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仏説仏名經卷第一 大乗蓮華寶達問答報応沙門経



 菩提樹の華が、ぽとりと落ちた。

 ざわり、と、場がざわめく。

 菩薩、

 比丘、

 比丘尼、

 善男善女、

 天竜、鬼神に至るまで――

その日、摩竭道場には種々の衆生が世尊の元へと集っていた。草木といえど、世尊の前では喜びに光り輝くものである。まして、世尊の心を知る菩提樹の華が、世尊の前に光を失い、散り落ちることはその場に集った衆生の心をざわめかせた。

世尊は、静かに散り落ちた華を見つめている。

不安が、さわさわと場に広がる。

世尊の横顔に、明らかな憂いの表情を見て取って、寶達は立ち上がった。

 本来なら、寶達はこのようなことに心を乱してよい立場ではない。菩薩の位にある寶達はこのような時、衆生を安堵させるべき立場にあるのだろう。しかし、世尊が浮かべた憂いの表情は、寶達をひどく不安にさせた。

「世尊――」

 呼びかけると、世尊は静かに憂いを帯びた顔を彼に向けた。

「――世尊。何故、その華は枯れ落ちてしまったのでしょう。常にはあれほど世尊の来迎を喜び、光り輝くように咲く菩提樹の華が――。」

 世尊は悲しげな顔をした。

「寶達、この華は憂いているのだ。」

「何を憂いることがあるというのでしょう。世尊の来迎を仰ぎ、この地には静寂が満ちているというのに、この菩提樹の華も、そして世尊も、一体何を憂いていらっしゃるのです。」

 世尊は答えず、再び土に汚れた白い華に目を落とした。

「世尊。」

 さわさわとした不安が、その場を占めていくのを感じて、寶達は再び呼びかけた。

「――皆、不安に思っております。どうか、私達に菩提樹の散った理由を、そして、世尊の憂いの理由を、聞かせて下さい。」

 世尊が、寶達に悲しげな顔を向ける。

 寶達の不安が増す。

「皆、聞きなさい――」

 世尊が、集う衆生に向かって言った。

 その顔は光り輝くようで、その身からは後光が射している。しかし、その表情は沈んでいた。

「この菩提樹は、私の心を知って落ちたのだろう。私が憂いているのは、沙門達のことだ――。」

 そう言って、世尊は種々の衆生たちを見回した。

「お前達は知らぬかも知れないが、このところ道を説くべき沙門の身でありながら悪業を作り、苦処へと堕ちて行く者たちが後を絶たない。私はそれを憂いて菩提樹に向かい、菩提樹はそうした私の憂いを知って、その純白の華を落としたのだろう。」

 そう言って、世尊は顔を伏せた。


 世尊の悲しみに沈む様子を見て、寶達は少しばかり戸惑った。悟りを得た身に、そのような憂いは、既にないものと思っていたからだ。

「世尊――。」

 寶達は、三度呼びかけた。

「お願いいたします。我々に、世尊が憂いる悪業を為した沙門達が、どのような苦しみを受けているのか、お聞かせください。」

 世尊の、憂いを含んだ目がじっと寶達にそそがれる。何がそれほど悟りを得た身を憂いさせているのか――寶達は、知りたかった。

 世尊の目が寶達を離れ、遠くを見つめる。

 遠く広がる世界は穏やかで、どこにも憂いの種などないように見える。

 しばらくそうしていて、世尊は不意に寶達を呼んだ。

「寶達よ。」

 呼ばれて寶達はびくりと世尊に向かう。

「寶達よ――東方に、鉄囲山と呼ぶ大山がある。その山中に日月もこれを照らさぬという、幽冥の地があり、これを名付けて地獄と言う。」

 悲しみを含んだ世尊の声に、寶達の背が粟立った。

「寶達、この獄中で悪業を為した沙門達が罰を受けている。その有様を説くは易いが、私が今、それを説いて聞かせたところで、お前にも、ここに集う者たちにも、私の憂いは本当には解らないだろう――」

 世尊は、寶達の曇りのない瞳をじっと見つめて言う。

「真実、私の憂いる理由を知りたいと思うなら、寶達よ。そこへ行って、彼らがどのような因縁で悪処に堕ち、どのような苦しみを受けているのか、その目で見て来るがいい。」

 すうと、身体の心が冷えるような気がして、寶達は世尊に不安な目を向ける。

 世尊は寶達を見つめている。その澄んだ瞳は、寶達が世俗の穢れを知らぬことを物語っている。

世尊は知っている。欲に屈した沙門達の哀れな末路を今の彼に説いても、彼はその本当の悲しさを、理解しない――。

「世尊――」

 寶達が、不安げな顔で呼んだ。

「お言葉ですが、私にはそのような力はありません。私の力では、その幽冥の地に辿り着くことはできないでしょう――。」

 寶達の言葉に、世尊は、ふ、と微笑んだ。

「案ずることはない。寶達、お前に私の力の一部を与えよう。今すぐにも東方、鉄囲山へ赴くがいい。」

 世尊の言葉とともに、寶達の身体がふわりと中に浮いた。見ると寶達の足元には、美しい寶蓮華が花弁を広げ、寶達はその中央に立っていた。

「その蓮華は、お前を自在に運んでくれよう。寶達。往っておいで。」

 世尊は静かに微笑んでそう言った。

 寶達は世尊に一礼し、心に鉄囲山を念ずる。

 ふわりと蓮華が高みに上った――。

 ごう、と風のなる音が聞こえ、寶達の乗る蓮華は、龍が行くように虚空を飛び、東へと向かった。


 やがて寶達の足元に、切立つ険しい山々が見えた。

 これが鉄囲山かと、思う間もなく寶達の乗る蓮華は、その峻険な岩山へと吸い込まれるように下りて行った。

 落ちるような急降下に、寶達は思わず目を閉じた。叩きつけられるかと思う頃、蓮華座は静かに止まった。

 寶達はそっと目を開け、息を呑んだ――。

「なんというところか――」

 思わず、寶達は呟いた。

 高峻な岩山には、見渡す限り草木の姿も見えず、薄闇に覆われたその地は、確かに日月も照らすことはあるまいと思われた。 

「失礼ながら、菩薩様とお見受けいたします。」

 不意に声をかけられて、寶達は振り返った。

 見ると、寶達の前に大勢の者達が控えている。

「あなたがたは――?」

 問うと、一人が進み出て言った。

「我等はこの地、地獄を預かる三十六王にございます。高位の菩薩様とお見受けいたしますが、何故にこのような苦処へ御下りなされたのでしょう。」

 丁寧な応答に、寶達は少しばかり慌てる。寶達はそのような礼を執られるほど高位の菩薩ではない。少なくとも、自分ではそう思っている。

 だから寶達は慌てて言った。

「どうぞお手を上げて下さい。私は王様方にそのようなお気遣いをいただくほどの者ではございません。」

「しかし――」

大智尊王と名乗ったその王は、さらにかしこまる。

「しかし、そのように立派な蓮台に乗られ、速やかに降り立たれたお姿は、並みの菩薩様とは思われませぬが――。」

 大智尊王の言葉を聞いて、寶達は顔を赤らめた。

「これは、世尊のお力に拠りますもの。私の力ではございません。」

 世尊の名を聞いて、王達はざわりとざわめいた。

「これは――高位の菩薩様とは存じましたが、世尊のお力添えで参られた方となれば、一層粗略に扱うわけには参りませぬ。一体どのような理由で、このような幽冥の地においで下さったのでしょうか。」

 三十六王に礼拝され、寶達は困った様子で答えた。

「私は、世尊が三界の衆生にこの地のことを説くのを聞きました。世尊は仰いました、東方に鉄囲山と呼ぶ幽冥の地があり、この地は日月さえそれを照らすことのできない地、すなわち地獄であると――」

 寶達は、三十六王に摩竭道場での一部始終を語った。


「そのような理由で、私は悪業を為した沙門達の有様を見るために来ました。彼らに会い、どうしてこのような苦を受けることになったのか、それを聞きたいと思います。」

 寶達は、一端言葉を切って、言った。

「どうか、どなたか私と共に地獄へ行っていただける方はいらっしゃらないでしょうか――。」

 ――私が参りましょう。

 そう言って一人の王が寶達の前に進み出た。

王は、恒伽噤王と名乗った。

「ありがとうございます。貴方が私を地獄へ案内して下さいますか。」

 寶達が、幾分ほっとして礼を述べると、王は寶達を礼拝して言った。

「寶達菩薩様。地獄へ入るには大鬼王のもとへ参り、鬼王の案内で地獄へ下りねばなりません。これより、大鬼王のもとへご案内させていただきましょう。」

 寶達は肯いた。

「分かりました、よろしくお願いいたします。」

 寶達の言葉を聞くと、王は一礼して立ち上がり、先に立って寶達を鬼王のもとへと導いて行った。


「大鬼王様、御覧下さい! このような地に尊き方がおいでのようです。」

 鬼卒の慌てた声に、鬼王は顔を上げた。指差す方を見ると、確かに光り輝くような菩薩が、恒伽噤王に案内されて門を入ってくるところだった。

 どうしたことかと訝しく思いながら、鬼王は座を降り、進み出てその尊き菩薩を迎えた。

「恒伽噤王様、ご案内ご苦労様にございます。こちらはいずれの尊き方にございましょうか、何故このような悪処においでになられたのでしょう――。」

 鬼王が礼拝して尋ねると、菩薩は困ったような顔をして言った。

「――御手をお上げ下さい。私は寶達と申します、世尊のお力添えをいただき、この鉄囲山の中にあるという地獄を見に参りました――」

 寶達は、鬼王に摩竭道場での一部始終を語り、自分がここへ来た理由を話した。

「――そういう理由でございます。どうかこの地、地獄について私にお教え下さい。」

 鬼王は肯いて言った。

「得心が行きました。何なりとお尋ね下さい。」

「それでは――」

 寶達は問うた。

「この東方鉄囲山には、どれほどの数の地獄があるのでしょうか。」

 山中を遠く見渡すような目をして、鬼王はその問いに答えた。

「――数を云うならば、この鉄囲山中には無量の地獄があります。人の犯した罪の数だけ、地獄が生まれます故に。もっとも、沙門の堕ちる地獄であれば、今この一方に三十二の沙門地獄がございます。」

「三十二――」

「はい。それぞれ名を挙げれば、鉄車鉄馬鉄牛鉄驢地獄、鉄衣地獄、鉄銖地獄、洋銅灌口地獄、流火地獄、鉄床地獄、耕田地獄、斫首地獄、焼脚地獄、鉄鏘地獄、飲鉄銖地獄、飛刀地獄、火箭地獄、[月*鬼]肉地獄、身然地獄、火丸仰口地獄、諍論地獄、雨火地獄、流火地獄、糞屎地獄、鈎陰地獄、火象地獄、?聲叫喚地獄、鉄[金*疾][金*離]地獄、崩埋地獄、然手脚地獄、銅狗鈎牙地獄、剝皮飲血地獄、解身地獄、鉄屋地獄、鉄山地獄、飛火叫喚分頭地獄の三十二でございます。」

 恐ろしげな地獄の名を耳にして、寶達は打ち沈んだ顔で鬼王に尋ねた。

「その三十二の沙門地獄に堕ちた者たちは、どのような苦しみを受けているのでしょう。」

 鬼王は寶達の顔を見た。悲しげなその顔は、それでもまだ光り輝いて見えた。

「これらの地獄で沙門達の受ける罰も、その名の通りでございます。さらに詳しくお知りになりたければ、その目で御覧になられた方がよろしいでしょう。」

 鬼王がそう言うと、寶達は沈んだ顔で肯いた。

「分かりました。どうぞ、私を三十二の沙門地獄へご案内下さい――」

 鬼王は意外に思って寶達の顔を見直した。

その様子から、地獄の有様などとても見ることはできまいと思われたからだ。

「ご案内するのは宜しゅうございますが、地獄は悪業の者を罰するところ、無残な有様をお目にされることになると思います。そのお覚悟はあられますか――?」

 躊躇うかと思ったが、寶達は、はい、と肯いた。

「――分かりました。ならば、ご案内させていただきます。」

 鬼王は寶達に深く一礼すると、寶達を地獄へと案内して行った。








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