九月六日 徳郁とサン、ラーメン食べる
「き、ら……きら」
サンの声が、リビングから聞こえてきた。吉良徳郁は振り返る。
「ん、何だよ? どうかしたのか?」
聞いてみたが、サンは笑みを浮かべてこちらを見ているだけだ。徳郁は、思わず首を傾げた。
サンはにっこりと笑い、再びテレビの画面に視線を戻す。ひょっとしたら、幼い子供のように覚えた言葉を喋りたいだけなのだろうか。あるいは、名前を呼ぶと振り返る徳郁の反応を楽しんでいるのかもしれない。それならそれで構わないが。
彼女の傍らには、クロベエとシロスケが忠実な部下であるかのように控えている。両方とも、安心しきった様子で伏せていた。サンのことを、心から信頼しているようだ。同時に、サンの命令とあらばすぐに動きそうな雰囲気も漂わせている。
そんな様子を見ている徳郁の顔に、知らず知らず笑みが浮かんでいた。リビングに居る三者の後ろ姿は、見ていて微笑ましい。出来ることなら、ずっと見ていたい気分だ。
「き、ら。きら……」
不意に、サンが声を発した。そして、テレビを指差す。見てみろ、とでも言わんばかりだ。
何事かと思い、徳郁はテレビに視線を移した。画面には、美味しそうにラーメンを食べる女性タレントの姿が映っていた。彼にとって、何ということもない映像である。しかし、サンは真逆の印象を持ったようだ。
「えっ、何だ? どうかしたのか?」
その問いに、サンは首を傾げる。
「あれ……なま、え。あれ……たべ、る」
彼女の言葉は、はっきり言って支離滅裂である。しかし今の徳郁には、何を言わんとしているのか、だいたい理解できた。
「もしかして、あれを食べてみたいのか?」
尋ねると、サンは嬉しそうに頷いた。
「うん、たべ、る。あれ……たべ、て……みたい」
「わかった。じゃあ、あれと似た物を買って来る。だから、ここで大人しく待ってろ。外には出て行くなよ。いいな?」
徳郁の言葉に対し、ニコニコしながら頷いた。果たして、本当にわかっているのかは不明だが、とりあえずは大丈夫だろう。
タオルと財布を手に、家を出た。考えてみれば、ここ二日ほどはサンにかかりきりで家から出ていない。日課となっていたトレーニングも、サボり気味になっている。このままでは、体がなまってしまう。コンビニまで、トレーニングがてら走って行くとしよう。
軽くストレッチをした後、徳郁はゆっくりと走り出した。
ゆったりとしたペースで走った。すぐに筋肉が暖まり、全身から汗が吹き出してくる。今は九月であり、まだ夏の暑さは残っている。ただでさえ、徳郁は筋肉量が多く新陳代謝が活発な体なのだ。少し動いただけでも、汗が大量に出てくる。
走りながら、サンのことを考えた。本当に不思議な少女だ。いつの間にか、自分の家に居着いてしまった。今までどこに居て、どんな生活をしていたのだろうか。
それに、体に付着していた大量の血液は何だったのだろう。
もしかして、彼女は殺人犯なのだろうか。だとしたら、いずれ警察が来るのかもしれない。
警察が来たら、俺はどうすればいい?
考えながら走っているうちに、コンビニに到着していた。タオルで汗を拭き、店内へと入って行く。
目に付いた様々な物を買っていった。カップラーメン、菓子パン、スナック菓子などなど……サンが喜びそうなものを、カゴの中に放り込んでいった。
会計を済ませ、ビニール袋片手に店を出る。帰りは、のんびりと歩いた。
「おいサン、帰ったぞ」
言いながら扉を開け、家に入って行く。すると、テレビを観ていたサンがパッと振り向いた。
「き、ら。きた。きら……きた」
彼女は微笑みながら、嬉しそうに声を発した。傍らに寝ているクロベエとシロスケは、首だけを動かしこちらを向いただけだ。すぐに、元の姿勢に戻る。サンと比べると、かなり薄情な奴らだ。付き合いはサンより遥かに長いはずなのに、出迎えに来ず声も出さない。
徳郁は苦笑しながら、キッチンで買ってきた物を並べる。さらに、カップラーメンの蓋を開け、お湯を注いだ。
三分後、声をかける。
「サン、出来たぞ」
言いながら、徳郁はカップラーメンをリビングに運んだ。すると、サンは首を傾げる。匂いを嗅いだ後、徳郁を見上げた。
「ほら、さっき見たラーメンだ。美味しいぞ。食べてみないか?」
徳郁はカップラーメンの蓋を開け、少量を箸で食べてみせる。
そんな徳郁の動きを、サンは興味深そうに見ていた。さらに、傍らで寝ていたはずのクロベエとシロスケが目を覚ます。二匹はあくびをすると、床に尻を着け、前足を揃えた姿勢でじっと徳郁を見つめる。おこぼれを貰おうというつもりなのだろう。徳郁の顔にも、思わず笑みが浮かんだ。
サンはカップラーメンを受け取ると、箸を使って食べ始めた。箸を器用に扱い、麺を掬い食べている。
その時、徳郁の中に疑問が生じた。彼女は、どこで箸の使い方を習ったのだろうか。
サンには、わからない部分が多すぎる。言葉は片言の単語しか話せない上、常識がまるでない。かと思うと、テレビを観たりシャワーを浴びたりする知識はあるのだ。今も、箸を器用に使っている。さらに、こちらの言葉も理解しているらしい。
どこかの養護施設から、何かの拍子に迷い出てしまったのだろうか。だとしたら、自分はどうすればいいのだろう?
考える徳郁をよそに、クロベエとシロスケの目はサンの方に向いていた。お行儀よく前足を揃えた姿勢でじっと座っている。
サンは麺を食べていたが、不意に手を止めた。クロベエの方に視線を移す。
クロベエも、じっとサンを見つめていた。だが、痺れを切らしたのだろうか……ややあって、右の前足を伸ばし彼女の腕をつついた。肉球の部分で、優しく触れるようなつつき方だ。ちょうだいよお、とでも言っているかのような動きである。見ている徳郁は、顔がほころんでいた。
「く、ろ。くろ、べ……え。たべ、る。おいしい」
たどたどしく喋りかけながら、サンは箸を置いた。麺を指でつまみ上げた。クロベエの鼻先に差し出す。
すると、クロベエは麺を前足で掬い取った。いかにも美味しそうに、残った左目を細めて食べ始める。
「お、おい」
徳郁は、思わず声を出していた。猫にカップラーメンを食べさせるのは、良くない行為だ。
だが、美味しそうに食べているクロベエと、その様子を嬉しそうに見ているサンを見ているうちに、徳郁は何も言えなくなった。黙ったまま、じっとその様子を眺めていた。
すると、サンはもう一度麺を指でつまみ上げた。
「し、ろ。しろ、す……けも、た、べる。おいしい」
そう言うと、今度はシロスケの前に突き出した。これまた、犬にとって良くない行為である。しかし、徳郁には何も言えなかった。
シロスケは匂いを嗅ぎ、食べ始めた。サンの指を器用に避け、麺だけを食べていく。それを見ている彼女の表情は、本当に幸せそうだった。本当に、うちにいる動物たちが好きで好きで仕方ないらしい。
次に徳郁の方を向いた。またしても、麺をつまみ上げる。
そんなサンの動きを見た徳郁は、嫌な予感を覚えた。まさか、とは思うが……。
「き、ら。きら……たべる。おいしい」
言いながら、サンはこちらに近づいて来た。手を伸ばし、麺を摘んだ指を近づけてくる。予想通り、自分にも食べさせようと考えているらしい。
「い、いや。俺はいいから、自分で食べろよ」
思わず苦笑する徳郁。だが、サンはお構い無しに指を突きだして来る。
「き、ら……たべ……て……おい、しい」
「いや、いいって──」
言いかけた徳郁だが、ふと別の視線を感じた。何かと思えば、クロベエとシロスケがこちらを見ている。いや、睨んでいるといった方が正確かもしれない。何やら抗議の意思が感じられる。
(お前、この娘の好意を無視する気か)
そう言われている気がした。
「わ、わかったよ……」
サンの勢いと、二匹の動物の圧力に押され、徳郁は口を開ける。
すると、サンは口の中に麺を入れて来た。仕方なく、その麺を食べる。
「うん、美味しいよ。サン、ありがとう」
そう言って、徳郁は微笑む。サンも、にっこり笑った。
「きら、おいしい……さん、うれしい」
その言葉に、徳郁は柄にもなく頬を赤らめる。何やら照れくさいものを感じながらも、体の中は暖かいものに包まれていた。