仏説仏名經卷第二 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
鬼王に伴われ、寶達はいよいよ地獄へと入って行った。鬼王は寶達を高い楼閣へと案内し、寶達はそこから最初の地獄を見下ろした。
これが地獄というものかと、寶達は息を呑んだ。
高い鉄の城壁に囲まれたそこは、燃え盛る炎に赤く照らされている。城壁には、四方に鉄の門が備えられており、その四方の門前には大勢の罪人達が集められ、号叫していた。城壁の中には炎に包まれた鉄車、炎を纏った鉄の猛牛、猛馬、猛驢が、猛り狂って罪人達を待ち構えている――。
「寶達菩薩様。」
地獄の有様に目を見張る寶達に、鬼王が声をかけた。
「これが、三十二沙門地獄の一、鉄車鉄馬鉄牛鉄驢地獄にございます。聳える城壁は高さ一由旬、周囲十五由旬の地獄を囲んでおります。地獄を囲む城壁の出入り口は東西南北にひとつずつ。一度この門から中に入れば、何人たりとも許しを得ずに門を出ることはできません。」
「なんというところでしょう――」
寶達は悲しみに眉根を寄せた――。
「寶達菩薩様、北門を御覧下さい。」
鬼王の言葉に、寶達は北門に目を遣った。
その時北門が開かれ、北門に集められた沙門達の泣き叫ぶ声が、辺りに大きく響いた。
北門を開けよ――。
命令を耳にして、北門を守る馬頭羅刹は鉄の門扉をゆっくりと開けた。
門前には五百人の沙門が集められているが、どうせ急いで開けたところで、沙門達がなだれ込んで来るわけではない。彼らは恐れおびえ、地獄に堕ちるその時を、一刻でも先に延ばしたいと尻込みするのだ――。
「なぜわたくしが、このような苦を受けねばならぬのでしょう――」
「わたくしは沙門の身にございます、どうしてこのような苦を受けるような悪事を働きましょう――お許し下さい。」
沙門達の泣き叫ぶ声が響く。
――何をか況や。
馬頭羅刹である彼はそう思う。彼らは沙門の身でありながら、戒律を犯したためにこの地に送られて来たのだ。言わば沙門の身であればこそ、苦を受けるのである――。
北門の門前に集められた沙門達は、怯えて泣くばかりで進もうとしない。彼らを囲む馬頭羅刹、夜叉などの地獄の獄卒達は、手にした得物を振り上げて門の中へと追い込み始めた。
「いやです、いやです。」
鉄棒で追い込もうとすると、ひとりの沙門がしゃがみ込んで動こうとしなくなった。次々と、周りの沙門達がしゃがみ込み、なんとか門の中へ押し込まれまいと地に伏す。
馬頭羅刹は黙って三鈷を手に取った。
こうした時は、門を入らねばもっと恐ろしい目に遭うのだと分からせるしかない。
彼は、初めに座り込んだ沙門に向かって三鈷を振り上げ、その背に振り下ろした。三鈷の先が沙門の腹へと貫け通る。
沙門達の間から悲鳴が上がった。
幾人かの獄卒たちが、悲鳴を上げる沙門達をあるいは燃え上がる鉄の縄で縛り上げ、あるいは焼けた鉄の首枷を嵌めて引く。しかし怯えた沙門達は進もうとせず、かえってその場に座り込んでしまう。
馬頭羅刹は、三鈷に貫かれてもがいている沙門に向かって鉄棒を振り上げる。ぐしゃりと無造作にその頭を打ち砕くと、沙門達の悲鳴が止まった。
さらにその沙門の身体をぐしゃぐしゃと微塵に砕いてみせる。沙門達は恐怖に目を見開き、目を閉じることもできずにその有様を見ていた。
「――進め。」
馬頭羅刹が、見つめる沙門達に向かって鉄棒を振り上げて見せると、彼らはふらふらと門をくぐり始めた。すすり泣く声が時折り聞こえたが、泣き叫ぶものはもう、なかった。
やがて、門前の沙門達は皆地獄へと入って行った。後には、打ち潰された沙門だけが骸をさらしている。骸には餓鬼や餓狗が取り付き、肉をかじり血を舐め始めていた。
馬頭羅刹は沙門の骸に目を遣り、命ずる。
――活きよ。
命ずると、打ち潰された沙門はたちまちもとの姿に戻り、生き返った。
辺りを見回し、自分の身を見回して、がたがたと震えている沙門を門の中へと追い込んで、馬頭羅刹は鉄の門扉を閉じ、重い閂を掛けた。
がしゃりという音が響き、彼は振り返った。
既に門は堅く閉じられている。とうとう彼は、地獄へ堕ちたのだ――。
彼は、若い頃に仏道を志して出家し、ある時までは真面目に修行してきた。後わずかで、悟りに至るほどの沙門であったのだ。
しかし、彼の名が知れるようになると、彼には沢山の信施が施されるようになり、高位の人々から呼ばれることも多くなった。そうして彼は、沙門の分を忘れたのだ――。彼は立派な車に乗り、牛馬や驢馬を所有して、沙門でありながら裕福な生活を送った。仏の戒を破った沙門は既に沙門ではない。そのことを自覚しながら、彼は人々の信施を受け続け、贅沢を続けた。
その結果がこれである――
びくびくと辺りを見回した彼は、思わず悲鳴を上げた。炎に包まれた猛牛が引く車が彼の方へと迫って来たのだ。猛牛は地を踏み鳴らして吼え彼に向かって突進してくる。
逃げる間もなく、彼は頭を抱えてしゃがみ込んだ。ぶつかると思った瞬間、しかし彼の身体は羅刹の鉄棒によって跳ね飛ばされる。跳ね上げられた身体が焼け爛れた車の上に落ち、転げて牛の背へと落ちた。鉄牛の背中は鋭い毛で覆われ、炎を吹き上げている。うつ伏せに落ちた彼の腹から背中へと、鋭い鉄の毛が突き抜けた。
声も出せずにもだえ苦しむ彼を、鉄牛は再び跳ね上げる。衝撃と共に、彼の身体は鉄馬の背へと落ちた。鉄馬の背には、鋭い毛が上を向いて彼を待ち受けていた。再び全身に走る痛苦に、彼は呻き声を上げる。彼の呻きを聞いて、鉄馬は鋒のような尾を振った。声を上げる間もなく、彼の身体は鉄馬の尾に切り砕かれて、粉々に砕け散った。
その身が切り砕かれ、粉々に散ってゆく恐怖と苦痛を感じながら、彼はまた幾分かほっとしていた。この苦痛に耐えれば、微塵となった身体はもう苦しみを感じることはないだろうと思ったからだ。――しかし、彼の身体が苦痛を感じなくなったと思った瞬間、砕けた身体はたちまち元に戻り、彼は活き返っていた。
「――― !」
彼は茫然と元に戻った自分の身体を見回す。
茫然と立ちすくむ彼を、しかし鉄馬が容赦なく蹴り付け、彼は再び微塵に蹴り砕かれて、たちまちに元に戻される――。
――死ねぬのだ。
そのことに気がつき、彼は身体の芯が凍りつくような恐怖に身を震わせた。
どれほどの苦痛にのたうち、その身が砕け散ろうと、焼け失せようと、彼は死ぬことを許されないのだ。活きていることが苦痛でしかないこの地獄で、死ねないことはこの上ない恐怖である。
彼はぼんやりと顔を上げた。目の前に、炎に包まれた驢馬が、怒り狂って迫っている。
「――たすけてくれ。」
呟く彼を、鉄の驢馬が無情に踏みつける。
踏み砕かれながら彼は、己のしてきたことを後悔して涙を流した――。
「いかがでございますか、寶達菩薩様。」
鬼王の言葉に、地獄の有様をじっと見つめていた寶達は、悲しみに満ちた顔を上げた。
「惨いこととお思いになられるでしょうが、すべては彼らの悪業故にございます。お心をお痛めなさいますな。」
鬼王が言ったが、寶達は悲しみの表情を浮かべたままだった。
「寶達菩薩様、こちらに獄卒の馬頭羅刹を呼んでおりますが、何かお尋ねになりますか?」
見ると、馬頭の羅刹が、寶達の前に控えていた。
寶達は、羅刹に尋ねた。
「羅刹よ、この地獄に堕ちている沙門達は、一体何をしたのでしょう。何故、このような苦しみを受けなければならないのですか。」
羅刹が答えた。
「菩薩様に申し上げます。この沙門どもは仏の戒を受けながら、今日のこの苦しみを思わず、ただ一時の喜びのみに溺れて戒を忘れた者たちにございます。浄戒を犯し、不浄の財を蓄え、車に乗り、牛を使い、馬に騎り、驢馬に荷を負わせて贅沢をし、心には慈しみの心がなく、沙門が守るべき威儀を正さず、すでに沙門とはいえぬような生活をしながら、沙門のごとく人々の信施を受けるという悪因のために、今この地獄に堕ち、百千萬劫に渡って苦しみ続けねばなりません。」
「百千萬劫――、その後はどうなるのです?」
「たとえ人身を得たとしても、五体は不具となり、三宝を目にすることは叶わず、正法を聞くことができないでしょう。」
羅刹の言葉に、寶達は涙を流した。
「どうして沙門達は三界を出でて悟りにつくことができないのでしょう――なぜ、このような罰を受けねばならないほどの悪業をつくってしまったのか――。」
嘆く寶達に鬼王が声をかける。
「寶達菩薩様、このような沙門達が、ここには沢山おります。どうぞ得心が行くまで地獄をお巡り下さい。」
鬼王に促され、寶達は涙を浮かべながら鉄車鉄牛鉄馬鉄驢馬地獄を後にした。