仏説仏名經卷第三十 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
高い、楼閣の上に、寶達は立っていた。
眼下には、沢山の地獄が広がっている。
「このように、地獄は無量にございます。」
馬頭羅刹が言った。
「もしここに沙門があって、不浄の履物で清浄な香室を踏みつけるなら、その沙門は鉄[金*疾][金*離]地獄に堕ちます。心に怒りを持ち、悪念を持って師に手を上げれば燃手脚地獄に、悪言を発して師を罵れば銅狗地獄に堕ちるでしょう。また、心に慈悲のない沙門があって、生き物を煮て食べれば鉄山地獄に堕ちます。」
「寶達様――」
鬼王が言う。
「罪の報いは皆このように、確実にやってくるのです。」
寶達は、涙を流した。
地獄という世界。そして、仏の浄戒を受けたはずの沙門達が、これほど沢山ここへ堕ちてくるという事実。
寶達が知らなかっただけで、世は憂いと悲しみに満ちていたのだ――
寶達は悲しみに打ち震えながら、世尊の待つ摩竭道場へと戻った。
世尊は、変わらず憂いを湛えたまま、静かに座っていた。逸る心を抑えて寶達は世尊を礼拝し、その前に立った。
「世尊――」
涙を流したまま立ち尽くす寶達を、世尊は静かに見つめている。
「世尊、私は――地獄を見ました。」
きっぱりと言う寶達に、集う衆生がざわめく。
「この東方の、鉄囲山の間には、無量の地獄があって――」
そう言うと、沙門達の苦しむ様が、脳裏にありありとよみがえり、寶達は言葉を切る。
「世尊、私は――」
堰を切ったように、寶達の瞳から涙が溢れ出した。
「私は――彼らを救うために、なにができるのでしょう――」
寶達は、泣き伏す。
己の無知さに、己の無力さに、滂沱の涙を流す。
世尊は悪行の沙門達を憂いていたのではない。その現状を知らず、地獄という世界を知らず、苦報を知らず、悲しみを知らない寶達等衆生をこそ、世尊は憂いていたのだ――
摩竭道場へ集う、すべての衆生がざわめく。
彼らの多くも、寶達同様、悲しみを知らない。
長い間、世尊は悲しみ泣く寶達を、静かに見つめていた。そして、寶達の涙が枯れるころ、静かに言った。
「寶達よ。」
ざわめきが、引いてゆく。
「寶達よ。私の憂いの理由が解ったか。」
「はい――」
答える寶達に、世尊は静かに頷いて言った。
「ならば寶達よ、お前はお前の神通力をもって、彼らを悉く救うことができるだろう。」
寶達は、困惑して世尊を見上げる。
「世尊――わたくしには、その力がないのです。」
悲しげに項垂れる寶達を、世尊は笑う。
「寶達よ。お前はすでに立派な神通力を持っているではないか。お前は地獄へ赴き、法を説くがいい。罪を知り、苦報を知り、憂いを知り、悲しみを知ったお前の言葉は、彼らに届くだろう。法を聞き、法を知る者は皆救われる。地獄の苦悩は消え去り、やがて彼らは、悉く救われるであろう。」
そう言うと、世尊は驚く寶達に微笑みかけて、立ち上がった。その顔からは憂いが消えている。
「寶達よ、ともに往こう。私は彼らに法を説き、道を得させよう。ここに集うものたちよ、皆ともに来て見るがよい。」
世尊がそういうと、一同はすでに地獄に立っていた。地獄を治める三十六王が、唖然として彼らを迎える。
寶達は、眼下の地獄を見渡す。そこには、相変わらず苦悩に喘ぐ沙門達がひしめいていた。
「王方、そして罪人達よ。」
寶達は、見違えるように憂いのない顔で語りかける。
「今ここに、三界に尊き御方がおいでになられました。その大悲は普く一切を照らし、三界に届かぬところはない御方、世尊がここにおいでです。」
おお、と大地がざわめいた。
王達も、夜叉羅刹の獄卒達も、苦悩に喘ぐ沙門達でさえ、皆その言葉を聞いて顔を上げ、光り輝く世尊の姿を見た。驚きのざわめきは、やがて歓喜のどよめきに変わった。
寶達の心にも喜びがあふれ、笑みがこぼれる。
世尊は傍らの寶達を見つめ、静かに微笑んだ。
「誰も皆、隔てなく集うがよい。」
世尊の言葉に、その場の誰もが世尊と、そして寶達に向かった。
地獄はすでに、苦悩の地ではなくなり、その場に集うすべての者が、心安らかに世尊の説く法を聞き、悟りへの道を得た。
安らかな笑顔が並んでいるのを、寶達は見た。その中には、鬼王の顔も、馬頭羅刹達の顔もある。これは、始りに過ぎないのだろう。しかし、彼らを見つめる寶達の顔もまた、安らかであった。
経典は伝える。
この時、二万の比丘が阿羅漢道を得、五千の比丘尼が須陀洹果を得、六千の王子は法眼浄を得、八百の女人は三禅心を得、天龍、鬼神さえも喜ばぬものはなく去ったと。