縁は異なもの
地面に転がったバラクーダ伯爵を見て、しかし俺は油断をしない。
右手を顎下辺りに戻した上で左拳を伯爵へと突き出すようにして、牽制の姿勢。
倒したと思って油断をしていない、まだお前に意識を残しているぞ、と示す意味もある構え。
……数秒そのままでも、バラクーダ伯爵が起き上がってくる気配はない。
流石にこれは、勝負あったと見ていいかな。
などと俺が考えた丁度その時、伯爵が大きく息を吐き出した。
「ふはぁ……ああ、効いた効いた! 儂の、負けだ!」
両手両足を投げ出すような格好で寝転がったまま、伯爵が宣言する。
随分と、スッキリした声と顔で。
それを聞いて俺は、ゆっくりと両の拳を下ろし、空を見上げた。
「ふぅ~……」
腹筋に力を入れ、背筋も絞り、腹の底から空気を押し出すようにして吐いていく。
力が、抜けないように。それでも、張り詰めていた気を解放するように。
そうしないと俺も倒れ込みそうだったし、かといって『黒狼』のままでいるわけにもいかないし。
息を吐き出しながら、意識を日常へと戻していく。
……バラクーダ伯爵の抱え込んでたもんも、いくらかは空に溶かすことが出来ただろうか。
高いところに行った嫡男殿は、少しは安心出来ただろうか。
問うても答えは返ってこないが、何となく、どうにかなったような気はする。
じっくり時間を掛けて息を吐き出した俺は、視線を地上へと戻す。
最初に目に入ったのは、やはりニアだった。
……あれ? 何か顔真っ赤にして目を潤ませてんだけど。
え、俺そんなに心配させるような戦い方してた!?
いや、してたか。特に終盤。
相打ち上等の殴り合いとか、王女やご令嬢には刺激が強すぎるだろう。
……いや、エミリア嬢は平気そうだな。彼女は特例か。
ローラ? あれは普通じゃ無いから論外。
それはともかく、まずはニアを安心させないと。
ってことで、俺は痛む顔面に鞭を入れながら笑みの形を作り、ニアへと手を振って見せた。
……口元押さえて更に泣きそうな顔になっちゃったんだけど。
うわ、どうすりゃいいんだこれ!?
ま、まずは伯爵を起こした方がいいんかな、一応儀礼的に。
と、俺が若干混乱していた時。
「あの、マクガイン様。ゲイル・バルディナンド様がお越しです。
なんでも、第三王子殿下から緊急の書類をお預かりしてきたと」
「へ? アルフォンス殿下から?」
執事の真似ごとをさせていたトムがいきなりやってきて、ゲイルの来訪を告げてきたもんだから、俺は首を傾げた。
今日の決戦のために、俺は数日前から書類仕事に励んで片付け、休みをもぎ取っている。
だから、今急ぎで確認する必要のある書類に心当たりがないんだけどな。
「まあいいや、緊急ってんならしょうがない、こっちに通してくれ」
話し合いが終わったばっかで寝転がったままのバラクーダ伯爵を置いて屋敷の中に戻るわけにもいかんし、無理に動かすのもよろしくない。
ってことで、中庭の方にゲイルを通してもらったんだが。
「……何やってるんですか、隊長」
中庭の光景を見たゲイルが、最初に口にしたのがこれである。
いやわかる、言いたくなるのもわかる。俺だってそう言う。
ようやっと上半身を起こしたバラクーダ伯爵に、立ってるのがやっとな俺。
何事だと思うのは至極当然な反応だろう。
しかしこれには理由があるんだ、と説明しようとしたその時。
「まあ……」
という小さな呟きを、俺の耳は捉えた。
おや? と思ってそちらへ視線をやれば、いつの間にか取り出した白扇で顔の大半を隠したエミリア嬢。
隠れていない目が向かう先を辿れば、こちら……というかゲイル。
その視線、何よりその表情を見た瞬間、俺の脳内に雷が走る。
内心を押し隠し、俺はゲイルへとにこやかな笑みを向けながら書類が入っているらしい封筒を受け取った。
「いやまあ、バラクーダ伯爵とちょっとした話し合いをな。すまんなわざわざ書類を届けてくれて。
丁度良い機会だから閣下にご挨拶させていただけよ」
「はい? は、はぁ……確かにバラクーダ伯爵様にご挨拶させていただけるのは、光栄なことですが……」
流石、殿下を除けばうち一番の知性派であるゲイル、バラクーダ伯爵のこともしっかり知っていたらしい。
俺はにこやかな顔のまま、伯爵へと向き直る。
「閣下、ご紹介いたします。こちらは私の部下で売り出し中の若手、ゲイル・バルディナンドです」
「ご紹介に預かりました、ゲイル・バルディナンドでございます」
俺の紹介とともに、ゲイルが折り目正しい姿勢で挨拶をする。
うん、几帳面なゲイルの性格が良く出た、良い挨拶だ。
ゲイルは平民に多い明るめの茶髪に茶色の目という地味と言えば地味な外見なのだが、騎士としてしっかりと鍛えられた身体に知性の滲む顔立ちをしているからか、こうした振る舞い一つでそれが実直さへと変わる。
そんな挨拶を受けたバラクーダ伯爵もまた、良い笑顔で挨拶に応じてくれた。
「うむ、君がゲイル・バルディナンド卿か。卿の噂はかねがね聞いておるよ
先日の一件でも、随分と活躍したようだな」
……この顔、声の調子。どうやら伯爵も、俺の意図に気付いたようだ。
伯爵からの評価に「とんでもない」だとか恐縮するゲイルに、俺はわかりきったことを聞く。
「そういやゲイル、お前まだ独身だったよな?」
「なんですかいきなり。そんなこと、とっくにご存じでしょう?」
「まあまあ。そんでもって、婚約者もいないよな?」
「そりゃそうでしょう、そんな暇もありませんでしたし。……私以上の激務にも関わらず婚約者様を見つけられた隊長に言われると、色々と複雑ですが」
平民から騎士団に入って騎士爵を得たゲイルは、そのための努力を怠らなかった。
だから今の立場があるし、俺はもちろんアルフォンス殿下からの信頼も厚い。
そのせいで色恋沙汰に現を抜かす暇もなかったし、平民出身の騎士に貴族からの縁談なんてあるわけもなかったんだが。
「そういやニアに会わせたこともなかったな。折角だし……っと、閣下、ゲイルをご息女にご挨拶させていただいてもよろしいですか?」
「ああ、構わんよ。エミリア、こちらへ来なさい」
とバラクーダ伯爵が呼びかければ、エミリア嬢がこちらへ来たんだが……ほんのり頬が染まっているのを、白扇で隠し切れていない。
そんでもって、そちらに意識がいってなかったゲイルは、こっちにやってきた美女二人を見てびっくりした顔になっている。
そりゃそうだよな、俺はニアで慣れてるから平気だったが、エミリア嬢もとんでもない美人さん。
男ばっかりの職場で女っ気のないゲイルには刺激が強かろう。……いや、俺もついこの間まではそうだったから、偉そうなことは言えないんだが。
「バラクーダ嬢、ニア、こちらは私の部下で最も頼りになる男、ゲイル・バルディナンドです」
「ご紹介にあずかりました、ゲイル・バルディナンドでございます。最も頼りになる、とは過分な評価ではございますが……」
美女二人を前にして緊張しているのか、若干口調がどもり気味なゲイル。
もっともそれは、二人の……特にエミリア嬢の印象を悪くしてはいないようだ。
「アーク様の婚約者、ニア・ファルハールでございます。過分などとんでもない、アーク様からよくお話は伺っております」
「ど、どんなことを言われていますやら、気になりますが……」
ゲイルに近づいたせいで緊張してきたのか、すぐには挨拶を返せなかったエミリア嬢に代わってニアが先に挨拶をする。
それに対して何とか無難な返事を返したゲイルが、エミリア嬢を見た。
……ふむ、感触は悪くなさそうだな?
「バ、バラクーダ伯爵が息女、エミリアでございます。どうぞお見知りおきを……」
「は、はい、どうぞよろしくお願いいたします……」
挨拶を交わし、見つめ合う二人。
何かこれ、もう俺が何かする必要ない気がするんだが。
しかし、貴族のあれこれとなれば利もないといかんからな。
「ゲイルは今は騎士爵ですが、先日の功績で昇爵となりそうでして。準男爵か男爵か、で揉めてるんだっけ?」
「揉めている、と言うのははばかられますが……通常であれば準男爵なのでしょうが、アルフォンス殿下が男爵位を、と掛け合ってくださっているそうで」
「だろうなぁ、そもそもそれだけの働きをしたと思うし。俺は領地を賜って動きにくくなるだろうから、お前が男爵になってる方が今後色々助かるし」
例えば、先日俺に与えられた外交特使の権限は、男爵以上の貴族でないと与えられない。
そりゃあれだけ強力な権限だ、ほいほいと渡せるもんじゃない。
で、今の殿下直属の面子で外交特使の権限を誰に与えるべきかと言われたら、ゲイルは一番か二番に名前が挙がるだろう。
「今後助かるって……え、まさか私に無茶ぶりがされるようになるんですか?」
「そりゃお前、緊急の書類を預けられるような人間だぞ? 戦場で急ぎの伝令を任される奴がどんな奴か考えてみろよ」
「それは、まあ……そう言われたら悪い気はしませんけども」
温和で知的な顔立ちのゲイルだが、やっぱりそれでも叩き上げは叩き上げ、戦場の機微はよくわかっているし、そう評価される意味もわかっている。
そしてもちろん、そういう扱いをされている人間の評価がどういうものか、バラクーダ伯爵はよ~っくわかってるから、さっきよりも一層良い笑顔になっている。
「ちなみにバルディナンド卿は、男爵位は望むところですかな?」
「そうですね……平民出身の私が辿り着けるのならば、とは」
伯爵が尋ねれば、ゲイルはとまどいながらも頷く。
男爵位は、普通であれば平民出身者のゴール。そこまで行ける人間なんて、ほんっとに一握りだ。
そこに二十代で到達しようってんだから、ゲイルの努力と才能は特筆すべきものであるだろう。
温和な人間だが、ちゃんと上昇志向もある。じゃないと騎士爵なんて取らないんじゃないかな。
そしてそこは、バラクーダ伯爵的には重要なところであるはず。
「なるほどなるほど。であれば、儂がアルフォンス殿下にご助力するのもやぶさかではありませんぞ」
「え。そ、それは、とてもありがたいですが……」
唐突な伯爵からの申し出に、戸惑うゲイル。
そりゃそうだろうなぁ、多分本人だけがわかってないだろうし。
「マクガイン卿から見て、バルディナンド卿の腕前の方はいかがですかな?」
「そうですね、槍を使わせれば私の次、組み打ち限定なら私でも気が抜けません」
「ほう、マクガイン卿をしてそう言わしめるとは、大したものですなぁ!」
「ちょ、ちょっと隊長、言い過ぎじゃないですかそれは!?」
上機嫌なバラクーダ伯爵の横で、ゲイルが慌てふためく。
いやでもな、実際それくらいの腕にはなってんだよな、ゲイルの奴。
あ、もう一つアシストしておこうか。
「いや、事実だしな。あ、俺の次っていっても、槍はまだまだ修練しないとだからな?
ところで、気の強い女性とかって、どう思う?」
「え、なんですか急に。……そういう、タイプがどうとかは考えたこともありませんでしたが、私の仕事を考えれば、むしろ気が強いというか芯がしっかりしている人の方が望ましいでしょうね」
なるほど、答えの感じからして、誰か特定の人の顔が浮かんでる感じじゃないな、これは。
それも伝わったのか、ゲイルの返答を聞いたエミリア嬢の表情が、ぱっと明るくなる。
どうやら、性格面の相性も問題なさそうだ。
こうなったらもうバラクーダ伯爵は絶対に逃しはしないだろうし、エミリア嬢には喜ばしい未来が訪れる可能性が高い。
何しろ、平民出身の男爵が伯爵家に婿入りした前例は、稀だがいくつかは確かにあるのだから。
バラクーダ伯爵家のような有力な家には無いに等しいが、ゲイルの軍功と殿下と閣下の後押しがあれば、文句を言える奴もいないだろうし。
そして。
「当然、殿下もご存じだよなぁ……」
段々俺そっちのけで盛り上がりだした伯爵とゲイル、時々エミリア嬢。
そんな三人を見つつ今更ながら封筒を開けて書類を見れば、普通の文章に見せかけた暗号で『ゲイルはどうだ?』とあった。
つまり、緊急の書類だとか言ってゲイルを使いに出したのは、アルフォンス殿下の策だったわけだ。
「どうやら、ばっちりみたいですよ」
と、誰にも聞こえないように呟いた俺は、そっと封筒を閉じた。




