九月十三日 伽耶と譲治、店で戯れる
「ごちそうさまです」
そう言うと、伽耶は立ち上がった。空になった皿をキッチンに運ぼうとしたが、マスターらしき男は首を横に振る。余計なことはするな、という意思表示だろうか。おそらく、見られてはマズいものがあるのだろう。
伽耶は頷くと、皿をカウンターに置き座り直す。もうじき、ペドロから連絡が来るはずだ。
ふたりは昨日から、喫茶店『怪奇屋』の二階にて寝泊まりしている。先ほど起床し。一階で遅い朝食を食べたところだ。
それにしても、喫茶店に怪奇屋と名付けるセンスはどうなのだろうか……とは思うが、かつて超売れっ子のプロデューサーがオープンさせ潰した『うんこや』なる名前の飲食店に比べれば、遥かにマシなネーミングだろう。
伽耶はそんなことを考えながら、窓から外の景色を眺めていた。隣には譲治がいるが、つまらなさそうな顔で抜き取った楊枝をいじっている。
と、不意に譲治が口を開いた。
「おじさんおじさんおじさん、ここに野球盤はあるのかにゃ?」
言うまでもなく、マスターに向けられたものである。伽耶は思わず顔をしかめた。が、相手は機嫌を損ねた様子はない。
「ないよ」
低い声が返ってきた。その口調からは、感情を窺えない。譲治は首を傾げ、さらに尋ねる。
「じゃあさ、おにぎり脱出ゲームはあるのん?」
その奇怪なゲームは何なんだ? と伽耶が聞く前に、マスターは答える。
「ないよ」
一切、感情のこもっていない声だ。表情も、全く変わっていなかった。譲治のおかしな問いにも、ペースを乱される様子がない。
と、譲治は伽耶の方を向いた。
「つまんないにゃ。伽耶ちゃん、一緒にラジオ体操でもやらないのん?」
「やんないよ。だいたいさ、なんでラジオ体操なの?」
聞き返す伽耶に向かい、譲治は偉そうにふんぞり返った姿勢で答える。
「なんだ、伽耶ちゃん知らんのかい。ラジオ体操はにゃ、ちゃんとやると人間の一日に必要な運動量くらいあるって言ってたのんな」
「誰が言ったの?」
「あれ、誰だっけにゃ? たぶん賢くて偉い人なのん」
「とにかくさ、そんなもんしなくていい。今も仕事中みたいなものなんだよ」
「だからこそ、楽しく運動せにゃならんのん。でないと、体がなまっちまうにゃ」
言ったかと思うと、譲治は再びマスターの方を向く。
「おじさんおじさんおじさん、この店はラジオ体操五倍速で流せるかにゃ?」
途端に、伽耶が動いた。譲治の頭をペチンと叩く。
「いい加減にしなさい。だいたい、その五倍速って何?」
「いや、なんか五倍速でやれば速く終わるし、効果も五倍になるのんな。おじさん、五倍速のラジオ体操かけてにゃ」
「ないよ」
マスターは、そっけなく答える。譲治の意味不明なリクエストにも、表情ひとつ変えず対応している。さすがはペドロの部下である。
「あんたさあ、いい加減おとなしくしてなよ。でないと怒られるよ」
伽耶が言った時だった。扉が開き、何者かが店に入ってきた。
来訪者ほ、不思議な男だった。年齢は二十代から三十代前半だろうか。肌の色は浅黒く、よく日焼けしている。顔は野性味を感じさせ、造りからして純粋な日本人とは思えなかった。中肉中背で髪は短め、安物のスーツ姿だ。一見すると、中小企業の若手社員といった雰囲気である。
もっとも、体から発している匂いはまるで違うものだ。鍛えられた体なのは、スーツ越しにも伝わってくる。歩き方といい目配りといい、一般企業の若手社員のそれではない。すたすた歩いたかと思うと、伽耶たちの横のテーブル席に座り込む。
さほど広くない店内の空気は、一瞬で変わっていた。伽耶の表情も険しくなる。この男、おそらくは自分たちと同じ稼業だ。それも、ただのチンピラではない。かなりの大物だろう。マスターも同じことを感じたらしい。目つきが、微妙に変化した。
そんな時にもかかわらず、譲治は意に介していないらしい。伽耶に向かい喋り続ける。
「あのにゃ、運動をナメちゃいけないのんな。運動すると、脳からアロンアルファだかエンドロールだかがドバっと出て、幸せな気分になれるらしいにゃ。ヤマナミさんが、テレビで言ってたのん」
「何わけわかんないこと言ってんの。だいたい、ヤマナミさんて誰よ。聞いたことないから」
恐ろしく間違っている知識を得意気に披露する譲治に言い返したが、彼女の目は来訪者に向けられていた。この男、何をするつもりだろう。
と、その来訪者が座ったまま口を開いた。
「すみませんが、ペドロさんはどちらに?」
一応は敬語を使ってはいるが、マスターに向けられた目線には有無を言わさぬものがあった。さっさと呼んでこい、とでも言わんばかりの表情を浮かべている。
しかし、マスターも負けていない。
「いないよ」
表情ひとつ変えず、そっけない口調で答える。どうなるかと思いきや、男は頷いた。
「わかりました。では、また来ます。伊達恭介が、よろしく言っていたとお伝えください」
言ったかと思うと、男はすっと立ち上がる。伽耶と譲治に会釈をした後、店を出ていった。
ほぼ同時に、譲治が不満そうな表情を浮かべた。
「あいつ、なんーにも注文しないで帰っていったのんな。おじさん、伯方の塩を撒いとこうにゃ」
ふざけた言葉に、伽耶はじろりと睨みつける。だが、そこでようやく異変に気づいた。
譲治の表情が、僅かながら変化している。その手は、椅子の背もたれに置かれていた。いざとなったら、すぐに動ける体勢である。彼もまた、来訪者を警戒していたのだ。
「ないよ」
マスターはというと、何の感情も交えず答える。
「そうかにゃ。じゃあ、退屈だから上でテレビ観てくるのんな」
そう言うと、譲治は立ち上がった。伽耶は、慌てて腕を掴み止める。
「ちょっと! 連絡があるまで、ここでおとなしく待機してなきゃならないんだから!」
言った時だった。マスターが横から口を挟む。
「いいよ」
その言葉に、譲治はガッツポーズしたかと思うと、そのまま上の階に上がっていく。伽耶は、仕方なく後を追った。ひょっとしたら、今日はずっと待機していなければならないのかもしれない。
ならば、おとなしくテレビでも観てくれていた方がマシだろう。