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60. キリアスが抱えるもの その2

 アランとエリアーデがタローム酒を嗜んでいた頃。屋敷の数少ないほんのりと灯りがともった一室で、痩せ細った少年がベッドからむくりと身体を起こした。


「ん……? あれ、もう夜なのか……? ここ、どこだ? なんで俺、ベッドに寝て……」


 波打つ燃えるような赤髪をけだるそうに右手で搔き、寝ぼけ眼で周りをきょろきょろと見回した少年は、ふと思い出したように息を飲み、かけてあった布団を乱暴に引き剥がした。


「……っ、服が、変わってる……!」


 布団から現れた自分の身体を見て、少年は一瞬ほっとしたようだった。しかし、同時にゆったりとした寝間着のようなものについたヘンストリッジ辺境伯爵家の紋章が目に入り、それまでのことを思い出したようだった。


「うう、夢じゃなかったのか。俺は、エリアーデおば様に……。怪我を治してくれたのはすごくありがたかったんだけど、せめて下着くらい着させて欲しかった……。

 まあ、それは贅沢な悩みか。身体がどこも痛くない。痛くないって、こんなに気分がいいもんなんだな。もうそんな当たり前のことも、忘れちまってた……」


 「襲われると思って反撃しなくてよかった」と呟きながらも羞恥で思わず布団に突っ伏した少年は、しばらくそのままの体勢でため息をついたあと、ベッドから降り、一番近くの壁にそっと手を当てた。


「部屋には誰もいないな。治してくれたエリアーデおば様には悪いけど、命令には逆らえないんだ。父上がいつ復活するかわかんないし、俺は屋敷を調べなきゃ……あれ?」


 身体を小さくして壁に身を寄せ、手から紫色の魔力を蜘蛛の糸のように細く、編み目のように張り巡らしながら壁に溶け込ませていた少年は、途中で訝し気に声を上げ、壁から手を離した。


「おかしい。警備用の魔道具も罠も見つからない。そんなことあるか? ここは曲がりなりにも上位貴族の屋敷だぞ? いや、待て。俺の魔力で探知できないような、高度な魔道具で警備を敷いてるってことか? でも、白土の領土なのにそんな金あんのか? うーん……。あ!」


 腕を組んで頭を悩ませていた赤髪の少年は、何かを思いついたように今度は床に手を当て、同じように魔力を流し始めた。


「この部屋の外に、2人。両隣の部屋に2人ずつ。このフロアの巡回が6班、2人ずつ。廊下に警備と両隣の部屋に人が配置されている部屋が、多分ヘンストリッジ辺境伯爵家の誰かの部屋だな。

この警備に加えて、侍女と執事に下働きたちか。しかも、全員暗器持ちだな。いざとなったらみんな戦闘可能ってことか」

 

 少年だけに見える魔力の網は、その編み目にかかる情報を余すところなく彼にもたらしているようだった。一通りの調査を終えた少年は、重要な情報を得られたにも関わらず浮かない顔をしながら、ベッドのそばにあるテーブルの椅子に座った。


「……つまり、他の貴族の屋敷みたいに警備用の魔導具に頼るんじゃなくて、ここは人力でやってんのか。今時、普通の貴族は警備なんて魔道具に任せて、1フロアにつき警備の人間は1人だ。それに、侍女も執事も下働きも暗器持ちとか、聞いたことねえぞ。

 はあ。俺は紫の魔力持ちだから、魔道具を壊すのは何でもないけど……諜報向きであって、戦闘は得意じゃないんだよな、父上からそんな訓練受けてないし。しかも、相手はヘンストリッジ辺境伯爵家の騎士だぜ? いやいや、無理だろ。ああ、もう父上は一体どうするつもりなんだ……」


 椅子にどっかりと身体を預け、盛大にため息をついた少年の目に、テーブルに置かれたバスケットが映った。中身に手を出す前に、バスケットの持ち手から魔力を流して罠ではないことを確認してから、そっと中身にかけられた布を取った。


「なんだ、びっくりした……。サンドイッチに何かのジュースか? 昼間もそうだったけど、俺にこんなに食べ物をやるなんて……辺境伯の家じゃあ、食いもんが余ってんのか? 

 ……俺しかいないんだし、今ここは俺の部屋なんだもんな。これ……俺のだよな。食うぞ? ……食うからな!」


 独り言を呟きながら、恐る恐るサンドイッチを一つ摘まみ上げると、彼は周りをきょろきょろと見回し、意を決したように口に放り込んだ。そして至福の表情で一つを味わったかと思うと、残りのサンドイッチを瞬く間に平らげた。そして、もぐもぐと口を動かしていた少年は、自分のパイソンが大蛇へと姿を変え、口から白い何かを吐き出してきたのを受け取った。


「なんだこれ? 花? いや、パイソンが喰うのは『手紙』だけだ、花なわけないな。うーん? ああ、崩せばいいのか。送ってきたのは……ソフィー?」


 丁寧に折られた白い薔薇をしばらく眺めていた少年は、その中身が手紙であることに気付き、少しずつ崩してその内容に目を走らせた。


『キリアス、長旅お疲れさま。ゆっくり休んでね。

それでね、もし明日キリアスが早起きしたら、一緒に祈りの塔に行かない? いつも朝7時にそこでお勤めしてるの。もしキリアスも行くなら、朝の6時半くらいまでに支度を終えておいてね! ソフィー』


「あいつ、俺に『殺しに来た』とか言われておいて、よくこんな呑気な手紙を送れるな。あのパイソンに何が仕込んであるかも知らないで……。いや、待てよ。朝7時……。

 父上がおかしくなったのは、この領に入って最初の朝だ。それも、朝7時くらい……。こいつのお勤めは、俺も見たことあるけど俺自身変な感じになった。

こいつは負の感情を癒すんだもんな。だから、もし俺よりも父上の方が負の感情ってやつが多かったら……俺よりももっとおかしくなるんじゃないのか? やっぱりあれは、こいつのせい……」


 少年は、険しい表情でそう呟きながら、ぐしゃりとソフィーの手紙を握り潰した。しかし、はっとしたようにその手紙をもう一度開いて伸ばし、その手紙を眺めながら、


「いや、落ち着け、俺。このまま父上がおかしくなったままで、俺たちみんなに命令ができなくなったら……、俺たちはもう、父上の計画に付き合わなくていい。ソフィーを殺すのも、材料に使うのも、なしだ。俺たちは解放されるかもしれない。

 それに、父上はアランおじ様だけじゃなくて、ヘンストリッジ辺境伯爵家自体を悪魔みたいに言っていたけれど……。わざわざ警備で迎えに来てくれて、父上のために医者を呼んでくれて、俺にご飯をくれて、治療をしてくれて、ベッドに寝かせてくれて、こんな呑気な手紙をくれて……どこが悪魔なんだ?

 俺から見たら……突然俺たちみんなを奴隷にした父上の方がよっぽど悪魔だ。でも、命令には逆らえない。何が正しいのかも、もう俺にはわからない。父上はどうして彼らを悪魔だって言うんだ? 彼らは何かを隠しているのか? 俺はどうすればいい? どうすれば……」


 到着した時よりは幾分顔色が良くなったキリアスだったが、考えれば考えるほど苦しそうな表情になり、最後の方は涙声になっていた。






 その日、夜が明けてもソフィーのパイソンが大蛇に変わることは無かった。

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