仏説仏名經卷第八 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
寶達は、さらに進んだ。眼下に、鉄壁に囲まれた地獄が広がっている。縦横五十由旬というその地獄の門前には銅狗が炎を吐き、城壁の四隅には毒蛇が口を開けていた。
「菩薩様、沙門地獄の第七、抜舌地獄に御座います。」
鬼王が言った。
寶達は静かに頷いた。
「ただ今獄卒等が、北門から五百人ばかりの罪ある沙門どもを、地獄へ追い込んでおります。」
目を転じると、北門の辺りは蜂の巣を突付いたような騒ぎである。逃げ惑う沙門達、彼らを鉄棒を振り上げて追い立てる馬頭羅刹たち。怒号と悲鳴が響く。ひとりひとりは見えないものの、皆恐ろしさに顔をゆがめているのだろう。
その様を、寶達は哀しい気持ちで見つめた――
彼は怯えた顔を上げて、あたりを見回した。今彼は、恐ろしげな羅刹に追われて歩いている。彼の周りにも大勢の沙門達がいた。皆素裸で、怯えた様子で追われてゆく。行く先は地獄であると、誰もが思っているに違いなかった。
「まったく、なぜ――」
彼は苛々と周りに目を走らせ、呟く。焦燥感が身を焼いていた。
確かに彼は、少しばかり不和の種を蒔いたかもしれないが、このようなところへ連れてこられるとは、夢にも思ってはいなかった。
ざわり、と、辺りがざわめく。彼は目を上げた。
目の前に、地獄の城壁が迫っていた。
堅固な鉄の城壁は高く長く、どれほどの広さか知れない。とても乗り越えられはしないだろうが、城壁の上には鉄の網が掛けられ、乗り越えようとするものを阻んでいた。
さらに近づくと、聳える門が見えた。あの門から地獄へと入れられるのかと思うと身が震えたが、それよりも恐ろしいのは、門の前にどっかりと座った巨大な銅の狗だった。身体が赤銅に光り、ぎらぎらとした鋭い牙の覗く口からは時折り炎が吹き出している。
恐怖に思わず足を止めようとしたとき、ギリギリと音を立てて鉄の門が開けられた。
中の様子を窺い見た沙門達が、悲鳴を上げた。門の内から炎が溢れ出し、鉄の門を叩いている。
なぜ、なぜこんなところへ来てしまったのか――
馬頭羅刹たちの怒号が響き、何人かの沙門達が、悲鳴を上げながら地獄へと追い込まれて行った。
傍らでは、怯え竦んで門へと進もうとしない沙門達が、鉄棒で打ち据えられて声も無く倒れる。倒れた沙門にたちまち餓鬼や狗が喰らいつくのを、彼は恐怖に目を見開きただ茫然と見つめていた。
立ち竦む彼を、馬頭羅刹が手にした鉄棒で小突く。
追い立てられるままに、彼はふらふらと地獄の門をくぐって行った――
追われてくる沙門達を、彼は鷲摑みにした。
獄卒夜叉に捕らわれた沙門が悲鳴を上げる。もっともこれが悲鳴の上げ納めである。あたりには沙門達の呻吟する声が満ちているが、悲鳴も絶叫も聞こえてはこない。
それもそのはずで、沙門達は舌を長大に引き伸ばされ身動きもならず、呻いているのだ。
ぐい、と夜叉である彼は、手にした鉄鉤で捕らえた沙門の舌を引きずり出す。耐え難い苦痛に呻く沙門の舌を、かまわずぐいぐいと抜けんばかりに引き出し、押し広げてゆく。あっという間に舌は地獄中を覆わんばかりに広がった。無造作に手を離すと、沙門は地に伏した。身動きもならず、声も上げられない。ただ、呻くばかりである。
すべての沙門どもが地に伏したのを見届けて、彼は鉄鋤をとる。すでに何が起こるか知っている者は、怯え、涙を流しながら呻き騒ぐ。哀願の言葉さえ、沙門どもは口にすることはできない。ただ、呻くのが精一杯なのだ。彼もまた、無言で鋤を振るう。沙門達の引き広げられた舌に鋤が入り、血が流れ、血の中から炎が起こる。ずたずたになった舌が焼かれて、呻吟する声が辺りに満ちる。
やがて沙門どもの舌は鉄斧に刻まれ、刻まれた舌の山ができる。そうしてようやく死ぬことを許された彼らは、たちまちの内に生き返り、再び痛苦に呻くのだ。
哀れと思わぬこともないが、相応しき罰であろう。
誹謗、中傷、悪罵、両舌。
いずれ沙門に相応しからざる口舌の罪を犯した者どもである。弁解など聞く気にもならない。
再び生き返った沙門どもが、呻き声を上げ始める。
彼は、再び鉄鋤を取った――
「――静かなものでございましょう。あの者どもは、ああして言葉もなく一日一夜に無量の苦を受け、千万回も生死を繰り返します。」
地獄の様を見渡して、鬼王が言った。
その言の通り、門前ではあれほど騒がしかった者達が、今は声もなく呻吟していた。
寶達は、悲しげにその様を見つめ、問うた。
「なぜ、彼らはあのような罰を受けるのでしょう。」
馬頭羅刹が答えた。
「この地獄の罪人達は、仏の浄戒を受けながらそれを守らず、両舌を使い、他人を悪罵誹謗し、偽りを伝えて良善を貶め、また他人を呪詛した者どもです。千万劫を経るともこの地獄を脱する機会はなく、もしもいずれここから脱することができたとしても、常に鸚鵡などの畜生に生まれ、人声を発することができても他人の言葉を聞き理解することができません。さらに人に生まれることができても、百生、千生も唖となり、また口が常に悪臭を発することとなりましょう。」
寶達は、ぽつりと涙を落とした。
「邪見の道に入ってしまうということは、なんと悲しいことなのでしょう。迷いに溺れ、無知に惑い、解脱を得てなお再び邪な思いに帰るとは。出家したものがどうしてつくりごとを説くのでしょう。」
悲しげに呟く寶達に、鬼王が言う。
「己の利に捕らわれてしまったのでしょう。人の世のことは我等には知れませぬが、利とは人を惑わすものです。欲を切り捨てることは難しく、そのためにここへ堕ちてくる者が数多くおります。」
寶達は、一層悲しげな顔をした。
「参りましょう――」
鬼王が云うと、寶達は悲しげに頷き、この地獄を後にした。