仏説仏名經卷第二十七 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
地獄を見下ろし、寶達は思わず耳を塞いだ。
「業風の音にございます。」
鬼王が寶達の耳元に口を寄せて言った。
崩埋地獄、と鬼王が告げたその地獄は、縦横四十九由旬、周囲を囲む鉄城の四隅には、金剛の山が聳え、ごうごうと凄まじい音を響かせて、豪風が吹き荒れている。
しかし、聞こえるのは風の音ばかりではない。業風に吹かれた金剛の山ががらがらと崩れる音、山中からごうごうと炎の吹き出す音、空中を乱れ飛ぶ鉄棘が打ち合わさる音、そして、地獄の中央にどっかりと身を据えた四頭の大きな鉄狗が、逃げ惑う沙門達に吠え掛かる声――。他の地獄では陰々と響いていた罪人達の泣き叫ぶ声が、聞こえないほどにそれらの音が鳴り響いていた。
音の洪水を分けるようにして、寶達は地獄を見遣る。そこには、逃げ惑う沙門達の姿があった――
馬頭羅刹に鉄棒で頭を小突かれて、その沙門は地獄の中へと押し込まれた。
彼は知る由もなかったが、彼が放り込まれた西門には三千人の罪を犯した沙門達が集められ、彼とともに地獄へと押し込まれていた。
獄卒たちに追われる彼らには、後を振り返る余裕はなかったが、背後から門の閉じる音が、鳴り響く轟音に混じって微かに聞こえた。
空に、業風が渦巻いている。
比喩ではない、砕けた金剛の欠片が隙間なく空を覆い、渦を見せているのだ。空には鉄棘、利刀が飛び交って、山から吹き上がる炎に熱せられ、金剛の欠片とともに彼らの上に容赦なく降り注ぐ。
身を切り裂く苦痛と恐怖に耐えかね、彼は泣き叫ぶ。
「なぜ、このような――」
馬頭羅刹が彼を小突く。
「心当たりがないと言うか。」
思わず彼は、身を竦める。彼には罰を受けるだけの心当たりがあった。それだけに、恐ろしい――
凄まじい咆哮が聞こえた。
沢山の沙門達が、我先に逃げ出してくる。
彼は、彼らの後ろを透かしてみる。大きな鉄の狗が、炎を吐きながら、逃げる沙門達を追っていた。
彼は恐怖に震えて走り出す。獄卒の怒号も耳には入らなかった。あの鉄の狗は、罪ある沙門などひと呑みにしてしまうことだろう。いや、ひと呑みならばまだしも、喰いちぎられる苦痛にはとても耐えられはしない。
大勢の、無数の沙門達が四方へと走り散っていくのを、寶達は見ていた。不思議なことに、獄卒の馬頭羅刹等も、彼らを止めようとはしない。
沙門達が、四方の山陰に走りこんだと思った瞬間、轟音が轟いた。寶達は、目を覆う。金剛の山が、罪人達に向かって崩れ落ちていた――
「寶達様――」
耳を塞ぎ目を覆う寶達の耳元で、鬼王は気遣わしげに呼びかけた。轟く音の中で、それでも鬼王の声が聞こえたのか、寶達は顔を上げる。
「寶達様、これが崩埋地獄でございます。御覧下さい、罪人どもは金剛の山に押しつぶされ、微塵に砕けて消え失せてしまいます。しかし――」
崩落が納まった地獄の中には、獄卒夜叉達だけが動いていた。業風も今は止んで、地獄は静寂に包まれている。
「活!」
夜叉の声が響いた。
同時に、手にした鉄棒で地を突く。
「これは――」
寶達は目を見張る。
金剛の山は、見る間に元に帰り、その下敷きになって潰れた罪人たちも、たちまち生き返り立ち上がる。いつの間にか、再び業風が空を覆い、辺りは轟音に包まれていた――
「彼らは、一日一夜に無量の罰を受け、幾度でも生き返ります。この苦しみ、痛みは例えようもありません。死にたくとも死ぬことを許されないのです。」
鬼王が、地獄を見下ろして言った。
寶達は、悲しみに項垂れる。
「彼らは、なぜ、このような地獄に堕ち来ることになったのです。」
馬頭羅刹が答える。
「はい、寶達様。彼らは、苦行の心を持たず、福田を求めたためにこの地獄へ堕ちました。豪族に寄り添い、官勢を頼みとし、賢人を侮り、貧賎を侮蔑する。あるいは他人の財宝を無理やり奪い、あるいは他人の家屋敷、資産を詐取するなど、沙門にあるまじき罪を犯し、心に恥じなかったために、今この苦を受けているのでございます。今後、百生千生もこの地獄を出ることはないでしょう。また、後にもしこの地獄を逃れることができたとしても、地下の賤しきものと生まれ、仏の正法を聞くことができません。」
――自業自得にございます。
鬼王が呟くのを、寶達は悲しみに満ちた心で聞いた。
寶達は涙を流しながら、地獄を見下ろし、この地を去った。