第一部
「大丈夫に決まってるだろ。今回は絶対成功だ」
薄暗い部屋の中、やけに自信たっぷりな少年の声が空間に膨らむ。
「その言葉何回聞いたことか。だいたい危なすぎるよ、前なんて小屋一つふっ飛ばしてたじゃない」
少年の声とは反比例に、返ってくる言葉は後ろ向きで少年を非難する声色も隠そうとしない。
「吹っ飛んだんじゃない。ゲートの向こう側に行ったんだ、大丈夫今回はあんな事故も起こらない」
少年が口にする「ゲート」と呼ばれるものは、小屋の半分を占拠するつぎはぎだらけの機械のことで、どこが安全なのか少女は何度でも尋ねるつもりだった。
これをどの視点から見れば安全だと勘違いできるのか、少女にはわからない。
「よし! システムも良好、不具合なし、完璧だ」
「完璧って……」
後ずさりする少女の手を、パソコンの画面から視点を外すことなく少年は器用に探し当てぐっと握った。
「行くぞナツミ、ジョージ・ウェルズもびっくりな時間旅行に連れてってやるよ」
暗闇を明るく照らすほどのきらきらとした少年の瞳に気をされて、ナツミを呼ばれた少女は強張っていた肩を、力なく落とした。
その日の空は晴れていて
2010年、夏。
強烈な太陽の日差しを反射するアスファルトの下を、健気にも汗を垂らしながら歩く人々を彼らの頭二つ三つ高いアパートのベランダで洗濯物を干しながら、高科歩はため息を吐く。
本当なら自分はアスファルトが熱を吸収しきらない時間帯を選び、今頃学校の教室で炎天下の中グランドで汗を流す運動部員達を、窓の桟に手をかけながら眺めていただろう。
なのに今現在、こうして未だ自宅のおんぼろアパートで洗濯物を干しているという事実。
この事実は同時にこれから数分後には、自分も炎天下とアスファルトの放射熱に身をさらさねばならないという、考えただけでもうんざりな未来も裏付けていた。
「父さん! いい加減早くご飯食べてよ」
ベランダから狭い部屋に顔を突っ込み、歩は叫ぶ。古い畳の上にある古いちゃぶ台に並べられたご飯を、箸が進まない様子の不精髭と寝ぼけた顔が際立つ父がそこにいた。
「アユム、叫ばないでくれ酒が抜けてないんだ」
「うるさい。誰のせいでこんなことになってると思ってんの」
はいはい。わかったから先に行ってろ。と箸でちょいちょいとドアを指さす父に、歩はカチンときて父の顔面にバスタオルを投げ込み、鞄を拾ってさっさと大げさに倒れる父の前を通り過ぎ、すとんと腰を畳に落とした。
そして紫色の髪留めをポケットに突っ込んで、写真立てに微笑みかける。
「じゃあ面倒な父は家に残して私は学校に行ってきます」
――今日も晴れですね。
小さく笑った歩の視線の先には、今は亡き彼女の母親がガッツポーズを浮かべて満面の笑みを浮かべていた。
「おはよう。アユム……どうしたのなんか酷い顔だけど」
理科棟三階の一番奥の物理実験室に勢いよくドアを引いて現れた歩を、出迎えた背の小さなお下げの少女は、大きく顔をしかめながら一歩後ずさる。
「暑いッ!」
鞄を黒板の前の大きな机に置きながら歩は、全力でお下げの少女に一言を投げかけた。
「まあそうだけど、いつも一番に来るのになんで今日は遅れたの」
「……わかんない?」
ああ、先生のせいか。と苦笑いした少女に、歩はむすっとして返事もせず机の上に転がっていたうちわを扇ぐ。
「部長。おはようございます」
「山内先輩もおはようございます」
そう言いながら入ってきた数人を皮切りに、ぞろぞろと後輩たちが黒いカーテンをくぐって教室になだれ込んできた。
一年生が十二人に対して部活内で最上学年の二年生はたったの三人。歩たち二年生が少ないのではなく、一年生が例年に比べて多いのだ。科学研究部と銘打っている部活は歩たちの先輩達が引退してから人数不足で、一時は廃部の危機にまで陥った。なんとかそれだけは回避しなければならないと、春に新入部員勧誘を多少派手にやったところこのようなかつてない大所帯になってしまったのだ。
「ミホ、水島くんはどこにいるの? 鞄はあるけど」
投げっぱなしになっているパンパンに膨らんだエナメルの鞄を目で差しながら、歩は美帆に尋ねる。すると美帆はまた苦笑いを、小さな顔に浮かべ開けっ放しの窓の外を指さた。
「来てすぐに網とカゴとつなぎに着替えてどっか行ったちゃったよ」
深く溜息を吐き歩は頭を抱え、濃い緑色の裏山に遠い視線を向ける。残り一人の同級生である水島亨は陽気でおしゃべり好きな男子なのだが、いかんせん無類の虫好きであり、生命が色づくこの時期は特に制御不能になることが多々あるのだ。
「まあいいや、水島くんのことは放っといて私たちはやることやろうか」
今朝の父親の件といい、今日は異性とはかみ合わない日なのか。と漠然と考えながらも、仕切りなおそうとイスから腰を上げた時、慌てた声と喧しい足音が廊下から教室に飛び込んできた。
「高科部長大変だ!」
汗だくで飛び込んできたのは、まぎれもなく水島亨のその人で歩は思わず顔をしかめる。
「ミーティングにも顔を出さないで虫取りとはいい度胸じゃない、ねえ水島」
「え、今日ってミーティングだったっけ? ってそんなことは後でいいから、部長ちょっと着いて来て!」
にやりと意地悪そうに笑う美帆の言葉に若干同様しながらも、水島はすぐに苦い顔をしている歩に必死な視線を送る。
「変なことは止めてよ。ほら前もスズメバチの幼虫はうまいとかまずいとか……」
「あーもう、そんなんじゃなくてとにかく来てくれ!」
手を握られぐいぐいと引かれるままに、歩はすぐにいつもと違う雰囲気を手のひらを通して感じ、美帆にその場を任せ水島に導かれるまま廊下を突っ切り、再びギラつく太陽の下を駆け抜けて行った。
裏山の入口は校門を出てすぐの所にある。
山の中へ続く古いアスファルトの上には、横の茂みから濃い緑の蔓が伸びてきていて思わず歩は顔をしかめた。
このぼろぼろのアスファルトだって目の前の緩やかに曲がるカーブの先はなくなって砂利道になってしまう。日差しは天然の緑のトンネルによって幾分弱まるかもしれないが、それでもこんな暑い日にしかも亨と一緒に山に登る意味は、歩にはわからない。
「水島くん、一体何があったの。私帰りたいんだけど」
「いやそれがさ」
きょろきょろと辺りを見回して誰もいないことを確認すると、亨はそっと歩に耳打ちした。
「人が倒れてたんだ。中腹辺りで」
なぜか目を輝かす亨とは反対に、疑いに満ちた眼差しを亨に向ける。
「水島くん帽子被ってないよね」
「まあそうだけど」
「暑さにやられたんじゃないの。何だったら保健室までついていってあげるよ」
まったく信用されていないと知った亨は、大げさに肩を落とすが次の瞬間には歩の背後に回り込み、細い背中を突き飛ばす。
よろめく歩に向かって、指を突きあげ亨は高らかに宣言した。
「絶対いたんだ。これが本当なら大変だろ、さあさっさとのぼるのぼる」
ほんとにいたなら私連れてくる場合じゃないでしょ。という歩のぼやきも、太陽の日差しと蝉の声の間で溶けて消えていってしまった。
全身汗だくになりながらも数十分歩いて二人がたどり着いた場所は、ちょうど中腹辺りの道から僅かに外れたところにある「五代樹」と地元の人から言われる大きなクヌギの木の下だった。
キョロキョロと四方を見渡す亨を尻目に、歩は手の甲で額の汗を拭って五代樹を見上げる。
ざわざわと揺れる豊かな緑色の葉が適度に日差しを遮り、地面にまだら模様を浮かび上がらせている。
「おっかしいな。この辺にいたはずなんだけど」
何やってんだかと肩をすくめながら、五代樹の根元に腰かけた。街中とは違った優しく穏やかな風が、歩の頬を撫でてて肩で切りそろえた髪を音もなく揺らす。
両手を後ろについて目を細め、葉の隙間から青い空を垣間見ようとしたその時、誰かのうめき声が聞こえ歩は慌てて振り返った。
五代樹の裏側には大人一人が入れるほどの大きなウロがあり、声はその中から聞こえてくるようだ。中腰の姿勢のまま五代樹を半周した歩は、一回咳ばらいをすると勇気を出して穴の中に声をかけた。
「だ、大丈夫ですか」
「何やってんの。五代樹の穴の中には入らない方がいいぞ変な噂があるし」
「誰かいる。声がするの」
背後から聞こえてきた亨の足音は、歩が言葉を告げると急に慌ただしく近づいてきた。
「大丈夫ですか、救急車呼びましょうか」
携帯をポケットから取り出して119を押そうとした時、暗闇からにゅうっと腕が出てきて僅かな時間宙をさまよい、やがて歩の細い腕を掴んだ。
「平気です。もう大丈夫だから」
そう言いながらウロの中から一人の少年が文字通り這い出てきた。
学生服を着た小柄な少年で、あちこちに土と葉をくっつけている。ぼさぼさの前髪を掻きながら現れた少年の顔は、どうみても平気とは言えなくらい真っ青だ。
「この人だよ俺が見つけたの!」
「無理はしない方がいいですよ。具合悪そうだし」
自分の腕を掴んでいる腕にそっと手を添えながら、歩は明るいところへ全身を出してきた少年を見た。
「大丈夫大丈夫。ちょっと酔っただけだから」
「酔った?」
乗り物酔いにしては近くに車もないし第一ここには入ってこれないし、お酒の酔いってのも少年からはアルコールの臭いは全くしない。
少年の言葉は信じられず眉をしかめたのがきっとバレたのだろう少年は焦ったように挙動不審になり、あははっと何かをごまかすように笑う。
「ところで何でこんなとこで倒れてんの。五代樹のとこなんてよほどの変わり者しかこないよ。虫しかいないしさ」
隣で若干傷ついた表情を浮かべる亨を見て見ぬふりして、歩は少年に尋ねる。同時に添えていた手に力を入れ、逆に少年を捕まえた形に持っていって少年の逃げられないようにする。
考えてみればみるほど、この少年怪しすぎるのだ。
一瞬、三人の間に沈黙とそれぞれの思惑が交差する。
そして三人ともそれぞれの行動に移るのに、枝から離れた葉が地面に着く速度よりも速かった。
まず亨がウロの中をのぞき込もうと身を乗り出すが、少年に思い切り突き飛ばされもんどりうって倒れる。そのごたごたの間に、歩が掴んでいた少年の腕を引っ張り体勢が崩れたとこに馬乗りになり、少年の身動きを封じた。
「あー、くそ」
完全に動けないことがわかると少年はぐったりと全身の力を抜きと地面に四肢を伸ばした。もう抵抗する様子がないとわかってはいたが、馬乗りになったまま歩はほんの少し語調を強めて、下の少年に言葉を投げかける。
「名前は?」
「ツヨシ」
「こんなとこで何やってたの」
尋ねると、突然少年はあーとかうーとか唸って言葉を濁した。
「身元不明っぽいし警察に突き出してもいいんだけどな」
「わかった。言うよ全部しゃべるから放してくれ」
観念して音を上げた少年を笑っているかのように、五代樹の葉がざわめいて三人を包み込んでいた。
五代樹の前の開けた場所に座りこみ、歩は正面にいる少年の言葉を待っていた。隣には突き飛ばされた際に思い切り打った後頭部をさする亨がいる。
「まったく病人になんて扱いをするんだキミは」
「キミって言うな。アユムって名前がちゃんとありますから。それに酔ってるだけって聞いてたけど」
「おいおい誤ってキミ、じゃないアユムさんにゲロ吐いた欲しくないだろ?」
解放されたとたん饒舌になる少年を呆れたように歩はため息を吐いた。仮にも女の子にゲロだのなんだの、デリカシーの欠片もないやつだ。
「それでツヨシくんはここで何やってたの」
「あーそうだな。それを話すと長い時間が掛ってしまうんだよな、ほら君たちあれだろ学生なら授業とかいかなくちゃいけないだろ」
「下手な嘘つかないでよ。夏休みのど真ん中じゃない」
げっと表情を歪めるツヨシを見て、歩は内心首をかしげた。
もしかして本気で知らなかった。というのは信じられないが、ツヨシの焦っている顔が妙に印象に残る。
「あーもういいや。どうせボロがでるんだ全部話すよ」
なんの予兆もなく投げやりになったツヨシは両足を投げ出して、空を眺める。目を細めて遠い空を眺めていたツヨシの顔は比較的穏やかだったが、二人に視線を戻したとたん厳しいものに変わった。
「その代わり驚いたりするんじゃないぞ俺うるさいの嫌いなんだよ」
わかったと頷く二人を確認すると、ツヨシはもったいぶって間を置いた後ようやく口を開く。
「俺ついさっきタイムマシンに乗ってこの時代にやってきたんだ」
静寂のあとその場を包んだのは、驚きの声でも感嘆のため息でもなく、二人分の深い溜息だった。
目の前の二人があたかも詐欺師を見るような、信用の欠片もない瞳で自分を見ていることにツヨシは憤慨し、バンッと地面を叩いた。
「なんだよその目は。お前らが教えろって言うからせっかく教えてやったのに」
腕を組んで背を伸ばし精一杯亨と歩を見下ろそうとするが、いかんせん三人の中で一番背が低い為迫力がない。組んだ足の上に肘をついて、亨がツヨシににやにやとした顔を向ける。
「今時小学生でもそんな嘘つかないぜ、タイムマシンなんて作れないだろ何年経ってもさ」
言いきった亨だったが、もう一度ツヨシに視線を戻すやいなやぎょっとして顔を肘から離した。
まあ驚くのも無理はないだろう。突然ツヨシが腹を抱え、低い声で笑い始めたからだ。黙って二人のやりとりを聞いていた歩も、ツヨシの様子に多少の不安を覚える。
こいつ大丈夫だろうか。
歩と亨がそう考えたとき、ようやくツヨシが笑い声に言葉を混ぜ始めた。
「分かってない全っ然わかってない。そんな偏見のせいで人生の半分は損してるぜ」
今度は完璧に人を小馬鹿にした態度を二人に作って見せて、わざとらしく膝をついて立ち上がった。
「わかったついてこい。いいもの見せてやるから」
自身満々意気揚揚と歩き出すツヨシの背中を、残された二人は困ったように見つめていた。
五代樹のウロの中に入ると神隠しに会う。
という都市伝説というか、毎度おなじみの根も葉もない噂があるのはこの辺りの住人や近くの学校の生徒にとっては当たり前のことだ。そうでなくても街の匂いは薄くなり、濃い緑が精力を増す場所に進んでやってくる人など数が知れている。
だから、というわけではないが実は歩が五代樹の前にやってきたのはこれが生涯二度目だ。しかも前回はまだ幼い時に両親ときたので当時の記憶はひどく曖昧で、記憶の隅で埃をかぶっている。
でもこれだけははっきりと言えるだろう。
以前来たときにウロの中は絶対に、鈍色に光ってなどいなかった。
目の前の光景を信じられずに、歩は無意識のうちにウロの中から一歩後ずさる。それとは対照的にツヨシは得意げに鼻を鳴らす。
「どうだ。これで信じたろ俺はこれをくぐってきたんだ。しかもこれ俺一人で作ったんだぞ」
言葉を無くした二人の表情を眺めてにやりと笑うツヨシはとても満足そうにうなずく。
「いや、得体のしれないものってのは分かる。なんだったらツヨシのこと信じても構わないけどさ。ツヨシはどっちからきたんだ」
「どっちってなんだよ」
驚いたままの間抜け面をなんとか修正しながら亨が、やっと視線をウロの中でうねる鈍色の光から引き剥がし、頭の上にハテナマークを浮かべるツヨシに向けた。
「過去か未来かってことさ」
「言えないね。どっちにしてもこの時代や俺の時代に影響を与えることになるから俺はこの時代の情報には絶対に触れないし、俺の時代の情報も君達には与えない。タイムトラベラーとしてはこのくらいの倫理は守らないとね」
自称タイムトラベラーは胸を張って答えると、急にしおらしくなって二人にすり寄ってきた。
「それはそれとしてこの時代の初めての友人のお二人にお願いがあるんだけど……」
ああ、これは非常に面倒なことだ。
何故ツヨシが用件を話し始める直前に直感し、その直感が外れる気がしなかったのかは歩にはよくわからなかった。
ただひとつ言えることは、ほんの少し常識から外れた夏の一日が始まったのはきっとこの瞬間からだったということだ。