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53. 待ちに待った七の日 パッサカリア編 その2

 第6変奏から第10変奏までは、コントラバスとチェロの重厚なメロディーの下、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラが16分音符で入れ替わり立ち代わり、流れるような装飾を奏でていく。


 一切休むことも、気を抜くことも許されないこの曲の最初の山場を乗り越えた私は、第11変奏のために両手を第2手鍵盤に移し、足鍵盤をリセットしてFagotto(ファゴット) 16’のストップに素早く切り替える。


 第11変奏は、メロディが低音から離れ、木管楽器中心の柔らかく、美しい調べに変わる。そして、そのまま第12変奏による最初のクライマックスへと向かって行く。


この曲は、パッサカリアとフーガというタイトルの後に、BWV. 582という記号と数字が付いている。BWVはバッハ様の作品番号に付けられる記号のことで、この曲は記録上、582番目に作られた曲であることを示している。

 オルガニストとして毎週教会で演奏し、多数の弟子を育てながらも現存するものだけで1000曲以上作曲したバッハ様。しかも、この曲のような壮大で規模の大きな曲だってたくさん含まれているのだ。本当にとんでもない偉人だと思う。




「次は、左手が金管楽器だから、第3手鍵盤に移って……」


 私は、第3手鍵盤にTrompete(トランペット) 8’と16’がセットされているのを目の端で確認しつつ、右足でストップを切り替え、Fagotto(ファゴット) 16’から元のコンビネーションへと戻す。


 低音とともに金管楽器が華やかに、そして荘厳にメロディーを奏でる第12変奏から、メロディーが木管楽器に移る第13変奏にかけては、ヴァイオリンの16分音符による装飾が跨り、そのフレーズの流れを切らすことなく、自然と繋げている。


 第14変奏からは、両手だけでなく両足まで16分音符で動く。ソフィーの身体を借りている私にとっては、ここが一番しんどい踏ん張りどころだ。両足のつま先とかかとを駆使し、ここを何とか乗り切った後、両手のアルペジオで主題も装飾も奏でる第15変奏に入っていく。




 私はこれがバッハ様の作品だと知った時、20回も変奏される装飾の数々が、まるで『あるフレーズを毎回違う旋律で装飾するとしたら、一体どこまでできるのかを試している』みたいだと感じたものだった。実際パッサカリアの数々の装飾は、バッハ様がそれまで培ってきた作曲技術の結晶であり、これからバッハ様がやってみたいことの実験台にもなっていたそうだ。




 第16変奏で、また主題が足鍵盤の低音に戻ってくる。両手の16分音符の流れの中で、8分音符ごとに和音が現れ、装飾に鋭さとメリハリを持たせていく。そして第17変奏では、両手が担う弦楽器が16分音符の3連符で装飾を奏で、ここまで盛り上げてきたメロディーをさらに華やかに彩っていく。


 第18変奏では、メロディーが8分音符のアウフタクトに変わる。そして、第19変奏では装飾が2つの旋律、第20変奏では4つの旋律の装飾に分かれ、呼応を繰り返し、複雑に絡み合って次のフーガへとつながっていく。


 私は、やっとの思いで168小節ものパッサカリアを弾き終えたが、休む暇もなくフーガへと入る。フーガとは、ラテン語のfugere(逃げる)という言葉が由来になっており、簡単に言うと色んな形で旋律同士が追いかけっこをする曲の形のことだ。例えば、かえるの歌だってフーガだ。


 パッサカリアの最後の音をアウフタクトに、まずは両手のみで静かなフーガが始まる。しかし、それはすぐに複雑に絡まっていき、足鍵盤を巻き込んだ4声の二重フーガへと変化していく。


 このフーガの恐ろしいところはそこだ。4声ということは、両手両足でどうにかして4つの旋律を同時に弾くということだ。それだけならまだいいが、これはさらに二重フーガ。別々のフーガの追いかけっこが同時に発生するのだ。

 慣れるまでは、譜面ではわかっても、いざ弾いてみると両手両足が今何をしていて、どことどこがフーガ同士になっているのかさっぱりわからなくなってしまっていた。頭で理解するまでがまず大変、理解してから弾けるようになるまではもっと大変な曲なのだ。

こんな曲をさらりと作曲するバッハ様は、天才であり、とんでもなく賢かったんだと思わざるを得ない。


 私は、ピアノでも何回も何回も練習してようやく弾けるようになった複雑なフーガを、ソフィーの手を酷使しながら弾いていく。

 ここからは、パッサカリアとは違い、メロディーが低音に縛られない。自由に移り変わり、鍵盤上を足鍵盤から手鍵盤へと縦横無尽に行ったり来たりするメロディーは、弦楽器だけだったのを、木管楽器、そして金管楽器を巻き込んでクライマックスへと向かっていく。


 フェルマータからは、テンポをぐっと落とす。右足のスウェルを全開にし、rit(リタルダンド)をかけながら、最後の7小節をゆっくりと味わうように弾き切った。






「……ゆい、だいじょうぶなのだ……?」


 リュフトシュタインに頼まれたのを理由に、自分が好きだからってパッサカリアとフーガという大曲を無謀にもこの身体で弾いた私は、汗をびっしょりとかき、最後の方は指が痛くて弾いている感覚が無くなっていた。それでも、最後まで気合と根性で弾き切り、終わった後はストップを全てオフにして第1手鍵盤の上に突っ伏していた。


「うん。大丈夫じゃないけど、大丈夫。生きてるよ。でも、ちょっと無理しすぎちゃった。まだ一曲しか弾いてないけど、今日は一旦おうちに帰ってもいい? お母様に手の治療をお願いしなきゃ……」


 そう言いながら、ソフィーの返事を待たずに私はゆらりと身体を起こすと、リュフトシュタインの椅子から降りようとしてバランスを崩し、床にべしゃりと落ちてしまった。第1部隊の隊長さんが慌てて駆け寄ってくるのが見えたが、今私はとても疲れて眠たい。何事かを叫ぶ声が聞こえたが、それが何なのかを理解する前に私の意識は暗転した。


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