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九月四日 徳郁、悩む

 にゃあ。

 甘えるような鳴き声とともに、黒猫のクロベエがとことこと歩いて来た。少女の前で立ち止まると、いきなり仰向けになる。肉付きのいい腹を見せつけながら、体をくねらせた。ほらどうした、俺の腹を撫でたいのなら撫でてみろ、と挑発しているかのような動きだ。


「くろ……く、ろ、べえ……」


 たどたどしい口調で言いながら、少女は笑みを浮かべた。手を伸ばし、クロベエの腹を撫でる。手の動きはぎこちないが、その顔は優しさに満ちていた。

 クロベエは喉をごろごろ鳴らしながら、うにゃん、と鳴く。少女に、何かを語りかけているかのようである。

 窓からは、朝日が射していた。日の光に照らされる両者を見ながら、吉良徳郁は複雑な思いに襲われていた。

 目の前の光景は、とても微笑ましいものだ。しかし昨日からの疑問は、何ひとつ解決していない。

 いったい何がどうなっているのだろう。普通、野良猫は会ったばかりの人間にあんなポーズをしたりしないはずだ。ただ、クロベエは以前どこかの家で飼われていた可能性はある。自分への懐き方からして、純粋な野良猫ではないのかもしれない。

 いや、そんなことはどうでもいい。それ以前に、もっと重大な問題がある。

 この少女は、いったい何者なのだろう?




 昨日、この少女は一糸まとわぬ姿で河原にたたずんでいた。衣服の代わりに、血液らしきものを身にまとった奇怪な姿である。

 犬のシロスケは、そんな異様な少女を警戒していなかった。尻尾を振りながら、彼女に向かい歩いていく。

 やがて少女の前で立ち止まると、尻を地面に着けた姿勢で彼女を見上げている。その全身から、親愛の情らしきものが感じられた。仲の良い徳郁に対してさえ、滅多に見せない姿だ。

 そんなシロスケに対し、少女は血の付いた顔で微笑みながら、そっと手を差し出す。シロスケは、目の前の手をぺろぺろ嘗めていた。

 ふと、少女の顔が徳郁の方を向いた。

 次の瞬間、微笑みながら近づいて来る。徳郁は異様なものを感じながらも、その場を離れることが出来なかった。

 少女は嬉しそうな表情で、徳郁をじっと見つめている。その瞳は、右が赤く左が緑だ。黒髪は短く切り揃えられており、肌は白い。とても綺麗な顔立ちだ。ただ美しいだけではなく、浮世離れした何かを連想させる。地上に舞い降りた天使……そんな印象すら与える風貌だ。

 少女は、手を伸ばせば触れられるくらいの距離まで近づいて来た。が、そこで立ち止まる。少しの間を置き、徳郁に首を傾げて見せた。

 その時になって、徳郁は相手が裸であることを意識した。途端に頬が紅潮する。今の状況のあまりの異様さに、思考能力が低下していたらしい。すぐさま着ていたシャツを脱ぎ、放り投げた。


「お前にやる。だから早く着ろ。それを着て、さっさと病院に帰るんだ」


 少女から目を逸らし、ぶっきらぼうな口調で言った。この女が何者かは分からない。だが、どう見てもまともな人間とは思えなかった。恐らく、どこかの病院から抜け出して来たのではないだろうか。

 かつて医療少年院にいた徳郁は、心の病にかかってしまった者を数多く見てきた。ここにいる少女も、恐らくはその類いであろう。何かの拍子に、近くの病院から抜け出してしまったのか。


「さっさと病院に帰って、薬でも飲んで寝ろ」


 強い口調で言うと、背中を向け、その場から立ち去ろうとする。

 その時、わう! という声が聞こえてきた。シロスケの吠える声だ。振り返ると、前足を小刻みに動かし地面を踏みつけながら、徳郁をじっと見つめている。こちらを睨み、地団駄を踏んでいるかのような動きだ。


 お前、この娘を置いて行く気なのかよ! ひどい奴だな! 


 なぜか、そう言われ責められているような気がした。

 徳郁は溜息を吐き、少女に視線を移す。少女は、徳郁の渡したシャツを着ていた。白いTシャツだが、あちこち血の染みが付いてしまっている。にもかかわらず、ニコニコしながらシロスケの頭を撫でていた。


「お前、名前は?」


 仕方なく尋ねてみる。もっとも、まともな返答は期待できそうもないのはわかっていた。


「な、まえ……」


 少女は、たどたどしい口調で言葉を返す。この答えは、半ば予想していた通りだった。無駄かもしれないと思いつつ、なおも質問を続ける。


「ああ、お前の名前だ」


「さん」


「ええっ? サン?」


 思わず聞き返すと、少女は真剣な表情で再び返答する。


「なま、え……さん。な、まえ……さん」


 ぎこちない口調ではあるが、一応は答えているつもりなのだろう。どうやら、この少女はサンと名乗っているらしい。


「じゃあ、お前の名前はサンなんだな? サンが名前で間違いないんだな?」


 念のため確認してみた。すると少女は頷き、徳郁に微笑みかける。自分の意図が通じたのが嬉しかったのだろう。

 少女は、笑顔で徳郁を見つめている。瞳の色は左右で違っていた。だが、そこに浮かんでいるのは親愛の情だ。クロベエやシロスケと同じものである。

 突然、鼓動の高鳴りを感じた。今まで、他人に対しこんな気持ちになったことはない。自身の反応に戸惑い、意味も無く目を逸らす。

 その時、奇妙なことに気づいた。他の人間と接する時に、必ず湧き上がってくるはずの嫌悪感……それが、今は全く感じられないのだ。

 徳郁は他人に近寄られると、それだけで不愉快な気持ちになる。ほんの少し触れられただけで、反射的に突き飛ばしたことも一度や二度ではない。仕事の時は、その嫌悪感を殺意へと変換させている。したがって、人殺しは得意だ。

 しかし、サンと名乗るこの少女は違う。ここまで接近しているのに、何も感じない。クロベエやシロスケと接している時と同じなのだ。

 戸惑いつつも、口を開いた。


「一晩くらいなら、ウチに泊めてやってもいいぞ。来るか?」


 その言葉に、少女は笑顔で頷いた。




 それから一日たった今、サンは徳郁の家にいる。

 奇妙なことに、クロベエまでもがサンに懐いてしまっているのだ。熊のような体つきで、いかつい風貌の黒猫。しかし今は、喉をごろごろ鳴らしながら、サンにまとわりついている。徳郁はクロベエと仲良くなるのに、かなりの時間を費やしたはずなのだが、サンは丸一日も経たないうちに懐かせてしまったのだ。今も嬉しそうに微笑みながら、クロベエの体を優しく撫でている。

 そんな彼女を見ながら、徳郁ほどうしたものかと考えていた。サンという名前や顔つきからして、恐らく日本人ではないのだろう。では、どこの国から来たのだろうか? この辺りで何をしていたのだろうか?

 一応、風呂やトイレの使い方は知っているらしい。昨日、シャワーで顔や体に付いていた血を洗い流すように言ったところ、サンはこくんと頷きバスルームへと入っていった。覗くわけにもいかないので音だけを聞いたが、ちゃんと己の体の汚れを洗い落としたらしい。

 その後は、家にあった食べ物を与えた。ご飯の残りと缶詰だが、サンは貪るように食べて飲んで、すぐに寝てしまったのだ。

 それから、今朝になっても家にいる──


 いったい、あの血は何だったんだ?

 俺は、これからどうすればいいのだろう? 


 そんなことを考えていた時、外から音が聞こえてきた。わん! と鳴く犬の声だ。シロスケ以外に考えられない。この時間帯に姿を見せるとは、珍しいこともあるものだ。

 徳郁は立ち上がると、玄関に行きドアを開ける。予想通り、外にはシロスケがいた。はあはあと荒い息を吐きながら、今にもちぎれんばかりに尻尾を振っている。

 思わず苦笑する。人の悩みも知らず、気楽な奴だ。

 などと思った次の瞬間、シロスケは凄まじい勢いで突進してきた。徳郁が対応する間もなく、脇を無理やり通り抜け家の中に走り込んで来る──


「お、おいシロスケ! 何やってんだ!」


 慌てて制止しようとしたが、間に合わなかった。シロスケは家の中に入り込み、尻尾を振りながらサンにじゃれついて行く。

 すると、クロベエが素早く起き上がり、背中の毛を逆立てた。威嚇するようなうなり声を上げ、前足の一撃を叩きこもうと構える──

 その時、サンの手が伸びてきた。クロベエの背中に触れ、優しく撫でる。

 途端に、クロベエは大人しくなってしまった。喉をごろごろ鳴らしながら、サンのそばで座り込む。

 一方シロスケは、嬉しそうにサンの顔をなめる。はあはあ息を荒げながら、尻尾をちぎれんばかりに振るわせているのだ。嬉しくて楽しくて仕方ない、とでも言いたげな様子である。こんな状態のシロスケを見るのは初めてだ。


「お前ら、いったい何なんだよ……」


 見ている徳郁は、そんなことを言いながら頭を抱えた。一昨日までは、単純そのものだった自分の生活。余計なことに頭を悩ませる必要などなかった。

 それが今では、一気に複雑なものへと変わってしまった。

 自分はこれから、どうしたらいいのだろう。










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― 新着の感想 ―
[良い点] サンが徳郁にとって太陽になりますように。クロベエやシロスケと同じくらい徳郁がリラックスできますように。 そう祈りながら読みました。 [一言] 孤独は個人の自由ですが、孤立は心を蝕むのかも…
2023/03/16 14:37 退会済み
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