仏説仏名經卷第十九 大乗蓮華寶達問答報応沙門経
悪臭が、辺りに立ち込めている。
寶達は、思わず袖で顔を覆った。
「菩薩様のような清浄な方には、御身を汚すようで申し訳御座いませんが――」
鬼王が眼下に見下ろす地獄を指して言った。
「ここは、沸屎地獄と申します。縦横に流れる河は、糞泥を集めたものでございます。」
その不浄さに、寶達は顔を顰める。
縦横六十由旬、鉄城、鉄網に囲まれたその地獄の中は、どろどろとした汚泥に覆われ、その汚泥の中を糞泥の河が縦横に貫いていた。
臭気に耐え、寶達は顔を上げる。
眼下には惨い光景が広がっていた。
北門に、大勢の沙門達が集められていた。
当の沙門達にはあずかり知らぬことであるが、その数は六百人。彼らは城門から漏れ出す臭気に顔を顰め、不安げに身を寄せている。
ゆっくりと、地獄の北門が開かれると、流れ出す臭気に、沙門達は手で顔を覆った。獄卒達の怒号が響く。
今、ひとりの沙門が門を潜った。
地獄の中へと足を踏み入れると、立ち込める臭気はますます強くなり、目や咽喉が焼けるように痛んだ。足元が、べたついている。
それでも、追われるまま、足を止めることもできず、彼は不安げに歩を進める。そして、やがてこの悪臭の元となっているものが、彼の目に見えた。
どろどろと流れ下る河が、彼らの行く手を遮っている。流れているものは、思わず目を覆いたくなるような糞泥だった。糞泥の河は、その汚い川面からちろちろと炎を吹き上げながら流れてゆく。ごぼりごぼりと泡が上がるのは、その糞泥が沸き返っているのだと気がつき、彼は恐ろしさに青ざめた。
なにしろ、その河の中には、沢山の沙門達が首まで糞泥に浸けられて、溺れもがいているのだ。もがく沙門達は、水面から少しでも上に上がろうと伸び上がり、時折りずぶりと沈んでは、再び頭を出して飲み込んだ糞泥を吐き出している。
「あああ……」
彼は恐ろしさに呻いた。
川岸から、次々と叫び声が上がる。
どぶり、どぶりと音がして、沙門達が次々に糞泥の中に突き落とされる。
沢山の悲鳴が響き、あっと思う間もなく、彼は馬頭羅刹の手に掴み上げられる。
「なぜわたくしが――」
叫ぶ彼を、馬頭羅刹の目が睨む。
「おのれらは、不浄のものを食すのが好きだったではないか。」
思う存分喰らえ、と、馬頭羅刹は沙門を沸き返る糞泥の河へ放り込んだ。
沙門は悲鳴を上げて糞泥の河へ落ち、ずぶずぶとぬめる糞泥の中にゆっくりと沈んで行った――
寶達は、糞泥の中で浮き沈みする沙門達の姿を見るに忍びず、強くその目を閉じた。
その姿は、清浄であるべき沙門にあって、あまりに惨く哀れであった。
「寶達様、穢れたことゆえ、お話しするのも憚られますが、彼らはああして沸き返る屎泥の河の中で糞泥に溺れ、口鼻から流れ込む糞泥に五臓を焼かれて苦しむのです。」
「沙門達は――どのような罪をおかしたのです?」
馬頭羅刹は答える。
「この地で苦しむ沙門達は、酒肉を好み、五辛を食した者どもでございます。仏の浄戒を受けた身でありながら、それを守らなかったため、この地獄に堕ちたのでございます。」
寶達は、苦しみもがく沙門達に、深い憂いの目を向け、悲しみ泣いてこの地を去った。