九月七日 伽耶と讓治、ペドロと会話する
白土駅のすぐ横には、一軒のファミリーレストランがある。広い店内には数人の客が入っており、話し声があちこちから聞こえていた。
伽耶と讓治は、その店の奥の席にいる。伽耶は、緊張した面持ちで椅子に座っていた。讓治はというと、よそ者を発見した野良猫のような空気を漂わせている。一応おとなしく座っているが、何かあったらすぐに飛び上がりそうな雰囲気だ。
ふたりの目の前には、ひとりの中年男が座っていた。地味なグレーのスーツに身を包み、落ち着いた態度でふたりを見据えている。一見すると、知人同士の邂逅にしか見えないだろう。
ただし、ふたりの前にいる男はペドロなのだ。アメリカの重警備刑務所を脱獄し、日本に渡ってきた連続殺人鬼……などと噂されている男である。
テーブルには、コーヒーの入ったカップとジュースの入ったグラスが置かれている。もっとも、誰も口をつけていない。
「仕事の前に聞いておきたいんだけどさ。ここにいる讓治とあんた、前に何があったの?」
先に言葉を発したのは伽耶だ。顔に緊張感を滲ませながらも、出来るだけ平静な口調で尋ねる。
すると、ペドロは落ち着いた様子で口を開いた。
「いや、別に大したことはないよ。置かれた立場の違いから生じる、ちょっとした意見の相違……といったところかな。あの時は、本当に楽しかったね」
言ったかと思うと、いきなり笑いだした。クックック、という不気味な声を上げる。伽耶は圧倒されながらも、ペドロから目を離さなかった。いや、離すことが出来なかったのだ。
すると、讓治の表情が険しくなった。
「あのなぁ、俺は頭が悪いんよ。あんたみたいに賢くないのんな。わけわからんこと言われるとねえ、脳みそバーンってなるかもしれんにゃ」
言いながら、ストローを手にした。ペドロの前で、ナイフを構えるような手つきでちらつかせて見せる。
「このストローあんたの目にぶっ刺して奥まで突っ込んで、脳みそチューチュー吸ったろか。そしたら、俺も少しは賢くなるかもしれないにゃ」
その言葉に、ペドロの笑いが止まった。一瞬で真面目な顔になる。
「君は、自分の頭が悪いと思っているのかい?」
いきなりの質問に、讓治の目がすっと細くなった。
「悪いに決まってんでしょうが。計算しようとすりゃ目の中に川が流れるし、スマホの使い方を覚えようとすりゃ頭ん中に獅子座流星群が降り注ぐんよ。挙げ句、何もわからないのんな」
ふざけた口調だが、語気は荒い。今にも襲いかかりそうだ。伽耶はテーブルの下で、そっと讓治の手を握る。
この言葉だけを聞けば、冗談に聞こえるだろう。だが、幼い頃の讓治が学習障害ゆえに勉強が出来ず悩んでいたことを、伽耶は間近で見て知っている。周囲の子どもたちからも、随分とからかわれていた。心無い言葉を投げつけられたのも、一度や二度ではない。にもかかわらず、讓治は反撃したことがなかった。暴力を振るえば黙らせることなど簡単だったのに、讓治の方が黙って耐えていた。
讓治が、おそらく生まれて始めて他人に振るった暴力……それは皮肉にも、伽耶を守るためのものだった。以来、讓治は暴力を振るうことに躊躇しなくなった。
もし、あの件がなかったら、讓治はどうなっていたのだろう──
そんな伽耶の思いなどお構い無しに、ペドロは語り続ける。
「犬は、人間の幼児と同程度の知能を持つと言われている。だが、犬は計算をしたりスマホを扱ったりはしない。なぜかと言えば、必要ないからだ。君も、同じではないのかな」
そう言うと、ペドロはコーヒーに砂糖とミルクを注いだ。直後、一気に飲み干す。味わっているような気配は、全く感じられない。まるで車がガソリンを補給しているように、カフェインや糖分を補給しているように見える。もっとも、こういった場所のコーヒーは時間をかけて味わうものではないのかもしれないが。
直後、話を続ける。
「つまり、君は自分にとって必要なものとそうでないものをしっかりと理解している。これは、賢い人間でなければ出来ないことだよ」
「はあ? 何わけわからんこと言ってっだよ。いい加減にしないとな、あんたの指を大根おろしでおろしちまうのんな」
言いながら、讓治は鋭い目で睨みつける。すると、ペドロはすっと目を逸らした。
「その前に、あれを見たまえ」
言いながら、離れた席をそっと指差す。讓治と伽耶も、そちらを見てみた。
そこには、数人の少女たちが座っていた。皆、お互いの顔を見ようともせず会話をしている。彼女らの手にはスマホがあり、目は画面に向けられていた。何の変哲もない、よくある風景だ。
そんな風景を見ながら、ペドロは語り出した。
「彼女らは、目の前のスマホに夢中だ。だがね、そこまでして知らねばならぬほどの情報があるのかな。理解に苦しむ話だね。彼女らがスマホを使っているのか、それともスマホが彼女らを使っているのか……君はどっちだと思う?」
「あのにゃ、そんなの知るわけないのんな。いっそ、脳みそとスマホ入れ替えちまえばいいんとちゃうかにぃ」
茶々を入れる讓治だったが、ペドロは構わず語り続ける。
「しかもだ、この店内には彼女ら全員を数秒で皆殺しにしかねない人間がいる。俺か君か、あるいはその両方が……ほんのちょっとした気まぐれを起こせば、彼女たちは抵抗すら出来ずに命を失う。言ってみれば、野生の肉食獣が二匹、すぐそばで放し飼いされているようなものだよ。そんな危険な状況にもかかわらず、彼女らが警戒しているのはスマホの画面だ。これは、非常に愚かな話だと思うがね」
「それは仕方ないんじゃないの? あんたたちが強いかどうかなんて、あの子らが知るわけないじゃん」
ここで、ようやく伽耶が口を挟む。と、ペドロの顔に笑みが浮かんだ。
「讓治くん、君は俺と初めて会った時、どんな印象を受けた? 正直なところを、伽耶さんに聞かせてあげて欲しい』
「んなもん決まってるでしょうが。銀河の果てから、恐怖のエスカルゴ星人が地球を滅亡させるため襲来したのかと思ったん。マジで小便ちびりそうになったのんな」
「そのエスカルゴ星人とやらが何者かは、ひとまず置くとして……讓治くんは一目見ただけで、俺という人間の持つ殺傷能力に気づいた。これはね、素晴らしい能力だよ。計算が出来たりスマホを操ったり出来る能力よりも、生物としては上ではないのかな──」
「いたいた! おいキミカ、もっとわかりやすいとこにいろよ!」
いきなり大きな声が聞こえた。そちらを見ると、数人の若者がこちらに向かい歩いて来る。うちひとりは、顔の真ん中に大きな絆創膏を貼っていた。すると、スマホをいじっていた少女たちが顔を上げる。
「ちょっと! 遅いじゃん!」
ひとりの少女が声を発した。どうやら、若者たちと待ちあわせをしていたらしい。
若者たちは、伽耶たちの席の横を通り過ぎていく。しかし、絆創膏を貼っている男が讓治を見るなり立ち止まった。直後、何やら騒ぎ出す。
「あ! 加藤さん、こいつです! こいつに間違いないです! いきなり殴ってきたんですよ!」
伽耶は、すぐに状況を理解した。絆創膏を貼った男は、数日前に讓治がコンビニの前で投げ飛ばした不良だ。讓治はというと、面倒くさそうな表情で彼らの方を向く。邪魔をするな、とでも言いたげな表情である。
面倒なことになったものだ。さて、どうするか……。
「おい北沢。お前、こんなチビにやられたのかよ? 情けねえ奴だなあ」
言いながら進み出て来たのは、彼らの中でも一番大柄な若者だった。耳と鼻にピアスを付け、前歯が欠けている。不健康そうだが、体つきはがっちりしており腕力はありそうだ。生まれついての優れた身体能力と凶暴さとで、喧嘩に勝ち抜いてきたタイプなのであろう。
さらに、その後ろには三人いる。全部で五人だ。全員、話し合いで大人しく引き上げそうなタイプには見えない。
すると、讓治が口を開いた。
「君ら、また来たんかい。しゃあないから、遊んでやるのんな。さ、行こか。ペドロしゃん、話はまた今度にゃ」
そう言うと、すっと立ち上がった。その目には、残忍な光が宿っている。さっきから、ずっと臨戦体勢でペドロと向き合っていたのだ。いわば、体内で闘争エネルギーを充填させていた状態である。もはや、一度暴れないと収まりがつかないらしい。
同時に、伽耶も立ち上がった。こうなったら、讓治は止まらない。あとは、彼が全員を殺すことがないよう祈るだけだ。
その時だった。
「暴力はよくない。まずは話し合おうじゃないか」
讓治に向かい言った後、ペドロは大柄な男へと視線を移す。
「君は加藤くん、というのかね。加藤くんは……身長百八十三センチで、体重は八十六キロ。骨格からして、本来なら百キロ近い体格のはずだが、覚醒剤のやり過ぎのために、だいぶ痩せてしまっているようだ。さらに、覚醒剤を打つと時間を忘れ恥ずべき行為に耽ける悪癖がある。それが何であるかは、君の名誉のため敢えて伏せるがね」
淀みなく、淡々と語る。その表情には、一片の感情も浮かんでいない。ただただ事実だけを述べているといった風情だ。
そんな彼の言葉を聞き、その場にいた全員の表情が凍りついていた。特に、加藤の動揺は激しい。一瞬にして、顔から汗が吹き出しているのだ。
言うまでもなく、伽耶も驚いていた。初対面の男の身長や体重、果ては性癖までも言ってのけたのだ。しかも、それら全ては当たっているらしい。加藤の顔に浮かぶ表情と動揺する様を見れば、正解なのは一目瞭然だった。
しかし加藤には、まだ抵抗の意思が残っているらしい。
「て、てめえ……何を言ってるんだよ! いい加減なことをフイてんじゃねえ!」
動揺しながらも、仲間の前で精一杯の威厳を保とうとする。すると、ペドロは不気味な笑みを浮かべ立ち上がった。
「外れてはいないはずなんだがね……お望みとあれば、まだ続けるとしよう。君は、以前に人を殺したことがあるね? 死体はどこかに始末したらしい。となると、ここで警察沙汰になるようなことをするのは、賢い振る舞いとは言えないな」
言いながら、ペドロは加藤に近づいて行く。
「な、なぜそれを知ってるんだ……」
加藤は、近づいて来るペドロに圧倒され、後ずさりを始めた。この男の身長は、百六十センチそこそこだろうか。加藤に比べれば、明らかに小さい。にもかかわらず、異常に怯えていた。
いや加藤だけではない。その店にいた全員がしんと静まり返り、ペドロの言葉と動きに注目している。無関係なはずの他の客や店員たちまでもが、ペドロの行動を見守っているのだ。その小柄な体から発せられる何かが、店内の人間すべてを支配してしまった。
「俺にはわかるんだよ。なあ加藤くん、俺は今こちらにいるふたりと大切な話をしている。さっさと帰ってくれないかな。でないと、君は非常に困った立場へと追い込まれることになるよ」
言った後、ペドロは後ろで突っ立っている少年たちの方を向いた。
「君たちも、だ。君たち全員の犯した罪が、公になったらまずいのではないかな」
そう言って、若者たちを見回す。彼の表情は、極めて冷静なものだ。威嚇するような素振りも、媚びるような仕草もない。静かな口調で、言うべきことを言ったという雰囲気だ。
にもかかわらず、若者たちは怯えた表情で顔を見合わせた。彼らの顔色は、死人のように青くなっている。ようやく理解したのだ。目の前に立っている小柄な外国人の恐ろしさを……理屈ではなく、本能の部分で──
次の瞬間、加藤たちは無言のまま足早に立ち去って行った。少女たちも、慌てて後を追う。
「さて、邪魔者はいなくなった。話を続けるとしようか」
ペドロは、何事もなかったのように席に着いた。讓治はチッと舌打ちし、苛ついたような表情で座り込む。暴れられなかったことが不満なようだ。
伽耶の方はというと、完全に呑まれている。自分の目の前にいるのは、本当に人間なのだろうか……というバカげた疑問が、頭の中に生まれていた。
が、その後さらに予想外のことが起きる。ペドロは突然、ポケットからスマホを取り出したのだ。メッセージが来たらしい。
しばらく画面を見つめていたペドロだったが、不意に顔を上げた。
「ふたりとも、申し訳ないが急用だ。続きは、また今度にしてもらう。この非礼は、いずれ別の形で埋め合わせるよ」
そう言い残し、店から消えてしまったのだ。伽耶は彼が出ていくのを、唖然とした表情で見送ることしか出来なかった。
「あんの野郎、偉そうなこと言ってっけど、コーヒー代払わないで行きやがったのん。意外とセコい奴だにゃ。次に合ったら、コーヒーん中に伯方の塩ぶち込んでやるのんな」
残された空のコーヒーカップを見ながら、讓治は忌々しげに呟いた。