには気付くのだろうから、今これくらいの悪戯は許されるに違いない。
そんなことを考えていたところで、トムがドアをノックして来客を告げた。
「まあ、このタイミングでアーク様がいらっしゃるだなんて……私、どんな顔をしてお会いすればいいのかしら」
「いつも通りでいいと思いますよ? 色んな意味でいつも通りに」
「そ、そうね、急に態度が変わっても、アーク様も変に思うかも知れないし……」
ローラの讒言を、ニアは受け入れてしまった。
実際の所、急にニアが恋する乙女モード全開で応対しても、アークは真っ赤になって混乱するばかりだろう。
状況を進めるためには、この程度の嘘など方便なのだ。
そう自分に言い訳をしながら、ローラは出迎えのためにニアの身支度を調えるのだった。




