45. 好きなものは、人それぞれ
「ねえ、ソフィー。シウヴァ家のお爺様とお婆様って、もしかして音楽が嫌いなのかな。良かれと思って演奏したいって言ってみたんだけど……なんだか微妙な反応だったよね」
私は馬車での移動中、大人たちの話に耳を傾けつつ、私が頼んだ楽譜を慌てて探すソフィーに脳内で話しかける。今まで演奏してほしいと頼まれることはあっても、微妙な空気が流れることは無かったのだ。なんとなく気になってしまう。
「うーん、よくわからないのだ。そもそも、ソフィーはきづかなかったのだ。それに、おんがくがきらいなひとっているのだ?
それより、ゆい。おじいさまとおばあさまにえんそうするのはこれがいいのだ! ソフィーは、これがいまいちばんすきなのだ!」
ソフィーはそう言うと、王宮から帰って来た次の日に弾いた楽譜を渡してきた。一度弾いたことがある曲だけど、今回はお勤めではない。ソフィーが好きな曲でいいだろう。
それにしても、ソフィーの言う通りだ。音楽に興味がなかったとしても、「音楽が嫌い」な貴族はなかなかいないと思う。この国の文化の発達度は高くない。貴族であっても娯楽は限られており、中でも音楽を聴くのは貴族の特権中の特権だ。だからこそ、私はあの微妙な反応が気になって仕方なかった。しかし、なんとなく直接理由を聞くのは憚られるような気がして、なかなか直接聞くことができずにいた。
「わからないことは、わからない。きにしてもしかたないのだー! ゆいがじぶんでえんそうするっていったのだ! がんばってくるのだー!」
尚も気にする私の背中を、ソフィーがばしばしと音がするくらい思いっきり叩いてきたかと思うと、私は白の空間から放り出された。いつまでも引きずってないで、やるべきことをやれということだろう。私は内心苦笑いしながら馬車の揺れに身を任せつつ、祈りの塔へ到着するのを静かに待った。
「お父様、お母様。あの壁から生えている巨大なものが、ソフィーがお勤めで使っている神獣です。ソフィーはあの側まで行きますが、白の魔力持ちにしか触ることができない代物だそうです。私たちはこちらで待ちましょう」
事前に知らせを受けていたのだろう、祈りの塔の入り口に神官長のグレゴリウスが待ち構えており、丁重に出迎えてくれた。いつもの領主一家だけでなく、より上位の侯爵家夫妻が来たのだ。無理もないだろう。そのグレゴリウスを先頭に、朝に比べると人の数がまばらな祈りの塔の中をまっすぐ歩いていく。
そして最奥の壁、現在は魔力切れで壁と色が同化したリュフトシュタインの前まで来ると、お母様が最前列の長椅子をシウヴァ家のお爺様とお婆様に勧めていた。
「我が領の祈りの塔とて同じもののはずだが……こんなものは見たことがないな」
「王宮から、ソフィーが女神ハルモニアの使徒になった件は通達を受けたけれど、実際に何をしているかまでは知らされていなかったものね……」
後ろから聞こえてくる声を聞きながら、私はリュフトシュタインの演奏台で準備を始めることにする。まずは椅子に腰かけ、リュフトシュタインに手を触れて魔力を再度与えた。
「お? お前、また来たのか? 別にいいけど珍しいな」
「ごはんあまってるのー? いっぱいたべてもいいー?」
私の魔力を吸って白く輝きだしたリュフトシュタインから、次々に声が聞こえてくる。後ろで話していたシウヴァ夫妻が驚きの声を上げているが、振り返らずに準備を進める。
「うん、一曲演奏を聴いてほしい人たちがいてね。魔力は食べていいから、付き合ってほしいの。
あ、でもフルフルは食べ過ぎちゃだめだよ。最低でも2割は残しておいて」
「ふむ。ソフィーが我らを使えば、この世界のためになるのじゃ。もちろん付き合うぞ」
「はあ、あんた朝も演奏してただろう? 疲労は大丈夫なのかい? ふう、その小さな身体じゃ、一曲だってそれなりに負担がかかるだろうに」
スト姉が呆れたような、心配するような声で聞いてくる。しかし、この1か月ちょっとの間に、思いのほか私の身体は演奏に順応していた。演奏に耐えられるよう、身体強化を使ってはいるが、疲労や痛みはかなり和らいでいたのだ。
「スト姉。大丈夫だよ、安心して? パル爺、この前演奏した『Ombra mai fu』のコンビネーションを呼び出してセットしてくれる?」
「相分かったぞ」
「はあ、あんたが大丈夫ならいいんだよ。ふう、無理はしないことさ」
私は頭の中で繰り広げられるリュフトシュタインたちとの会話を、パル爺への指示で一旦切り、演奏の準備に取り掛かった。
G. F. ヘンデル作曲『Ombra mai fu』
バッハ様と同じ1685年に同じ国、現在のドイツで生まれたヘンデルは、「音楽の父」と呼ばれたバッハ様に対し、「音楽の母」と並び称され、バッハ様とは違う方向でこれまた数多くの名曲を生み出している。『Ombra mai fu』は、そのヘンデルが生み出した傑作の1つだ。
現在はこの曲単体で有名になってしまったが、元々はオペラ『セルセ皇帝』の最初の場面に出てくるアリアだ。ヘンデルの没後、『セルセ皇帝』を始めとした彼のオペラの多くが上演されなくなり、次第に表舞台から姿を消してしまった。しかし、このアリアはその旋律とハーモニーの美しさから演奏され続け、『ヘンデルのラルゴ』として今も親しまれている。
私はこの曲をストリングス系とフルート系をベースにした音色でセッティングする。後半にはトランペット系の音色を手動で足したいので、自分で作ったストップリストでストップの場所を確認しておく。
場所の確認とシミュレーションを脳内で終えた私は、両手と左足を鍵盤の上に構え、右足をスウェルに乗せ、ラルゴの速度指定に相応しく、ゆったりとしたテンポで弾き始めた。
『Ombra mai fu』は、このオペラの主人公であるセルセ皇帝自身が、素晴らしい木陰を作っているプラタナスの木に対して、愛情を込めて歌い、その木と木陰をほめたたえる短い歌詞を繰り返し歌うものだ。だから、アリアとしても、身体から溢れんばかりの純粋な愛を伝えるかのように、叙情的に演奏する。
GDHGから始まるフルート、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの美しいハーモニーを伸ばしながら、左足でコントラバスが弦の余韻を残しながら進むかのように、四分音符を丁寧に足で鳴らしていく。
セルセ皇帝は、実在したペルシャ王クセルクセス1世をモデルに作られたオペラだ。このオペラ自体は史実とは関係ないが、彼は当時とても変わった人物として有名だったそう。このアリアにあるように、実際にプラタナスという街路樹としてよく使われている木に一目惚れし、金銀宝石でその木を飾り立て、褒めちぎり、優秀な兵士をその木の警護のためにあてがったという話がこのオペラ以外にも残っている。
フルートが担っていたメロディーから、今度は第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがメロディーの主体を受け継ぐ。フルートとの掛け合いを繰り返しながら、音階を少しずつ上がっていく。
私は両手と左足の指先に全神経を集中する。ちょっと変わっているとは言え、これはクセルクセス1世にとっては美しい愛の歌。パイプオルガンの音色が濁らないように、一音一音指を離すタイミングに注意を払いながら弾いていく。
この曲自体は、とても美しい旋律とハーモニーを持った素敵なアリアなのだが……私が最初にこの曲について調べた時は、「それって、そこらへんにある木なんだよね?」とクセルクセス1世の行動が理解しがたかった。しかし、そもそも彼は史実に残る相当な変人だ。それに、誰が何を好きかなんて、人それぞれ。私がクラシック音楽を心底愛しているように、クセルクセス1世はこのプラタナスの木を愛したと思えば、気持ちもわかるというものだ。
私は、フレーズ毎に細かく切り替わる強弱を、右足のスウェルでできるだけ自然に聞こえるように踏み込んでは戻すのを繰り返す。ちょっとでも力加減を間違えれば、突然大きな音になってしまうし、戻しすぎれば聞こえなくなってしまう。
引っかかるところはあるけれど、シウヴァ家のお爺様もお婆様もとっても忙しい中来てくれて、私のためにあんな貴重な本までプレゼントしてくれたのだ。せっかくならいい音楽を届けたい。私は、遠路はるばる来てくれた祖父母に向けて、感謝と大好きの気持ちを込めて弾き、最後にritをかけ、ゆっくりと曲を締めくくった。




