仏説仏名經卷第五 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
寶達は鬼王に伴われ、さらに次の地獄へと足を踏み入れた。
「寶達菩薩様、これが流火地獄にございます。」
憂いに沈んだままの寶達に、鬼王が遠慮がちに声を掛ける。
「縦横二百由旬、ご覧の通り周囲を鉄の城壁、鉄の網が覆い――」
ふと寶達の方を見て、鬼王は言葉を止めた。
項垂れた寶達の目が、深い悲しみを湛えている。
「寶達菩薩様。」
鬼王は言う。
「これ以上、ご覧になられぬほうがよろしいのでは御座いませんか――」
しかし、寶達は静かに首を横に振った。
「私は、知らねばならないのでしょう。世尊は私に、世尊がお憂いになる理由が知りたければこの地に赴き、彼らの苦しみを目にし、彼らの苦しみの理由を聞けと仰いました。私はまだ無量の地獄を僅かに一部覗き見たに過ぎません。まだ、私には知らねばならないことが多く残っています。」
きっぱりとした寶達の言葉に、鬼王は自分の言動に恥じ入った。
「――大変失礼致しました。」
恐縮する鬼王に、寶達は慌てる。
「私のほうこそ、ご案内いただいているというのに失礼を致しました。どうぞ、続きをお聞かせ下さい。」
促され、鬼王は言葉を継いだ。
「――御覧の通り、流火地獄は厳重に周囲を囲まれ、内部は猛火が流れ渦巻いております。今、西門に六百人の罪人どもが、大声で泣き叫んでいる様がご覧になれますでしょうか――」
問われて寶達は西門に目を向ける。いずれも沙門と見える薄汚れた者たちが、獄卒に追われて泣き叫んでいた。
「私が一体何をしたというのです――」
薄汚れた沙門どもが叫ぶ。
「――恥を知れ!」
彼は縋り付いて許しを乞う沙門をそう怒鳴りつけると、手にした利刀でその頭を一閃の元に切り落とした。
物も言わずに倒れる沙門を、馬頭羅刹である彼は、苦々しげに見下ろす。日毎地獄へ堕ちてくる恥を知らぬ沙門達に、彼は些かうんざりしていた。
「ぎゃあああっ。」
向こうで苦しげな悲鳴が上がる。
渦巻く炎の流れの中で、獄卒達が薄汚い沙門どもを洗っているのだ。手足を捉えて炎の流れに浸すと、火が沙門どもの身に流れ注ぎその身体は焼け爛れて、痛みに泣き叫ぶ。
――恥知らずどもには相応の苦しみであろう。
彼はそう思う。この沙門どもは、形こそそれらしき姿をしているが、不浄の者どもであるのだ。人々から口を漱ぐ楊子や沐浴の香湯を施されてもそれを使うこともなく、不浄で自堕落な生活を送り、ただ生きるために世間を乞食して回る――形ばかり沙門に似る恥知らずである。
足元を見ると、先ほど切り捨てた沙門の体に餓鬼や餓狗が取り付いて肉を齧り、鳥がその髄を啄んでいる。不浄の身も飢えたものには御馳走らしい。
馬頭羅刹は顔をしかめてこれらを追い、手にした刀の先で地を突き、命ずる。
「活きよ――」
忽ち沙門は元の姿に戻り、その死肉を貪っていたものたちが残念そうに散ってゆく。
「お許し下さい――」
震えながら哀願するのを無視して、彼は沙門を捉え渦巻く炎の中に投げ入れる。汚れた身を炎に洗われ、沙門が悲鳴を上げた――
「なんと惨いさまであることか――」
炎の中で身を爛らせ、泣き叫びながら生死を繰り返す沙門達の様を悲しげに見つめ、寶達は呟く。
「彼らは、このような苦しみを受けるどんな理由があるのでしょうか?」
寶達の言葉に、鬼王が傍らに立つ馬頭羅刹を見遣る。
「――彼らは沙門にありながら自堕落で浄戒を犯し、沙門とは名ばかりの不浄の身で、世間を歩き回っておりました。そのため、この地獄へ堕ち、浄火によってその身を洗っております。一日一夜に幾度もその身を炎に浸し、千死千生、万死万生してその身を浄化しております。」
馬頭羅刹の言葉に寶達は項垂れる。
「――何故、彼らは解脱の道に入りながら再び牢獄の中に還って行くのでしょう。何故生死を離れた境地に至りながら三悪道へと戻り来るのか。暗闇の中の浮木のような仏法に遭い、ようやく明かりが見えたというのに、どうしてまた再び暗闇の中に還って行くのでしょう。彼らとて沙門の身であれば、浄行を行い解脱したはずの者達ではありませんか――」
寶達の嘆く声が静かに響いた。
鬼王も馬頭羅刹達も目を伏せ、流火地獄を去った。