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52. 待ちに待った七の日 パッサカリア編 その1

「んんー? ゆいー、そのきょく、ソフィーはきらいなのだあ。こわいのだ」


 リュフトシュタインのストップを操作しながら、これから演奏する曲を無意識のうちに頭の中で流していると、寝ていたはずのソフィーが目をこすりながら起きて、そう訴えてきた。


「あれ、ソフィー、起きたの? 今日は七の日だから、ゆっくり寝てていいのに」


「こわいきょくがきこえてきたせいなのだあ……、いやなのだー。ずんずーん、どんどーん、ばんばーん、なのだ! ふわあ……、ねむいけれど、ゆいのせいでおきてしまったのだ」


 私の言葉に、ソフィーはすねたように頬っぺたを膨らませ、腰を下ろした床を右手でバンバン叩きながら不満そうに言う。そんなソフィーの子どもらしい様子に、私はつい笑ってしまいそうになりつつ、


「ああ、確かに私も小さい頃は、この曲がちょっと怖かった気がする。大人になるにつれて、その良さがわかるようになったんだけどね。ソフィー、リュフトシュタインの要望もあるし、別にこれは怖い曲じゃないよ。むしろ、『パイプオルガン曲の最高傑作の一つ』って言われてる曲でもあるし、今では私の一番好きな曲の一つでもあるの。

 ただ、どうしても嫌なら……、そっちの空間の私の楽譜棚の一番下の段に、耳の中に入れる『イヤホン』っていうのがあるから、それを一個ずつ耳に付けておいて。多分、あんまり外の音が聞こえなくなるからさ」


 そう言って頭の中でソフィーを宥めると、私はストップの操作に戻った。そしてソフィーが、私が以前通勤時に使っていた高性能ワイヤレスイヤホンを発見し、両耳に装着したのを確認してから演奏を始めた。






 J. S. バッハ作曲『Passacaglia and Fuga BWV. 582』


 音楽の父と称された、今でも他の追随を決して許さない天才作曲家の一人であり、同時にオルガニストの巨匠としても名を馳せたバッハ様が作った、オルガン曲における最高傑作の一つだ。

日本では、『パッサカリアとフーガ ハ短調』と呼ばれることが多く、オイゲン・ダルベールによる原曲に忠実なピアノ編曲版、またはストコフスキー・レスピーギによる秀逸なオーケストラ編曲版の方が一般的には知られているかもしれない。


 実は私が最初にこの曲を聞いたのも、祖父がまだ現役のプロ奏者だった頃のオーケストラでの演奏だった。だから、大学生になってオルガン曲として再会するまで、ずっとオーケストラ向けの曲だと勘違いしていたくらいだった。


私は、Principal 8’と16’のオクターブにコンビネーションをセットした足鍵盤で、冒頭の三拍子の重低音のメロデイーをアウフタクトからゆっくりと鳴らし始める。


この曲はその名の通り、『パッサカリア』の後ろに『フーガ』がくっついている曲だ。パッサカリアとは、簡単に言うと足鍵盤が担う低音がメロディーとなり、それを受けながら繰り返しその変奏を奏でる変奏曲のことだ。


 冒頭の低いC()から重々しく始まる8小節の短いパッサカリアのメロディーは、なんと20回も繰り返され、その間バッハ様の編曲、そして作曲の才能を見せつけるような、対位法による重厚で美しい変奏が続いていく。


 オーケストラ編成であれば、チェロとコントラバスがユニゾンで演奏する重厚な主題を弾き終えた私は、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラによる第1変奏に入っていく。パイプオルガンの第1手鍵盤に両手を乗せ、シンコペーションを伴う和声で低音のメロディーを華やかに彩っていく。


 ちなみに対位法とは、ものすごく簡単に言うと、ある条件の下メロディーも伴奏も両方ともメロディーにするよ、という音楽の理論のことだ。

そして和声とは、コードの進行、つまり和音がどう動いて、繋がっていくかというルールのようなものだ。どちらも作曲上やっていいこととだめなことがある。

バッハ様は作曲家とオルガニストだっただけではない。こうした理論の確立、そして本当の意味で完成させたと言われる偉い人なのだ、ふははは!


 第1変奏を下降音形にし、暗い雰囲気を纏う第2変奏を終えた私は、右手を一段上の第2手鍵盤へと移動し、曲中へフルート系である木管の音色を加えていく。なぜなら、第3変奏からは木管楽器が出て来るからだ。

オルガン曲として弾くときは、そんな面倒なことをする必要はない。だが、今回はできるだけたくさんの音色を使うと約束したのだ。とてつもなくコントロールが難しいが、とにかくこれはオーケストラ版なのだと思って演奏する。


第4変奏に入ると、木管楽器もあるが弦楽器中心の演奏に戻っていく。8分音符と16分音符を組み合わせた、低音とは対となるこの変奏部分は、この曲全体に躍動感をもたらしていく。そして、足鍵盤の低音のメロディーが16分音符の跳躍に変わる第5変奏へと移っていく。


「……ゆい、がんばるのだ。なんだかとってもたいへんそうなのだ……」


 じんわりと汗をかき、早くも息が上がり始めた私に小さな声で話しかけてきたが、返事をする余裕はない。第4変奏からは、難易度がぐっと上がるのだ。指を支え、一本一本の指の独立性を身体強化を使って今できる最大限まで高めたとしても、そもそもの曲の難易度がとてつもなく高い。

 でも、今日はほとんど人がいない七の日だ。多少ミスタッチが出ても気にしない。それよりも最後まで弾き続け、なるべくたくさんのパイプたちに活躍の場を与えられるよう、私は全力で演奏に集中していた。






 第6変奏からは再度弦楽器が主流になるため、右手を第1手鍵盤に戻す。低音のメロディーも元の4分音符と2分音符に戻り、変奏部分をその荘厳な響きで支えながら進んでいく。

そして本来は必要ないが、ここからはせっかくなのでUntersatz(ウンターザッツ) 32’のストップを右足で押して加え、更に低音に重厚感を持たせることにする。


 パイプオルガンの面白いところの一つは、曲の基本となる組み合わせはあるけれど、各パイプオルガンが持つストップの種類と会場の響きに合わせて、最終的にはオルガニストが自分でコンビネーションを組み立てられることだ。だから、同じ曲を演奏したとしても、オルガニストによって、そしてどこに設置されているどのパイプオルガンかによって全く違う唯一無二の演奏になるのだ。


 私は、できるだけ色んなパイプの音色と音程を採用することに重点を置きつつ、目の前に(そび)え立つバッハ様の超大作に振り落とされないよう、必死で食らいついていった。

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