九月九日 伽耶と讓治、ペドロの行動に驚愕する
「ところで、君らはどこで出会ったんだい? よければ、馴れ初めを聞かせてくれないかな」
不意に、ペドロが軽い口調で尋ねてきた。
「んなもん、あんたにゃ関係ないでしょうが。どうしても知りたきゃ、俺を倒してみんしゃい。ほうしたら教えてやるのんな」
助手席の讓治が答える。
三人は今、車の中にいた。ペドロの指示に従い、伽耶の運転する車で山道を走っているのだ。とはいえ、今のところは白土市を車でうろうろしているだけ……としか思えない。このドライブの目的は不明であるが、伽耶にはペドロの指示に従う以外の選択肢がなかった。もっとも、讓治はそれが不満らしい。ことあるごとに突っかかっていき、伽耶が仲裁に入っているという状態だ。
昨日の話を聞いた限りでは、ペドロの目的は旧三日月村の跡地から逃げ出した被験体なる者を捕らえようとしているらしい。だが、それ以上のことは何もわからないのだ。
しかも、上からの指示でしばらく様子見だ……とも言っていた。様子見の間に、被験体が消えてしまったとしたらどうするのだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
「伽耶さん、すまないが停めてくれ」
不意に、ペドロが鋭い声で叫んだ。伽耶は突然の変わりように首を捻りながらも、指示通りに車を停める。
直後、彼は車を降りた。ゆったりとした足取りで、反対車線の方に歩いていく。
そこにも、一台の車が停まっていた。運転席には、短髪で小太りの男が乗っている。ガラス越しで表情までは見えないが、近づいて来るペドロを、じっと見つめているのはわかる。
伽耶は思わず顔をしかめた。停まっているのは、黒塗りのベンツなのだ。かつては、ヤクザ愛用車として一世を風靡した高級車である。
もっとも近頃では、裏社会の住人たちの間でも高級車離れが進んでいる。事実、半グレの中には安い中古車に乗っている者もいた。しかし、目の前に停まっている車は違う。中に乗っている者を見る限り、ヤクザの中にも未だにベンツの愛用者はいるのだ。
運転席にて、鋭い表情でペドロを見ている者は、ほぼ間違いなくヤクザだろう。そんな輩に、いったい何の用があるのだろうか?
その時、讓治が声を発した。
「あのバカ、何かやらかす気なのんな」
言うが早いか、讓治は車を出た。伽耶も、彼の後に続く。だが次の瞬間、彼女は全身の毛が逆立っていた──
ペドロは平然とした様子で、ベンツに向かい歩いている。その足取りは軽く、まるで友人の車に挨拶しに行くかのごとき気楽さである。サイドウィンドウの前に来ると、ピタッと立ち止まった。
直後、ペドロが何をしたのか……伽耶には、はっきりとほ見えなかった。ただひとつわかったのは、彼の腕が動いた瞬間に窓ガラスが叩き割られたことだ。
唖然となる伽耶の前で、ペドロはさらに動き続ける。中にいる運転手らしき男の首根っこを掴み、片手で強引に引きずり出したのだ。男は何やら喚きながら、必死で抵抗している。しかし、ペドロの人間離れした腕力にかなうはずがなかった。呆気なく車の外に引きずり出される。
さらにペドロは、男の体を地面に叩きつけ、相手の顔に手を伸ばす。
直後、首が一回転した──
まるで人形を破壊するように、無造作に首をへし折ってしまったのだ。男の顔は、綺麗に反対側を向いている。ギャグ漫画の登場人物か、出来の悪いホラー映画のようだ。
ここまで、僅か数秒の間の出来事である。常人なら、何が起きたのかすら把握できなかっただろう。事実、伽耶ですら何が起きているのかわからなかった。
しかし、讓治は別だった。瞬時に間合いを詰め、ペドロに襲いかかる──
「てめえ! 何してんだ!」
喚いた直後、その体は宙を飛ぶ。ペドロめがけ飛び蹴りを放ったのだ。
ペドロは平静な態度で、すっと躱す。と同時に、彼の手は讓治の足首を掴んだ。そのまま、無造作に振り回す──
小柄とはいえ、讓治の体は五十キロ以上はある。その体を片手で軽々と振り回したのだ。地面に叩きつけられていたら、確実に致命傷を負っていただろう。
しかし、讓治の方も負けず劣らずの怪物っぷりを見せる。振り上げられた瞬間、咄嗟にペドロの顔面へ空いた足で蹴りを叩き込む。さすがのペドロも、これにはたまらなかった。顔をしかめ、足を掴んでいた手が緩む。
その零コンマ何秒かの隙を突いて、讓治はさらに蹴りを入れ手から逃れる。直後に地面に落ちたものの、すぐに後転し間合いを離して立ち上がる。
睨み合う両者。と、ようやく伽耶も動いた。拳銃を抜き、ペドロに向ける。
「そこまで! 動かないで!」
鋭い声を発した伽耶に向かい、ペドロは無言のまま右手を上げた。目線は讓治に当てつつ、手のひらを伽耶に向けている。待て、ということだろうか。
だが次の瞬間、ペドロは音もなく林の中に入る。一瞬にして、ふたりの目の前から消えてしまった。
途端に、讓治が彼女の元に駆け寄る。
「伽耶ちゃん大丈夫!?」
「えっ?」
何を言っているのだろう? 伽耶は聞き返そうとした。だが、次の瞬間に足の力が抜ける。そのまま、崩れ落ちそうになった──
「ちょいちょいちょい!」
慌てて受け止める讓治。伽耶はその時になって、自分がどれだけ神経を張り詰めさせていたかわかった。車内で、ペドロが放っていた異様な空気。さらに今の行動……何もかもが想定外であり、桁外れだ。
その時、讓治がポツリと呟く。
「降りるなら、今のうちなのんな。あいつは、本物のバケモンだにゃ。今ので、よくわかったでしょうが」
確かに、その通りだった。讓治の言葉が、身に染みて理解できる。だが、今さら降りられない。
「大丈夫だよ」
どうにか答えると、死体に視線を移す。短髪で色白、太った体をブランド物のスーツで覆っている。典型的ヤクザスタイルだ。未だに、この手のタイプは存在するらしい。もっとも、ヤクザは見栄を売る商売でもあるため、仕方ないのかもしれない。
そんなことを考えていた時、林の中からペドロが戻って来た。ご丁寧にも、もうひとり男の体を背負っている。そちらも死んでいるらしい。
伽耶は表情を歪めていた。この怪物は、五分にも満たない僅かな時間で、立て続けにふたりの人間を殺したのだ。だが、何のために?
その時、讓治が口を開く。
「お前さあ、何を考えてるのん? ついにおかしくなったんかい?」
「まあ待ちたまえ。怒る気持ちもわからなくもない。だがね、これは必要なことなんだ。彼は森の中で排便中だったので、こんな格好で申し訳ない」
言いながら、ペドロは背負っていた男の体を地面に横たえる。あちこちの骨をへし折られているらしく、腕や足が不自然な方向に曲がっていた。長い髪を後ろで束ね、髭を蓄えている。身に付けているものも、高級ブランド品ばかりである。ただし、ズボンは膝までずり落ちた状態だ。死んでさえいなければ、滑稽な姿を笑うことも出来た。だが、今は笑えない。
唖然となっている伽耶と讓治に、ペドロは冷静に語り出した。
「伽耶さん、そっちの太った男は拳銃を懐に入れている。デザートイーグルだ。この先、必要になってくる。君が使いたまえ」
そう言いながら、長髪の男の所持品を調べている。
一方、伽耶は眉をひそめていた。デザートイーグル……大型の拳銃だ。一発の威力はあるが、その分こちらへの反動も大きく使いづらい。
「デザートイーグル? そんなもん要らないよ」
「いや、今後は必要になるんだよ。このふたりのようなタイプは、得てして必要もない物を持ちたがる。デザートイーグルのような拳銃は、日本のヤクザにとって必要のない物だ。威力はあるが弾数が少ないし、何よりかさばる。君の持っているグロックの方が、日本で扱う分にはよほど実戦的だよ。軽くて、弾数も多いしね。だがね、我々が探している者には、グロックだけでは心許ないんだ。君には、デザートイーグルを持っていて欲しい。我々なら、このふたりよりは有効に使えるしね」
淀みなく答えている。伽耶は、さらに聞いた。
「じゃあ、拳銃を手に入れるためにふたりを殺したの?」
「いいや。捜索を混乱させる、という理由もある。このふたりを始末したやり方は、我々が探している者の殺し方と同じなのさ。他の連中はきっと、あれの仕業だと思うだろうね。結果として、他の連中を出し抜ける可能性が高くなるわけさ」
そう言うと、ペドロは笑い出した。クックック……という不気味な声が、その場に響き渡る。
伽耶は、ただただ唖然となっていた。が、そこで思い出す。今、目の前にある死体は……あの時に見たものと同じ状態だ。
三人の若者が、森の中でむごたらしい死に様を晒していた。あの時と同じだ──
「そんなことより、そろそろここを離れようじゃないか。続きは車の中で、ゆっくり語り合うとしよう」
そう言うと、ペドロはのんびりした動きで車に乗り込む。伽耶は、彼の指示に従う以外の行動を思い付かなかった。
「さっきの話だけどさ、もう少し詳しく教えてくれない?」
車を運転しながら、伽耶は静かな口調で切り出す。
「詳しく、か。どうしても知りたいなら教えるがね、知ってしまったら降りられないよ。いいのかな?」
ペドロのからかうような口調に、伽耶は軽い苛立ちを感じた。その苛立ちを、言葉にしたのは讓治だった。
「ふざけたこと言ってると、あんたの指全部にハンダゴテでネイルアートしてやんぞ。さっさと話さんかい。はっきり言って、俺はあんたを山に埋めてさっさと帰りたいんだけどにゃ」
「まあまあ、そう急かさないでくれ。俺が、旧三日月村の跡地から被験体を逃がしたのは教えたね。その被験体は今、白土市のどこかに潜伏している。どこにいるか、だいたいの予想がついているがね。彼女は、今はまだ幼虫の段階だ。もっとも、幼虫といえども素手で成人男性の首をへし折るくらいの殺傷能力はある。さっき俺がやったように、だ」
ペドロは笑みを浮かべながら、静かな口調で語る。
伽耶は、思わず車を停めていた。振り返り、じっと彼の顔を見つめる。嘘をついているようには見えないが、理解不能な話ではある。今度は幼虫なる単語が出てきた。幼虫というからには、いずれは成虫になる、とでもいうのだろうか?
「じゃあさ、その幼虫ってのは……放っておいたら、どうなるの? 蝶になって飛んでいくの?」
伽耶の問いに、ペドロは首を振った。
「わからない」
「わからない? どういうこと?」
「俺も、今まで見たことがないんでね。ただ、極めて奇怪な形状へと変化するらしい。怪物、とでも呼ぶべき存在にね。実に興味深い話だよ。俺も一度は見てみたいものだ」
ペドロの表情が、微かに変化した。感情らしきものが、その顔に見え隠れしている。伽耶と讓治は黙ったまま、彼の話を聞いていた。
「はっきり言ってしまうと、俺を雇った人間は彼女が成虫になった状態のものを見たいらしいんだ。死体となっていても構わない、とにかく成虫の状態を……という要望でね」
「なるほどね」
「しかし、彼女を元の場所に連れ戻したいと思う者たちもいるんだよ。彼女が成虫に変わる前に連れ戻す、それが彼らの目的さ。彼らと俺とでは、完全に利害が対立している訳だよ。だから、彼らの捜索を撹乱させなくてはならないんだ」
「だから、あのヤクザふたりの首をへし折ったの?」
伽耶の言葉に、ペドロは満足気な笑みを浮かべて頷いた。
「その通り。俺は、彼女が成虫になるまで待たなくてはならない。しかし、この白土市を支配する者は、彼女をさっさと連れ戻したいわけだ。我々は今、非常に厄介な立場にいるんだよ。君らが協力してくれて、本当に助かった。首尾よく成虫になった彼女を引き渡せば、君らにもそれなりの報酬を支払えるはずだ」
「成虫……とんでもない話だね」
思わず苦笑していた。もはや、伽耶の理解を完全に超えている。ペドロの存在自体が、ホラー映画に登場する超人的な殺人鬼そのものなのだ。
なのに、その口から成虫ときた。さらには、白土市を陰から支配している連中までもが絡んでくるとは……。
「という訳でだ、俺たちはしばらくの間、奴らの妨害をする。そして、彼女が幼虫から成虫へと成長するのを待つんだ。いいね」
ペドロの言葉に対し、伽耶は頷くことしか出来なかった。今まで様々なものを見てきたが、今回の件は自分の理解の遥か上を行っている。
「わかったよ。その成虫とやらを引き渡せば、あんたは報酬を払ってくれるんだよね。それなら手伝うよ」
そこまで言った時、伽耶はある事実に気づいた。
「ねえ、その成虫とやらは……この拳銃で倒せるの?」
「どうだろうね。参考までに言っておくと、三日月村の住人たちを全滅させた真犯人は、その成虫らしいんだよ」
「おいおい……そんな化け物を、俺らとあんただけで仕留めろちゅうんかい? アジャパーって感じだね」
今度は、讓治が横から口を挟んできた。ペドロは、微笑みながら答える。
「そういうことさ。まあ、やれるだけやってみようじゃないか」