仏説仏名經卷第二十九 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
「飛火叫喚分頭地獄でございます。」
鬼王が告げた。
寶達は、その地獄を見下ろしている。縦横六十由旬、鉄城、鉄網で囲まれた地獄の中では、沙門たちが右往左往して逃げ惑っていた。
「御覧下さい、寶達様。」
鬼王が東の門を指す。
そこには、沙門達がひしめいていた。
「三万六千人の沙門が、新たに地獄へ入るようでございます。」
寶達は、痛ましげに息を呑む。
「これほど沢山の沙門達が――」
鬼王が静かに肯く。
悲しげに見つめる寶達の前で、東門の堅固な鉄の門扉が、音を立てて開いていった――
その沙門は恐ろしさに震えていた。
後ろから、馬頭羅刹達が「進め」と叫ぶ恐ろしい声が響いてくる。前を見れば、大きく開かれた厳めしい門の中に炎が燃え盛るのが見え、喚き叫び、助けを求める叫喚の声が聞こえていた。
なぜ、わたしが――
彼は、こぼれそうになる涙を堪えながら呟く。沙門として、それなりに戒を守って生きてきたつもりだった。それなのに、なぜ――
いつの間にか、恐ろしげな顔をした馬頭羅刹が、彼のすぐ後ろに迫っていた。
「往け。」
雷のような声が、彼に浴びせられる。
恐ろしさに、思わずひいっと咽喉が鳴った。足が震え、前に進むことができない。
馬頭羅刹が手にした鉄棒を振り上げる。
「慈悲を――」
沙門は、震える足を前に進めようともがいた。
「往けっ。」
声と共に、馬頭羅刹の鉄棒が振り下ろされる。背をしたたかに打たれ、息が詰まって、彼は声もなく地面に倒れた。起き上がる間もなく、無慈悲な足が幾度も蹴りつける――
気がつくと、彼は大きく開いた門の前に立っていた。門の奥には、地獄が広がっている。
恐怖に駆られ、彼は背後の馬頭羅刹を振り仰ぐ。そして、恐ろしさに涙を流しながら、問う。
「なぜ、わたしが――」
問いかける彼を、無慈悲な馬頭羅刹が、無言で睨み付けていた――
なぜ、と問う沙門を、馬頭羅刹である彼は無言で睨み付けた。
ここに来る罪人どもは、戯れに禽獣を痛め傷つけ、羽や毛を毟り抜いたものどもだ。おそらくはこの沙門とて、たかが禽獣と戯れに痛めつけ、戯れのこととて覚えてさえいないのだろう。
無慈悲な者にかける慈悲はない――
彼は沙門を地獄の門へと追い立てた。沙門は諦めたか、よろめき歩いて門をくぐる。彼もまた、沙門を追って門をくぐった。
悲鳴が、響いた。沙門の悲鳴である。
地獄の地面は鋭い鉄棘に覆われている。両足を貫かれ悲鳴を上げて立ち尽くす沙門は、しかしすぐに叫び喚きながら走り出す。
沙門に、飛火がまとわりつき、その身を焼いている。ふわり、ふわりと飛び来る火は、まるで戯れるかのように、あるいはその目から入り、口から出る。東に走れば東へ回り、西に馳せれば元に返って顔を焼く。
炎に弄られ、泣き叫ぶ沙門の様をしばらく眺め、馬頭羅刹は逃げ惑う沙門の頭を、ぐいと捕らえる。死の間際剃髪も儘ならなかったのか、その頭には少しばかり毛が伸びかけている。
怯えた目を向ける沙門を、冷たく睨んで、馬頭羅刹はまだ短いその頭髪を、両手で一息に毟り取った。
ぎゃあああっ――
沙門が叫ぶ。
皮毛が剥け、血が流れ出る――
苦痛にうずくまる沙門に、馬頭羅刹は背を向けた。血の臭いに誘われた狗や餓鬼が、集まって来る。沙門はすぐに彼らに喰われてしまうだろう。
戯れに傷つけられ、羽を毟られた禽獣も、いずれ同じような運命であったかもしれない。
背後では、沙門の叫び声が、まだ響いていた――
餓鬼や狗が、沙門達に群がる様を見た寶達は、沈痛な面持ちで、静かに目を閉じた。
「哀れなものです。」
鬼王がぽつりと言う。
「彼らは一日一夜にあのような、例えようのない罰を受けます。無論、死にたくても死ねず、千万劫を経ても、報いを受け終わることがないでしょう。この後、地獄を出ることがあっても、常に畜生の身となって苦しむのです。」
「畜生に――」
寶達が、目を上げる。
「彼らは、一体何をしたのでしょう。」
悲しげな寶達の言葉に、馬頭羅刹が答える。
「お答えいたします。この罪人どもは、仏の禁戒を受け沙門となりながら、その心に真の慈悲を持たず、楽しみのために禽獣の毛を抜き、傷つけるなど慈しみの心を持たなかった者どもでございます。この者どもにはほんの戯れでも、捕らわれたものは恐れ怯え、生きた心地もしなかったことでございましょう。そのようなことを思いやることもなく、慈しみの心を持たぬことを恥じる気持ちもない者でしたので、今この地獄に堕ち苦しみを受けているのです。」
「――自業自得、ですか。」
寶達が、悲しげに呟く。
鬼王は静かに、はい、と答えた。
寶達の頬を涙が濡らした。寶達は、静かにその地を去った。