唐揚げ、睡眠、雨のち花
麗ちゃんは、私の母の妹である。
シンプルな言い方をすれば私の『叔母さん』であるが、彼女は決してその呼び方を許さない。
とはいえ私も物心ついた頃からずっと『麗ちゃん』と呼んだ覚えしかない。その呼び方が自然だったから、弟のようにうっかり『おばちゃん』と呼んで不機嫌になられた記憶はない。
歳のことも言ったら怒られるので書けないが、今、麗ちゃんは、私の年齢のちょうど倍だ。自分の歳も書きたくないのではっきりとは言えない。でも、これだけは言える。私の長い人生の時を2回も繰り返しているとは思えないほどに、麗ちゃんは若々しい。
職業はシンガーソングライターという珍しい仕事をしている。若い頃に一曲だけヒットを放ったことがあると言い、それが自慢だ。どうせローカルのTV番組で使われたとかそんな話だろうと思っていたら、結構多くの人が知っているような、つまり馬鹿にできないものだった。
26歳の頃、つまり……あー、何年前かは言えないけど……、その頃のアーティスト写真を見せてもらった。一言で表すなら『ケバかった』。化粧塗りすぎ。髪チリチリにしすぎ。ビニールレザーの衣裳は露出多めだった。
今はナチュラルメイクに黒髪のウェーブロング。目尻に刻まれたシワに老いを感じるというよりは歴史を感じる。かっこいいシワだ。ケバくないぶん、下手をすれば今のほうが若く見えるかもしれない。
結婚歴がなくていまだに独身なのも若さを保っている秘訣かもしれない。最近の音楽もよく聴いていて、そのことに限らず、世代の違う私とも話がよく合ったりする。
昔からよく遊んでもらった。格闘ゲームが好きで、相手になってあげたこともあった。
とにかく麗ちゃんは私のかっこいい叔母……おっと……お姉ちゃんで、まるで友達みたいな、昔からずっと私の大好きなひとだった。
雨が降りそうなので傘を持っていった。
夏ももう終わりだなということが、さらりとした空気でわかった。
麗ちゃんは町はずれに一軒家を借りて住んでいる。家というよりはガーデンハウスみたいなこじんまりとした黄色い建物で、知らない人が見たら何かのお店だと思うかも。
小さな庭にはところどころに花が植えてある。跨いででも入れそうな低い門を開けて入ると、八重咲きの白いペチュニアが目にとまった。そこだけモノクロームに見えるような、珍しい色合いのペチュニアだった。
「麗ちゃーん、来たよ」
木の扉を叩くと窓ガラスがたわんたわんと音を立てる。いつもこれ割れそうだなと思うのだけれど、意外にこれが丈夫なのだ。窓ガラスの向こうから麗ちゃんの笑顔が覗くのが見えた。
「いらっしゃい。待ってたわよ」
ノーメイクの麗ちゃんが扉を開けて、迎えてくれる。かっこいい目尻のシワが笑った。黒のキャミワンピ一枚だけ身につけて、おろした髪がかわいくセクシーだ。
「庭先のペチュニア、珍しい色だよね」
私が言うと、
「あたしみたいな色でしょ?」
自慢そうに、冗談を言うように、流し目で笑った。
中に入ると小さなキッチンがあり、その向こうが二部屋に分かれている。左が仕事部屋、右が寝室だ。各部屋に扉はなく、仕事部屋にはギターやパソコン、寝室には安物だというダブルベッドがどーんと置いてある。
「あのペチュニア、新色なの。モダンホワイト……だったかな。かわいいでしょう? かわいいけどじつは年取ってる感じで」
「シックだよね。ふわふわしててかわいいし」
「気に入った? よかったら分けてあげるけど、持って帰る?」
「いいよ、置いてあげるとこないし、たぶんお世話もできないから。でもあれ、本当かわいい。本当、麗ちゃんみたいに。オトナかわいい」
本心で言ったのだけど、期待もあった。ご機嫌をとると麗ちゃんは、とっておきのご馳走をふるまってくれる。
もちろん私もお土産は持ってきた。高級ブランデーだ。マーテルのコルドンブルー。市販価格は一本1万5千円を優に超す。リカーショップに勤める私の特別従業員価格でも7千円台のしろものだ。
大切にクッション袋に入れてきたそれを取り出して見せると、麗ちゃんがにかっと笑った。今夜は酒飲み同士のくだまきパーティーだ。
「唐揚げの用意してたんだけど、ブランデーに合うかな」
麗ちゃんがそう言ったのに私は飛びついた。
「合う! 絶対合う! 言っとくけど唐揚げに合わないものなんてないんだからね!」
「ふふ、よかった。柚希が相変わらずの鶏から大好きっ子で」
冷蔵庫から作り置きのサラダとブラックペッパーチーズも取り出すと、小さな天ぷら鍋を火にかけながら、緑色の小さなテーブルを挟んで向き合った。
氷を入れた100mlミニサイズの紙コップに高級ブランデーを注ぎ、乾杯。
「高級ブランデーを紙コップで飲むのなんて、あたし達ぐらいだよね」
皮肉じゃなく、面白がって私が言うと、麗ちゃんはそれには答えず、ブランデーの香りを楽しみながら、言った。
「香りが華やかだね。さすがに年取ってるお酒なだけあるな」
麗ちゃんがお酒を飲むのに紙コップを使うのは、単純に洗い物が面倒くさいからだが、私はコレがお気に入りだ。安いお酒はとても飲みやすくなり、高いお酒も気安くなる。
麗ちゃんがビニール袋に用意していた唐揚げを、二人で揚げた。焼肉のたれの香りがした。
「はい、あーん」
再びテーブルに戻ると、揚げたての唐揚げにつまようじを刺して、麗ちゃんが私の口を開けさせようとする。いつまで経っても私は彼女にとって、幼い姪っ子なんだなと、苦笑しながらそれを口で受け取った。
焼肉のたれ味にブラックペッパーが絡みついて、その奥からじゅわーと甘い肉汁が溢れ出してくる。
「うん、おいしい! 麗ちゃんの唐揚げがあたし、一番好き!」
「やっぱり?」
昔からそうだった。見た目は黒くて辛そうだけど、衣がパリパリで中身はジューシーな麗ちゃんの唐揚げが、私はこの世で一番好きだと言える。
美味しいのはもちろん、これは麗ちゃんにしかつくれない、私の思い出の味なのだ。
酔いが回ると、私の話題になった。
「柚希を振るなんて、どんなオトコ?」
「優しいひとだったよ。優しすぎて何も出来ないかと思ってたら、意外にデキるやつだったね。はっきりした口調で言ったよ。『他に好きなひとが出来た』って」
「まあ、そのうちもっといいオトコ出来るわよ、柚希なら」
「まあ、それほど傷ついてないよ。でも聞いてくれてありがとう」
「結婚、考えてたんじゃないの?」
「まあ、ね。でもまだあたし若いし……」
「あたしが柚希の年の頃には結構焦ってたわよ」
「麗ちゃん、結婚したいひととか、いたの?」
「そうね……」
窓の外で雨が降り出した。
麗ちゃんの家の庭に降る雨は、たくさん植えてある植物の葉っぱに当たり、てのひらを叩く音のように聴こえる。
雨に耳を澄ましながら、麗ちゃんが呟いた。
「最近は夏でもよく雨が降るわね。昔は夕立ちぐらいだったのに」
少しハスキーな声が、寂しい歌のように聞こえた。
「あのペチュニア、枯れてしまうかもね。雨に弱いのよ」
話をそらされた気がして、私は意地悪な笑みを浮かべながら追及する。
「ねえ、結婚したいひとって、どんなひとだったの?」
「うん」
麗ちゃんはカーテンの向こうの雨降る庭を眺めながら、言った。
「今、柚希、○○歳よね? 今のあなたより2つ上の時だったわ」
「と……、トシのことは言わないでよ」
「20代最後の夏ね。あなたが2歳だった頃。お金持ちの音楽プロデューサーだったわ」
「どうしてダメになっちゃったの?」
「あたし、その時、好きなひとがいたのよね、他に。柚希を振ったそのオトコじゃないけど、優しくて、優しすぎて、強引にあたしを奪ってくれなかった」
「ほんとうに何も出来ないやつだったのか……」
ふふ、と麗ちゃんが笑った。紙コップのブランデーで唇を濡らすと、続ける。
「優しいそのひとのこと諦めて、お金持ちと結婚しようと思ったんだけど……」
「忘れられなかったの?」
「どうだか……。お金の魅力は凄かったんだけどね、でも音楽プロデューサーのくせに、ミツバチ農家みたいにあたしを巣に閉じ込めようとするから、蹴っ飛ばしてこっちから願い下げにしてやった」
「シンガーソングライターをやめろって言われたってこと?」
「歌うのは続けたかったのよ」
お酒の息を吐き出しながら、遠い目をして笑う。
「……で、優しいほうの彼は、待っててくれなかった」
外の雨が一瞬、弱くなった。
冷えた唐揚げを麗ちゃんがつまようじで刺して、小さく齧るとなんだか痛そうな音がした。
私が返す言葉に詰まっていると、くすっと麗ちゃんが笑った。
「ごめん、ごめん。なんかしんみりしちゃったね。もう四半世紀も前の話よ」
四半世紀という言葉に壮大さを感じた。頭の中に思わず歴史年表が浮かんだ。でも考えてみたら25年だった。ほんの25年というべきか、25年も前というべきか、微妙なところだと思った。
それからお互いの失恋を吹き飛ばすように、私達は楽しい話ばかりをした。
麗ちゃんが旅行先のテキサスで出会った音楽旅団の話に、私の身近すぎる仕事先での失敗談は太刀打ちできなかったけど、麗ちゃんは私のことなら何でも楽しいと思ってくれるように、何でも聞いてくれた。
ママには話せないようなことでも麗ちゃんには気軽に話せる。後でそれがママに伝わることもない。口の固さも信用するけど、とにかく一緒にいるのが楽しいので、私は何か話したいことがあると、すぐに麗ちゃんの家に来てしまうのだ。
お酒でぐるんぐるん世界が楽しく回り、いつの間にか心地よい夢の中にいた。
私を振ったアイツのことも、仕事であった嫌なことも、全部夢の中で、晴れた高い空に飛んでいった。
まどろみの中で、雨がやんでいた。
白いレースのカーテン越しに、真っ白い朝日が差し込んでいる。
光の中で、麗ちゃんが涙を流していた。
ベッドの上に半身を起こして、私に背を向けて、肩を震わせて、窓のほうを虚ろに眺めながら、少女みたいにぽつぽつと涙を流し続けている。
「……麗ちゃん?」
声をかけると、びっくりしたように振り向いた。大きな目から綺麗な涙が流れていた。泣いている子供を見つけたように、私は彼女の身体を抱き締めてあげたくなった。それを振り払うように麗ちゃんは、唇を噛んで顔を笑わせると、明るい声で言った。
「朝ごはん、しよっか?」
昨夜の食べ残しの唐揚げと卵ごはんと納豆を、緑色の小さなテーブルを挟んでもくもくと食べた。涙の理由は聞けなかった。麗ちゃんも何も話さなかった。
「……ペチュニア、枯れちゃったかな」
ふいに思い出したように麗ちゃんが言った。
「まぁ……、もう長いことずっと咲いてたから、思い残すことはないわよね」
私は花のことは詳しくない。そんなに雨に弱いのだろうか。確かに昨夜はよく降った。
「よく眠ってたわね」
くすっと笑い、麗ちゃんが私を見つめる。
「寝顔を見てたら4歳ぐらいの頃のあんた思い出しちゃった」
それからの23年間で私が変わったようには、麗ちゃんは変わってないように見える。それでも心に降り積もったものはたくさんあるのだろう。さっきの涙は、そんなものが溢れ出したもののように思えた。
「また来るね」
「またいらっしゃい」
そんな言葉を笑顔で交わし、麗ちゃんの家の玄関の扉を開けて、外へ出た。
小さな門を潜る時、その脇に置かれた白い陶製のプランターの中で、シックな白のペチュニアは、銀色の露をたくさん乗せて、まるで泣きながら微笑むように、キラキラと咲き誇ったまま、明るく私を見送ってくれた。
日置槐さま、お題をありがとうございましたm(_ _)m