41. それぞれの思惑 その2
国王レドニウスが自室へ戻ったころ、背後に巨大な休火山が聳え立つある屋敷で、白髪交じりの恰幅の良い男性と、同じく白髪交じりの髪を結い上げた女性が、ともに執務室で膨大な量の書類と向き合っていた。そのうち、女性の方が疲れの滲む表情をしながら顔を上げ、男性の方を見ながら口を開いた。
「あなた、今日はこのくらいにしませんか? いくら急に犯罪奴隷の受け入れ枠を増やすように、それから金銀の採掘量を増やすようにとお達しがあったからって……あまり無理をなさってはお身体に障りますよ」
「一日中書類を見ていて、もう目が霞んできてしまったわ」と続けると、男性も困ったような顔をしながら、
「エリーゼ、すまない。本来は儂の仕事だと言うのに、お前の手をも借りねばならん状況になってしまってなあ……もう各鉱山には相当数犯罪奴隷を受け入れさせておるし……どうしたものか。休眠しているとはいえ、ここは火山の麓だ……他国にあると聞く、『温泉』でも掘らせるか? いや、その前に金銀の採掘量は……」
「あなた、そこまでになさいませ。あまり根詰めすぎると体調を崩してしまいますよ。そうなれば、来週のソフィーの面会に行けなくなってしまいます」
書類を手放しながらも執務室の机で頭を悩ませる領主に、エリーゼがソフィーの名前を出して宥めた。その効果はてきめんで、ソフィーの名を聞いた彼は、驚くべき速さで机の書類を片付けて立ち上がり、嬉しそうに顔を輝かせながらエリーゼの手を取った。
「そうじゃ、そうじゃ! こちらの件は、今いくら悩んだところで関係各所に調整に行かねば、どのみち事を動かせぬからな。それよりも、今日はソフィーが陛下と面会をする日であったであろう? エリアーデから何か連絡は来ておらぬのか? ソフィーは元気にしておるかのう?」
「ふふふ、あなたはソフィーが大好きですものね。今日の夕方ごろ、エリアーデからソフィーが無事に戻ったと手紙を受けましたよ。もう快復したと言っていましたし、きっと大丈夫ですよ。来週会えますから、落ち着いてくださいませ」
エリーゼも彼に手を引かれて立ち上がり、にっこりと笑いながら返す。「ソフィーへの手土産は何かいいかのう? 金銀の装飾品はまだ早いかのう?」とすっかり来週の面会へと頭を切り替えた現シウヴァ侯爵とソフィーの話をしながら、エリーゼは彼とともに執務室を後にした。
夜も更け、日付が変わろうとするころ。王宮から限りなく離れ、平民区にほど近いところに建っているある男爵家の屋敷の一室に、デビュタントを済ませたばかりの若い貴族男性が4人集まり、エールを飲み交わしていた。高校生ほどの年齢の彼らは、何時間もこうして飲んでいるのか、顔が赤くなっている者や眠そうにしている者、随分と気が大きくなっている者もいるようだ。
「……それにしてもよお、お前ら聞いたか、ハルモニア様の使徒が現れたって噂! 5歳の女の子だってよお! 信じられるかあ、そんな話! デマに決まってるぜ!」
「はあ? お前、知らねえの? その子はヘンストリッジ辺境伯爵家の跡取りらしいぞ。上位貴族が見え張って嘘なんてつくか? 俺たち底辺じゃあるまいし」
赤ら顔でエールを煽る男性に水を渡しながら、隣の男性が続ける。ヘンストリッジの名前に一同がざわつく中、別の一人が口を開いた。
「……俺、今日ヘンストリッジ家のご令嬢を見かけたよ。王都の祈りの塔で。レイモンド様とヘンストリッジ卿と一緒にいる子どもだから、多分あの子だと思うんだけどさ……。
その子が祈りの塔の壁に手を当ててたんだけど……その後すぐ壁が輝いて、壁から何かが出てきてた。……多分あの子、何か特別な力があるんじゃないかなあ。女神の使徒なんだもんねえ」
「ちなみに、俺がその壁に触ろうとしたら軽々と吹っ飛ばされた」と笑いながら話す。すると、最初に口を開いた貴族男性が、
「ふうん。なら、ご令嬢は本物の使徒ってことか? で、ご令嬢は辺境伯の跡取りなんだろお? 俺の家、一代限りの男爵家だから俺跡継げないしさあ。ご令嬢がもらってくんないかなあ」
「おいおい、相手はまだ5歳だぞ。ご令嬢のデビュタントのころには、お前は立派なおっさんだよ。それに、辺境伯の跡取り娘に底辺男爵家の息子をわざわざあてがうとは思えんな」
げへへ、と下品な笑い声を上げながら逆玉の輿を狙う発言をする男性に、それまで黙っていた最後の一人が呆れたように口を開く。彼の辛辣な言葉に、下卑た笑いを引っ込めた男性は、その代わりとばかりに舌打ちをしながら話を続ける。
「ちっ……ヘンストリッジ辺境伯って、あのオスカー様の前まではずっと騎士爵だったんだろ? 俺たちより下、最底辺だったくせに、今や上位貴族だもんなあ! 羨ましいこった!」
「だったら、お前も鍛えればいいじゃないか。オスカー様みたいに、単騎で、剣一本で暗黒龍の森に乗り込んで、魔物をみんな薙ぎ払って、三日三晩暗黒龍が認めるまで互角に渡り合えるくらい強くなれば、上位貴族に取り立ててもらえるかもしれないぜ?
……でもさあ、ヘンストリッジ領って魔物は頻繁に出るわ、隣のアライア領の治安が悪いせいで間の街道に盗賊は出るわ、白土のせいで作物はほとんど育たないわ、もう散々な土地だろ? 伝説の騎士を輩出したってのに、ヘンストリッジ家もよく我慢してあんなとこ治めてるよなあ。俺ならとっくに逃げ出してるわ」
「……確かに。そう考えたら全っ然羨ましくねえな。でも、ご令嬢が必死こいて領地を治めてるのを尻目に、俺は悠々自適に辺境伯配偶者の肩書と金を使いまくるってのは、ありだけどなあ!
それに、女神の使徒様とつながりを持っていれば、何かいいことありそうじゃねえか? おい、誰かヘンストリッジ家に紹介できるやついねえの?」
男性の言葉に確かに、と頷いていた面々も、紹介できるかという言葉には頭を横に振る。それに加え、
「そんなやついるわけないだろ。それにな、陛下の御達しがあったじゃないか。お披露目会までは、親戚以外、件のご令嬢には接触禁止なんだって。
二年後のお披露目会は大変な混雑になるだろうなあ。王宮に貴族が殺到するぞ」
という言葉をいずれかの男性が発すると、陛下のご命令なら仕方ない、と4人の男性はため息をつき、ジョッキに残った安いエールをぐいっと飲み干した。そして、乱暴にジョッキをテーブルに降ろすと、もう興が冷めたとばかりに使用人に片付けの指示を出し、ぞろぞろと部屋を後にした。
「父上! 話を聞いてください! ソフィア嬢は危険です、むやみに手を出さない方がいいとあれほど……!」
「黙れ、キリアス。誰がお前に発言していいと言った? 面会は再来週だ。第一段階はそこでお前が仕掛けるんだ。まさか、この期に及んで怖気づいたのか?」
王都のヘンストリッジ男爵家の屋敷の一室。作りかけの魔道具があちらこちらの床に散乱し、部屋をぐるりと囲う、床から天井まで伸びた四方の壁の引き出しからは、さまざまな素材が顔を出している。その部屋の床に魔道具をかき分けるようにして座り、両手で何かをいじるメイソンは、キリアスのことを振り返りもせずに冷たい口調で答える。
「いえ、そうでは……。でも……、父上のご命令であいつのことを監視している間、俺は何度も奇妙な術のようなものを受けました。そのせいで……父上、俺にはどうしてこんなことを続けるのか、もうわからなくなってしまいました。
母上が死んで、母上の仇というのは覚えているのですが、それがどうしてヘンストリッジ辺境伯のせいなのか……。
だって、ヘンストリッジ辺境伯はあの時母上を救おうと、あんなに必死に……」
「黙れ、キリアス。それ以上言えばこの場で殺すぞ! お前はあの時、何があったのか知らんだろう? 俺が何を見たのか……そして、ヘパイストス様が今、どんなにお嘆きになっているのか知らぬから!
……俺はあの時、あの状況の意味にすぐには気づかなかった……あの状態の暗黒龍とアランが一緒にいる意味にもっと早く気づいていれば……!」
メイソンは「ヘパイストス様だって、俺のために悲しんでくださっているのだ!」と叫びながら悔しさと怒りに顔を滲ませ、手に持っていたものを壁の棚に向かって投げつけた。壁に当たって落ちたものが、床のつくりかけの魔道具を大きな音を立てて破壊する。その様子をさしたる興味もなさそうに眺めたメイソンは、ゆっくりと立ち上がってキリアスの目の前まで歩いてくると、突然彼の首を右手で力いっぱい掴んで壁に押しやり、力いっぱい締め付けた。
「いいか、キリアス。ソフィア嬢が、使徒だろうが何だろうが……俺の計画は、アランへの復讐は止めたりしない。お前は黙って、奴隷らしく俺の手足として動けばいい。
再来週、面会でお前とソフィア嬢を二人だけになる時間を作る。チャンスを見計らってアレを置いてこい。
だがもしも……お前が『ソフィア嬢は使えない』と判断したら……その時は、場で殺せ。死体はお前の影に入れて、暗黒龍の魔物たちが連れ去ったことにでもしておけ」
それだけ言うと乱暴に手を離し、せき込んで崩れ落ちるキリアスに目もくれず、メイソンは部屋から出て行った。
床にぐしゃりと転がったキリアスは、肩を上下させながら息を吸い、首元を押さえながら、
「……っ、母上……。母上は、どうして死んでしまったのですか? 俺は……俺たちがやっていることは、本当に『正しい』ことなのですか? 父上は何を見たというのですか?」
散乱した魔道具の上に仰向けになり、彼は天井に向かって手を伸ばした。しかし、その手は虚しく空を切る。
「ソフィア嬢を監視に行くたびに、俺は自分が自分でわからなくなる。……俺は、あいつが怖い。でも、自分の手で人を殺すのは……もっと怖い。……母上……。俺は……どうすればいいのでしょうか……」
キリアスは、以前とは変わってしまった自分自身に戸惑い、混乱しながらももがくように伸ばしていた右腕を力なく床の魔道具の上におろした。そして何かに祈るように目を閉じた彼の目からは、一筋の涙が零れていた。
夜も更け、空がうっすらと白け始めたころ。白の空間では、結衣が楽譜をあちこちに広げたまま、透明な床に横になって眠っている。その側で、ソフィーが自分の記憶の中から持ってきたブランケットを結衣にかけ、その顔と髪の毛をじっと見つめている。
「ゆいはふしぎなのだ。はじめてあったときから1かげつたつのに、かみのけがみじかいままなのだ。ソフィーはちょっとのびたのだ。おとなになると、のびなくなるのだ?」
ソフィーはそうつぶやきながら、慣れた手つきで結衣の深緑色のふちがついた眼鏡をはずした。そして、それを丁寧にたたむと、結衣が自分でここに持ってきた巨大な楽譜棚の一角に置いた。
「きょうは、ゆいは『お疲れ様』なのだ。おうとはいそがしかったのだ。ゆいがこうふんすることもいっぱいあって、ソフィーはたくさんしんぱいしたのだ」
「ゆいはかしこいのに、クラオタになるとたいへん! なのだ」と不満そうに言いながらも、その後ちょっと誇らしそうに胸を張って、
「だからこそ、ソフィーのでばんなのだ! きょうはゆいをたすけたのだ! ゆいにおれいをいわれたのだ! ソフィーはえらいのだ! えっへん!」
爆睡状態の結衣を除けば誰もいない白い空間に向かって、ソフィーは小さな体で仁王立ちししながら大きな声で叫んだ。ひとしきりソフィーは偉い、ソフィーは凄いと連呼して気が済んだソフィーは、結衣の側にちょこんと体操座りで座った。そして、ソフィーは結衣の寝顔を眺めながら、今度は小さな声で続けた。
「ゆい、いつもごめんなさいなのだ。ゆいがたいへんなの、わかってるのだ。ほんとうは、ソフィーがじぶんで、ぜんぶやらなきゃいけないのだ。でも……ソフィーじゃ、なんにもできないのだ。
ソフィーがソフィーになったら、またきっと……ソフィーにふさわしくないって……ばかにされるにきまってるのだ……」
ソフィーはさらに声を小さくしながら、身に付けている白い騎士服を両手で掴み、両目をぎゅっと閉じた。そして、何度か深呼吸したあと、今度は気持ちを切り替えたように幾分晴れやかな表情をして、
「でも、ゆいがいるからソフィーはだいじょうぶなのだ! ソフィーもまいみたいに『引きこもり』でいいのだ! ゆいがいれば、ずっとここにいられるのだ! 『漫画』も『映画』も『小説』もいっぱい、いーっぱいあるのだー! えへへ、きょうはまだ『夜更かし』するのだ!」
そう言って『主よ、人の望みの喜びよ』の旋律を鼻歌で歌いながら、ソフィーは結衣の記憶の中から次に読む漫画を漁り始めた。次第に空が明るくなり、結衣とソフィーが目を覚ますころになると、結衣と入れ替わるようにしてソフィーは漫画を抱えたまま眠りについた。




