九月三日 徳郁、あれと遭遇する
人気の無い森の中、ドスッという破裂音のような音が響き渡る。しかも、一度では終わらない。続けざまに、何度も聞こえてくるのだ。
その音の主は、吉良徳郁であった。自宅の庭に吊るされた手製のサンドバッグめがけ、拳と足による打撃を叩き込んでいるのだ。スピードのあるパンチは、重いサンドバッグに自身の手首までめり込ませる威力がある。腰の回転を利かせた回し蹴りは、百キロ近いサンドバッグをくの字に曲げるほどだ。彼は一心不乱にサンドバッグを殴り、蹴りを叩き込む。
九月とはいえ、まだ気温は高く外は暑い。しかも、今は午後二時である。昼の暑さはまだ残っており、容赦なく徳郁を襲う。体からは、大量の汗が滴り落ちていった。
汗に構わず、なおもサンドバッグを叩こうとした時、後ろから何者かの視線を感じた。次の瞬間、パッと振り返る──
そこにいたのは、黒猫のクロベエだった。いつの間にやって来たのだろう。地面にて長々と寝そべり、残された左目でじっと徳郁を見つめている。お前は何をやっているんだ？ とでも言いたげな表情を、こちらに向けていた。
徳郁は微笑み、動きを止めた。タオルを手に取り、体に付着した汗を拭い口を開く。
「なんだクロベエ、何しに来たんだ？ 腹が減ったのか？ ご飯を貰いに来たのか？」
その言葉に、黒猫はにゃあと鳴きながら起き上がる。どうやら、言葉の意味がわかっているらしい。
こうなっては仕方ない。徳郁はトレーニングを切り上げ、家に入って行く。クロベエも、その後に続いた。
かつて、徳郁は少年院にいた。言うまでもないことだが、少年院は矯正施設である。罪を犯した少年を更生させるための施設だ。
しかし、徳郁を更生させることは出来なかった。彼は少年院の中でも、多くの人間とトラブルを起こしたのだ。徳郁は院生だけでなく、職員ともトラブルを起こす筋金入りの問題児だった。
唯一、少年院で学び身に付けたものは、体を鍛える方法と習慣だった。敵意に満ちた少年院で自分の身を守るために、暇さえあれば己れの体を鍛え続けていたのだ。
もともと腕力は強く、身体能力に関しても非凡なものを持っている。我流とはいえ、トレーニング効果はたちまち現れた。荒くれ者揃いの少年院でも、徳郁はひときわ恐れられる存在へと変貌する。
やがて、あまりに凶暴かつ反抗的な性格のため、再度の精神鑑定を行うために医療少年院へと送られた。そこで、藤村正人と出会う。
一見すると軽薄な優男の正人は、気難しく人間嫌いな徳郁と上手く付き合うことの出来る唯一の人間であった。やがて徳郁にとって、正人は初めての友人となる。
外から、何やら音が聞こえてくる。
犬の吠える声だ。恐らくシロスケであろう。餌をねだりに来たわけではなさそうだ。何かあったのだろうか。
クロベエに缶詰を食べさせた後、徳郁は床の上でうとうとしていた。しかし、浅い昼寝はシロスケの吠える声により中断されてしまう。普段はクールな野良犬であるシロスケだが、今回は妙に興奮しているる。扉の前で、さかんに吠えていた。
いったい何事が起きたのだろうか。徳郁は眠い目をこすりながら、体を起こした。窓に近づき、注意深く外の様子を窺う。
シロスケは扉の前で、忙しなげに歩いていた。ときおり立ち止まり、顔を上げて吠える。早く出て来い！ とでも怒鳴っているようだ。妙に切羽詰まっているような雰囲気も感じられる。徳郁は首を傾げながら、扉を開けて外に出た。
「おいシロスケ、どうしたんだよ？」
声をかけると、わう！ と威勢よく鳴く声が返ってくる。
直後、この白犬は向きを変えて歩き出した。とことこと森の中に入って行こうとする。徳郁は唖然となり、その場で首を傾げた。あいつは何をしているのだろうか？
と、シロスケはぴたっと立ち止まった。徳郁が付いて来ていないことに苛立っているらしい。何か言いたげな様子でこちらを向く。
「付いて来い、ってことか？」
言いながら、徳郁は外に出ていく。すると、シロスケは尻尾をぴんと立てて、再び歩き出した。のしのし森の中を進んでいく。
徳郁は仕方なく、白犬の後に続き歩いていった。付近は木が密集して生えており、地面はデコボコで非常に歩きにくい。彼はこんな人里離れた場所に住んでいるが、実のところ山歩きは得意ではないのだ。今も、ゆっくり慎重に歩いている。
そんな徳郁の苦労などお構い無しに、シロスケはどんどん森の中を進んで行く。時おり立ち止まっては、彼が追い付くのを待っていた。早く来てくれ！ とでも言いたげな表情をこちらに向けている。
「おい、いったいどうしたんだ？ 何があったんだよ？」
思わず声を出していた。言うまでもなく、シロスケからは答えなど返ってこない。にもかかわらず、聞かずにはいられなかった。
実に奇妙な話だ。シロスケとの付き合いは、そろそろ三年になる。しかし、今まではつかず離れずの微妙な距離感を保ちつつ接していた。こんな風に、一緒に外を歩くことなどない。
この犬は普段、森の中の縄張りと思われる地域をうろうろしている。腹が空いた時や、気が向いた時などに徳郁の家を訪れる……そう、シロスケは文字通りの一匹狼なのだ。普段は、ことさら徳郁に媚を売ったり機嫌を取ったりはしない。
むしろ、気まぐれな野良猫であるはずのクロベエの方が、徳郁に懐いているくらいだ。あの猫は、平気で家の中にも入って来る。平気で腹を見せたりもする。
そんなクロベエと違い、いつもは孤高の一匹狼であるはずのシロスケが、どこかに自分を導こうとしているのだ。異常な事態である。何が起きたのだろうか？
徳郁は戸惑いながらも、後を追って行った。
十分ほど歩くと、ひらけた場所に出た。山の中にある大きな川のほとりに来ていたのだ。
ここには、たまに旅行者や地元の若者たちが車で訪れることがあった。河原で釣りをしたり、バーベキューをするのだ。徳郁は特別な用事がない限り、ここには近づかないようにしている。他人とトラブルを起こしたくないからだ。
今も、河原には人の姿が見える。若い女……いや、少女といった方がいいのだろうか。年齢は、十代半ばだろう。ただし、その少女は旅行者には見えなかった。
なぜなら、衣服らしき物を何も身に付けていなかったからだ。しかも、体のあちこちに赤い液体が付着している。
ひとりの少女が、一糸まとわぬ肉体のまま河原にてじっと立っている……あまりに異様な状況を前に、徳郁は困惑し、その場に立ちすくんでいた。この少女は何者だ？ こんな所で何をしている？
一方、シロスケは嬉しそうな様子で近づいて行き、少女の前で立ち止まった。尻を付き、前足を揃えた姿勢で少女の顔を見上げる。その様子は、まるで飼い主の命令を待っている忠犬のようである。
少女は下を向き、シロスケに微笑んで見せた。真っ赤な液体で汚れた顔であるにもかかわらず、その表情はとても優しげだ。
その時、ようやく気づいた。少女の体に付いている液体はペンキではない。血液だ。
次の瞬間、少女は顔を上げた。その目は、徳郁を捉える。
徳郁もまた、少女を見つめるしかなかった。髪は黒く短めで、肌の色は白い。人形のように整った綺麗な顔立ちをしているが、その体に付いているのはペンキでもケチャップでもなく、本物の血液だ。血を見慣れている徳郁にはわかる。
しかも、少女の体には傷が見当たらない。ということは、他の人間の血液が付着している……としか思えない。
その奇妙な少女は、彼を真っ直ぐ見つめ、ゆっくりと近づいて来た。にもかかわらず、徳郁は動くことが出来なかった。
全身が血まみれの、全裸の少女が近づいてきている。明らかに異様な状況だというのに、徳郁は身構えることもせず、少女が近づくに任せていたのだ。
さらに接近して来た少女の瞳を、まじまじと見つめる。その瞳は、左右の色が異なっていた。右が赤く、左が緑色である。
徳郁は、まるで少女に魅入られたかのように、その場に立ち尽くしていた。
