九月二日 伽耶と讓治、白土市に潜入する
「ねえ、マジで来るの?」
心配そうに尋ねる譲治に、伽耶は頷いた。
「行くよ。だいたい、あんたを野放しにしておけるわけないじゃん。何しでかすかわからないし」
そっけない口調で答える。その目は、フロントガラス越しに見える前方の車道に当てられていた。両手は、ハンドルを握っている。
ふたりの乗る車は現在、山道をゆっくりと走っていた。目的地は、白土市のどこかだ。まだ日は出ているが、もうじき暗くなるだろう。今夜は、山道で野宿ということにになるかもしれない。
助手席に座っている譲治は、それきり口を閉じてしまった。こんなことは珍しい。彼は普段、放っておいてもベラベラ喋り続けている男だった。幼い頃からの付き合いである伽耶ですら、そのうるささに閉口することもあるくらいだ。そんな男が、今は押し黙って窓の外をじっと眺めている。いったい何を考えているのか、表情から推しはかることは難しかった。
これから会うかもしれない、ペドロなる男のことでも考えているのだろうか。
ペドロ・クドー。現在、世界規模で活動しているプロの犯罪者らしい。
はっきりとわかっているのは、メキシコ人の母と、日本人の武術家である父との間に生まれたハーフであるということだけだ。人間離れした野獣のごとき身体能力、いかなる状況においてもヘラヘラ笑っていられる図太い神経、何者にも屈しない反骨精神の持ち主らしい。
全ては噂話である。どこまでが本当かは不明だが……そんな超危険人物が今、白土市にいるらしいのだ。しかも、伽耶のスマホにメールを送ってきた。
(俺はペドロだ。何者であるかは、讓治くんに聞けばわかるだろう。君に頼みたいことがある。白土市まで来ていただけないだろうか。後のことは、追って連絡する)
たったこれだけの文面である。一般社会に生きる人間なら、いたずらと判断し無視するだろう。裏社会に生きる人間なら、情報の少なさゆえ警戒し、これまた無視するだろう。
それ以前の問題として、伽耶はペドロなる人物を全く知らないし、会ったこともない。一応は調べてみのだが、都市伝説の登場人物のような曖昧な情報しかない。連絡を取ろうとメールを送ってみれば、アドレスは既に変えられている。こんな人物からの依頼など、引き受ける気はなかった。
ところが、このメールを読んだ譲治は違う反応を見せた。
「俺さ、ひとっ走り白土市まで行ってくるのんな。伽耶ちゃんは、ここで待ってて」
こんなことを言い出したのだ。どうやら、彼はペドロなる人物と何やら因縁があるらしい。
さすがに放っておくわけにもいかなかった。譲治は車の運転ができない。それどころか、スマホの操作すら覚えられないのだ。そんな男をひとりで白土市に行かせたら、とんでもないことが起こるのは明白である。実際の話、以前に讓治をひとりで仕事に行かせたことがあるが、その時はとんでもないことになったのだ。
しかも、譲治は俄然やる気になっている。この男は普段、あまり仕事をしたがらない。また気まぐれであり、仕事の内容が気に食わないとプイと帰ってしまうこともある。にもかかわらず、今回は自ら行くと言い出した。
これは、明らかにおかしい。譲治とペドロ、このふたりの間に何があったのかも知りたい。
そのため、伽耶も一緒に来てしまったのだ。
そんなふたりの乗る車が、白土市の山道を走っていた時だった。突然、譲治が口を開く。
「ちょっち、車とめて」
その声は、いつもと違い真剣だった。伽耶は、すぐに車を停める。一応、アスファルトの道路が続いてはいるが、その周囲は木が生い茂っている状態だ。車道を少し離れれば、そこは森と言っていいような場所である。
こんなところで、何を見つけたのだろう……などと思う間もなく、譲治はドアを開け降りてしまった。すたすたと、木立の中に入っていく。足取りには、何の迷いもない。伽耶は、仕方なく車を降りて後を付いて行く。
ひょっとして、用足しだろうか。
「ちょっと、どうしたの? 腹でも痛いの?」
声をかけた時、譲治は立ち止まった。顔は伽耶の方を向けて、前方を指差す。
「ほら、かわいい犬さん」
とぼけた声だ。伽耶が目を凝らすと、確かに犬がいる。木立の隙間から、その体が見えていた。痩せているが、体は大ききめだ。あちこちに傷痕があり、面構えにも野生味がある。もともとの毛の色は白かったようだが、あちこち汚れているため灰色にも見える。首輪は付けていない。恐らく野犬であろう。
はっきり言って、お世辞にもかわいいとは言えないタイプの犬である。むしろ、歴戦の強者といった雰囲気を感じさせた。
ところが、譲治の印象は違うらしい。
「うほほおぉい、犬さんだにゃ。俺と遊ぶのんな」
ニコニコしながら、ずんずん近づいていく。伽耶は、仕方なく彼の後ろから付いていった。
犬の方は、逃げはしないが近寄りもしない。その場に留まったまま、じっとこちらを見ている。いや、睨んでいるのも知れない。
犬との距離が五メートルほどになった時点で、譲治は足を止めた。中腰の姿勢になり、そっと手を伸ばし、おいでおいでという仕種をする。
「犬さん、おいで」
声をかけたが、犬は近寄ろうとしない。それどころか、鼻に皺を寄せ牙を剥き出した。犬にあまり詳しくない伽耶でも、この表情がどんなものかは想像がつく。それ以上は近寄るな、という意思表示だろう。
ところが、譲治はお構いなしだ。中腰の姿勢のまま、不意に犬へ背中を向けた。
何をするかと思いきや、いきなり尻を突き出したのだ。そのまま、少しずつ近づいていく。
「ちょっと! 何やってんの!?」
慌てて声をかける伽耶だったが、譲治はすました顔で答える。
「伽耶ちゃん知らんのかい。犬さんと仲良くなるには、ケツの匂いを嗅ぎ合うといいのんな」
言った後、今度は犬の方を向く。
「ほーら犬さん、俺のケツ嗅いでごらん。香ばしい匂いがするかもしれないのん。怪しい者かもしんないけど、悪いことはしないのにゃ」
そんなことを言いながら、尻をくねらせ犬に近づいていく。
犬の方は、剥き出した牙を再び隠した。さすがの強者野犬も、こんな人間に遭ったのは初めてなのだろう。興味はあるが、さりとて警戒心も捨てきれないらしい。尻を向け近づいて来る譲治を、困惑したような様子で見ている。
だが、不意に犬の耳がピンと立った。直後、ぱっと横を見る。
次の瞬間、茂みの中に入っていった──
「ううう、犬さん……遊びたかったのんな。いずこに行ってしまわれたの」
残念そうに呟く譲治の腕を、伽耶はおもむろに掴んだ。
「ほら、気は済んだでしょ。行くよ」
言いながら、腕を引いていく。
「とぼしい話なのん」
ブツブツ言いながらも、譲治は車に乗り込んだ。
・・・
その頃、別の場所で恐ろしいことが起きようとしていた──
白土市の山道で、車を走らせていた男たちがいた。
彼らは、地元の若者である。夏休みも終わってしまい、季節は秋へと移っていく。しかし、今年の夏は何もいいことがなかった。そのため、青年たちは若干イラついていた。
彼らは、決して品行方正なタイプではない。どちらかと言うと、町の治安を乱すのに一役買うようなタイプである。
そんな青年たちは、信じられないものを発見した。
夜の山道を、全裸で歩く少女がいたのだ──
多少なりとはいえ常識のある人間なら、何か事件に遭ったものと判断し、まずは優しい声をかけるだろう。次に、着る物を渡すなどの配慮をしていたはずだ。
しかし、その青年たちは違っていた。
「ねえ、何してんの?」
車を停めると、すぐに外へ出ていった。ひとりが、下卑た笑みを浮かべ馴れ馴れしく話しかける。さらに、別のひとりがスマホのライトで照らした。
近くで見れば、このあたりではまず見ることのない美しい娘である。黒い髪は艶があり、目鼻立ちは人形のように綺麗に整っていた。肌は雪のように白く、スタイルもいい。太りすぎず痩せすぎず、出るところは出ている。彼らから見れば、理想的な体つきだ。
なぜ山の中を全裸で歩いていたのかは不明だが、そんなことは青年たちには無関係だ。何せ目の前の少女を、己の性欲の捌け口としてしか見ていないのだから。全裸であることは、彼らにとってむしろ好都合である。
だが、少女は歩き続けていた。青年たちのことは、完全に無視して茂みの中に入っていく。皆、思わず顔を見合わせた。
「ちょっと待ちなって! なあ、聞いてんのかよ!」
強い口調で言いながら、ひとりの青年が少女の腕を掴む。そのまま力任せに引っ張った。
すると、少女は振り返る。
その瞳は、不思議な色であった。右が赤く、左が緑である。
次の瞬間、美しい顔に不気味な笑みが浮かんだ。