九月十三日 徳郁、迷う
目の前に、百万円の札束がある。テーブルの上に、無造作に置かれていた。
これを、どうすればいいのだろうか。吉良徳郁は札束を睨みながら、じっと考えていた。
昨日、友人の藤村正人がこの家を訪れた。なかなか目を覚まさないサンに、不安を覚えた徳郁が呼び出したのである。
正人はサンを一目見るなり、とんでもないことを言いだした──
「ノリちゃん……この娘は今、白土市の裏社会の人間が血眼になって捜してるんだよ。この女は、聞いた話じゃ十人近く殺してるって話だよ。それも素手でな」
徳郁は、思わず顔を歪める。
もっとも、予想はしていたのだ。出会った時には全裸で血まみれであったし、何かの事件に巻き込まれていることは容易に想像がつく。
しかし、まさか十人近く殺しているとは──
絶句している徳郁に向かい、正人は話し続ける。
「言っとくけどね、あんた相当ヤバい状況だよ。白土市で商売してるヤクザやチンピラや悪徳警官といった社会のクズ共が、血眼になってこの娘を捜してるんだ。いずれは、ここも見つかる。時間の問題だよ。医者に連れて行くなんて、呑気なことを言ってる状況じゃないぜ」
冷静な口調で言いながら、正人は分厚い財布を取り出す。
そこから、札束を抜き出しテーブルの上に置く。
「百万ある。少なくて申し訳ないが、退職金の代わりだ。これからどうするかは、自分で選べ」
「どういうことだ?」
「俺は明後日、とある人間に連絡を入れる。この娘を捜している連中のひとりだよ」
「何だと……」
徳郁は低い声で唸り、正人を睨み付ける。
だが、正人には怯む気配がない。平然とした表情で、徳郁の視線を受け止めた。
「ここで俺をブン殴っても、問題の解決にはならないぞ。ちょっと黙って話を聞いてくれ。俺は情報屋だ。情報を売って金を貰ってる。それが仕事なんだよ。万一、この娘がいる場所を知っていながら口をつぐんでいた……そんなことが他の連中に知られたら、俺は業界で生きていけねえんだ」
言いながら、徳郁の目を真っ直ぐ見つめる。徳郁は唇を噛みしめ、下を向いた。
「言っておくが、奴らは必ずここを見つける。俺が売らなくても、だ。裏の連中の情報網を甘く見るな。あんたに出来ることは、今のうちに娘を連れて逃げるか……あるいは奴らに娘を渡すか、のどちらかだ」
なおも徳郁の目をしっかりと見つめ、冷静な口調で語る。
徳郁は顔をしかめた。正人には世話になっている。この世界で、たったひとりの友人だ。
その友人に、迷惑をかける訳にはいかない。
「もう一度言うぞ。この娘はな、あちこちの組織の連中が追っているんだ。遅かれ早かれ、奴らはここを見つける。それにな、俺も見てしまった以上は言わない訳にはいかないんだ。この百万を持って娘と逃げるか、あるいは娘を奴らに引き渡すか。決めるのはあんただ」
昨日の正人との会話を思い出し、溜息をついた。
正人は明後日、と言っていた。つまり明日になったら、この家に追っ手が来るかもしれないのだ。正人は、必ずやるだろう。
もっとも、その行動を責めることは出来ない。彼にも彼なりの事情がある。むしろ一日待ってくれた上、逃げるための金まで渡してくれたのは、精一杯の譲歩なのだ。世間知らずの徳郁にも、それは理解できる。
かといって、サンをヤクザのような連中に渡す訳にはいかなかった。
サンを、誰にも渡したくない──
「キラ、おはよう」
ふと聞こえてきた声に、徳郁はハッとなり顔を上げる。すると、目の前にサンが立っていた。青白い死人のような顔色だが、ひとまず起きてはいる。
「お前、大丈夫なのか?」
徳郁は驚愕の表情を浮かべ、サンに尋ねた。
「うん、大丈夫。心配はいらないよ。もう終わるから」
そう言って、サンは微笑んだ。不思議なことに、彼女の言葉は今までより滑らかだ。発音もずっと良くなっている。
だが徳郁にとって、そんなことはどうでも良かった。
「そうか。良かった……本当に良かった」
言いながら、徳郁は立ち上がった。感情のままに、サンを抱きしめる。
「キラ、ありがとう。本当にありがとう。あなたのおかげで……」
言いながら、サンは徳郁を見上げた。だが次の瞬間、その腕からパッと逃れる。
徳郁は、思わず赤面した。誤解させてしまったらしい。
「あっ、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
だが、サンは首を振った。
「違うの。キラ、愛してるから……ずっと、愛してるから。でも、ごめんね」
そう言ったかと思うと、サンはふらふらと玄関に行きドアを開ける。ジャージ姿のままで、外に出て行ってしまった。
その行動を見て、徳郁は呆気に取られていた。しかし気を取り直し、すぐにサンの後を追う。
「おい、ちょっと待てよ! 一体どこに行くんだ! ご飯食べないのかよ!」
言いながら、徳郁はサンに追いすがった。すると、彼女は立ち止まる。
悲しげな表情で、振り絞るような声を発した。
「キラは、来ちゃ駄目だよ。お願いだから、来ないで」
徳郁を見つめるサンの目は、虚ろなものであった。徳郁は顔を歪める。
「何でだよ! 何で俺が来ちゃいけないんだ! 理由を言えよ!」
思わず怒鳴り付ける。その時、わう、とか細く鳴く声がした。シロスケだ。いつの間に付いて来ていたのか、クロベエとシロスケが背後に控えている。二匹とも不安そうな様子だ。
その声が、徳郁を苛立たせた。
「うるせえ! お前は引っ込んでろ!」
表情を歪めながら、シロスケを怒鳴りつける。すると、サンが彼の腕を掴んだ。
「駄目。シロスケを怒っちゃ駄目。みんなと仲良くして……お願いだから」
そう言って、微笑む。だが、その表情には力がない。いつもの朗らかな表情とは明らかに違うのだ。
「分かったよ。俺、みんなと仲良くするから……だから、家に帰ろう」
今にも泣き出しそうな顔で、シロスケを撫でて見せた。一方のシロスケも、鼻を鳴らしながら徳郁の手を舐める。まるで、サンを心配させまいとしているかのようだ。
「そうだよ。みんなで、仲良くしなきゃ駄目だからね。お願いだよ。これからも、みんな仲良く、ね……」
そう言った次の瞬間、サンはうつ伏せに倒れた。
顔を上げ、獣のごとき凄まじい吠え声を上げる──
「おいサン! どうしたんだよ! しっかりしろ!」
慌てて抱き起こそうとする。だが、サンは彼を突き飛ばした。人間離れした腕力だ。八十キロはあるはずの徳郁が軽々と吹っ飛ばされ、地面に倒れる。
そして、サンは──




