九月十一日 伽耶と譲治、引っ越しを提案される
店の目の前を、ひとりの若者が通り過ぎて行った。耳にはイヤホン、手にはスマホ。その目線は、スマホの画面に釘付けだ。
ガラス越しにではあるが、若者がスマホを操作しながら歩いているのが見える。時おり、道行く人にぶつかりそうにはなるものの、どうにか避けて歩いていた。
「伽耶さん、スマホとはそんなに楽しいものなのかい」
向かいの席に座っているペドロから、不意に言葉が投げかけられた。伽耶は、曖昧な表情で首を捻る。
「まあ、楽しいと言えば楽しいよ。少なくとも、暇潰しにはもってこいだろうね。ただ、あたしは歩きながらいじる気にはなれないけど」
「なるほど。しかし、外を歩く彼はそんなに暇なのかい? むしろ、貴重な時間をスマホによって空費させられているようにも見える」
ペドロの口調は落ち着いている。その落ち着きぶりが、譲治の勘に障ったらしい。いきなり口を挟んできた。
「知るかってーのん。だいたい、あんた何が言いたいん? スマホのような機械に踊らされて、日本の若者は嘆かわしいとでも言いたいんか? 日本の若者も、あんたみたいな魔改造オヤジに言われたくないのんな」
その魔改造オヤジとは何者だ? と、横にいる伽耶は頭を抱えつつ心の中で呟く。
ペドロも、その部分は引っかかったらしい。
「その魔改造オヤジなる怪人が何者であるのかは置くとして、俺は若者を嘆かわしいなどとは思っていない。むしろ、羨ましいよ。スマホを操作しながら外を歩ける、これは平和である証拠さ。平和な国に生まれて成長できる……それだけで、実に幸福なことなんだよ」
「けっ、スカしやがってるのんな。だいたいな、俺はあんたの上から目線が気に入らないにゃ。あんたの話を聞いてると、頭ん中でエンジェル譲治とデビル譲治がチークダンスを踊り出すのんな」
「おやおや、今日はいつもより当たりが強い気がするな。ご機嫌斜めのようだね」
そう言うと、ペドロは笑みを浮かべる。本当のところ、譲治の機嫌など知ったことではないのだろう。
「当たり前だにゃ。今日は伽耶ちゃんに、譲治盛りを御馳走するつもりだったのんな。なのに呼び出しやがって、せっかくの甘い時間が台無しだにゃ」
わけのわからないことを言っている譲治を無視し、伽耶は辺りを見回した。目に入るのは、ワイシャツに蝶ネクタイ姿のマスターだ。店の奥に立ち、虚ろな目で前方をじっと見つめているだけだった。
三人は今、白土駅の近くにある小さな喫茶店にいる。
そこは奇妙な場所だった。中は薄暗く殺風景で、壁には得体の知れない染みが付着していた。
しかも、店のマスターは不気味な男である。青白い顔で、気をつけの姿勢のまま立っている。瞬きもせずに、じっと前を見つめているのだ。頬の肉は削げ落ち、体にも余分な脂肪は一切ついていないように見える。かといって、ひ弱そうな雰囲気ではない。どちらかと言うと、軽量級ボクサーのような雰囲気を漂わせている。
なんとも奇妙な男だ。ホラー映画にて、サイコキラーとして登場しそうな外見である。もっとも、ペドロに比べれば格はだいぶ落ちる。魔王に使える手下といったところか。
そんな店内には、三人の他に客はいない。もっとも、こんな奇怪な雰囲気の店に出入りしたがる者など、そうは居ないであろう。いるとしたら、よほどの物好きか変人だ。
「そのジョージモリとはなんだい? 後学のためにも教えてくれないかな」
ペドロが尋ねると、譲治は途端に偉そうな表情になった。ふんぞり返って語り出す。
「んーなことも知らんのかにゃ。譲治盛りっていうのは、まず俺がテーブルの上に裸で寝るのんな。で、俺の体の上に世界各地の料理を乗せるんよ。そしたら伽耶ちゃんが、フォークでつついたり箸でつまんだりして──」
そこで、伽耶が譲治の耳をつまみ引っ張った。途端に、譲治は口を閉じる。
「あたしは、そんなの食べたくないから。変態バカップルと思われんでしょうが。ちょっと黙ってなさい」
言った後、ペドロの方に向き直る。
「それよりさ、あたしたちをここに呼び出した理由は何なの?」
「まあ、落ち着きたまえ。この店はいいよ。何せ、他に客がいないからね。あの男も、客の会話に興味を持ったりはしない」
言いながら、ペドロはタバコの箱を取り出した。一本抜き取り、火をつける。
煙を吐き出し、ふたたび外を見つめた。
「しかし、平和なのは本当に素晴らしいことだよ。下らん国境を取り払い、世界をひとつに結び、全ての人間が安心して暮らせるようにする。これは、人類がいずれ達成しなくてはならない命題だよ。そうは思わないかい?」
「んなこと知らないよ。そもそも、あんたの存在自体が平和を乱しているんでしょうが。あんた以上に危険な人間、あたしは見たことがないから」
伽耶の言葉に、ペドロは首を振った。
「うーん、その意見には承服しかねるな。俺の存在が世の中に与える影響など、ほんの微々たるものだよ。俺など、これまでの人生において……せいぜい、千人ほどしか殺していないだろう。しかし大国の指導者あるいは有力な宗教家といった人種は、言葉ひとつで数万人を殺せる。いとも容易く、自身の手を汚すこともせずにね」
そう言うと、ペドロは再びタバコをくわえる。
「この国もそうさ。一見すると、実に平和に見える。事実、平和なのさ。この日本より平和な国を探すのは、非常に難しい」
言いながら、ペドロは煙を吐き出した。伽耶は露骨に嫌な表情をするが、お構い無しに言葉を続ける。
「ところが、だ。そんな平和な日本でも、裏では大国の密命を帯びた人間たちが動いている。何とも恐ろしい話だよ」
「大国の陰謀なんか、あたしには関係ないよ。それよりも、これからどうするんの?」
苛立ったような表情で尋ねると、ペドロは笑みを浮かべた。
「まあ、そう急ぐことはない。俺の読みに間違いが無ければ、もうじき彼女は成虫へと変わるはずだ。その時に備えて、下準備をしておかなくてはならないんだよ」
「下準備? 何それ?」
伽耶の問いに対し、ペドロは深く頷いて見せる。
「そうさ。前にも言った通り、利害の対立している連中がいるんだよ。そこでだ、俺は妨害工作をする必要がある。少々、手荒い手段を用いることになるよ」
淡々とした口調で語っているペドロとは対照的に、伽耶は内心で頭を抱えていた。自分は一体、ここで何をやっているのだろうか? 気がつくと、全く理解の出来ない事件に巻き込まれてしまっている。おとぎ話の主人公のごとく、知らない間に、違う世界に迷いこんでしまったかのようだ。
だが、伽耶には逆らう事が出来なかった。ペドロという怪物に嫌悪感を抱きながらも……気がつくと、惹き付けられている自分に気づいている。ペドロに逆らうことなど、出来はしないのだ。
このまま、彼とともに事態の収束を見守るしかないのだろう。
そんな伽耶の思いをよそに、ペドロは言葉を続ける。
「そこでだ、今日から君らには……この店の二階に越して来てもらいたいんだ」
「えっ? ここに?」
思わず聞き返す。譲治も、眉をひそめてペドロを睨んでいた。
だが、ペドロは彼女の反応などお構い無しだ。平然とした様子で話を続ける。
「ああ。あそこにいるマスターは、俺の知り合いでね。彼は変わり者ではあるが、仕事はきっちりこなす男だよ。それに、君の今いる汚い民宿よりは、居心地はいいのではないかと思う。食事も美味いし、サービスも行き届いているはずだがね」
「余計なお世話だよ」
そう言った後、伽耶はちらりとマスターの方を見る。しかしマスターは表情ひとつ変えず、じっと同じ姿勢を保っている。その姿に、思わず笑ってしまった。この白土市に来て以来、まともな人間を見ていない気がする。
「わかったよ。今のところ、あんたの指示に従う以外の選択肢は無さそうだからね」
伽耶は、軽い気持ちで言ったつもりだった。しかし、その言葉を聞いたペドロは満足げな笑みを浮かべる。
「確かに、その通りだ。君は現状の認識に優れているね。日本に置いておくのはもったいないな。この件が終わった後……その気になったら、いつでも連絡したまえ」
「それは無理。さすがに、これ以上あんたには付いていけないし」
言いながら、伽耶は首を振る。だが、それは本音ではなかった。そもそも、自身の本音が何なのか、だんだんわからなくなっている。
「そうか、実に残念だな。君らは、日本という国に置いておくにはもったいない人間だよ。まあ、気が変わったら連絡したまえ」




