35. 新たな楽器との出会い その1
先ほどまでの赤い絨毯が敷き詰められていた建物に比べ、人二人分ほど通路の幅が広くなり、天井も高くなった建物の中を歩く。私は急ぎ足で足元の深緑色の絨毯を踏みしめながら、アイボリーカラーの石でできた壁に反響する楽器の音に耳を傾けていた。
歩けば歩くほど、楽器の響きが近くなっていく。どうやら、楽器の音は上の階から聞こえてくるようだ。使用人に続いて、幅の広い螺旋階段を上っていく。5歳の身体には少し段差の高い階段を一歩一歩一生懸命上り、楽師の元を目指す。
聞こえてくる楽器は今のところ一種類、一台だけだ。音色を聞く限り、恐らく金管楽器で、フレンチホルンに近い楽器だろうか。誰かが、そのフレンチホルンのようなあたたかい中低音の音色で、ルロイ・アンダーソンが作曲した『トランペット吹きの休日』に似た、スピード感に溢れ、快活で華やかな旋律を奏でている。
あれ、でもなんというか……音によって音色と音程が不自然だし、不安定だ。たまたまかな? いや、なんだか決まった音に違和感がある。練習不足か? いやいや、王宮の楽師だよ、下手くそとかそんなわけないだろう。それに、なんかこのビリビリする音って聞き覚えがあるような……
思ったよりも長い螺旋階段をのぼり切り、ようやく2階にたどり着く。そこからまっすぐに伸びる廊下には、1階と同じ深緑色の絨毯が敷かれており、一定間隔で備え付けられた窓から入る太陽の光で明るく照らされている。廊下の真ん中には、一人の少女が窓の方に向かって鈍い金色の楽器を両手で構え、右手を忙しく動かしながら演奏している。
使用人について、15歳くらいの楽師の元にさらに歩みを進める。楽師は途中で私たちに気づいたのか、演奏を止めて楽器を抱えたままこちらに振り向いた。黒い長い髪を低い位置で一纏めにした、中学生くらいの少女が持つ楽器を見て私は感動するとともに、さっきの音の違和感の正体に納得した。
神獣リュフトシュタインを除けば、本当の意味でこの世界で初めて出会う楽器。それは、現在のフレンチホルンの元となった楽器であり、バッハ様が生きていたバロック時代には既に活躍していた『ナチュラルホルン』にそっくりな楽器だった。
『ナチュラルホルン』
ナチュラルホルンとは、現在吹奏楽やオーケストラで最も一般的に『ホルン』として使われている『フレンチホルン』のバルブが無い状態の楽器を指す。バルブとは、音を切り替えるレバーのようなものだ。だから、バルブが無いということは、実質一本の長いラッパをただくるくると巻いただけの状態なのだ。
ホルンの起源は、狩りの際に合図を送るために使った角笛だと言われている。16世紀ごろまでに現在のホルンの原型ができたが、ホルンは他の管楽器に比べても形がかなり独特だ。その理由は、馬に乗りながら狩りができるようにするため、肩に掛けられるようくるくると巻いた形になり、後ろの仲間に合図を送るために後ろに音の鳴るベルが向いたからなのだそう。
ちなみに、ホルンは唯一後ろ向きに音を鳴らす管楽器だ。このホルンの成り立ちを知るまでは、どうして他の楽器のように前か上に音を飛ばす作りじゃないのかと不思議に思うくらい、他の楽器とはかなり異なる特徴を持つ楽器なのだ。
私は、楽器をしっかりと抱えて小走りで駆け寄ってくる少女を見ながら、その楽器をじっと見つめて観察する。やっぱりバルブはない。間違いなく、地球だったらナチュラルホルンと呼ばれる楽器だ。でも、その調性を変えるための替え管は付いているみたいだ。
ナチュラルホルンは、ものすごく長いラッパをくるくる巻いただけなので、そのままでは演奏できる音がかなり限られてしまう楽器だ。何にもしなければ、16個の『自然倍音』と呼ばれる音を、唇の振動と息の吹込み方だけで切り替えて鳴らすことしかできない。当然、音階とか半音階とかできないので、普通にドレミファソラシドと鳴らすことができないのだ。
19世紀中ごろにバルブホルンという、現在のバルブで音を変えられるホルンが登場するまではずっと活躍していたナチュラルホルンだが、その途中で様々な進化を遂げている。
例えば、少女が持っているナチュラルホルンには替え管が付いている。そのままだと自然倍音しか鳴らせないが、管を変えることでその幅を広げることができる。調性によって替え管の長さは違い、C管という、♯も♭も付かないハ長調の替え管が一番短くて3メートル無いくらい、B管というHに♭が付くヘ長調の替え管が一番長くて5メートルくらいなのだそうだ。この替え管も、どんなに長くてもホルンに収まるよう、くるくると巻かれている。
しかし、替え管をもってしても、演奏できる曲の調性が増えはするが、音が自体が増えるわけではない。そこで、18世紀ごろに演奏できる音自体を増やそうと、『ゲシュトップ奏法』という演奏方法が確立された。楽師がさっき右手を動かしながら不安定な音色と音程で吹いていたのが、恐らくこれだろう。しかし、これはナチュラルホルンにとって画期的な演奏方法だが……
私がナチュラルホルンについて頭を高速フル回転させているうちに、目の前に楽師の少女がやって来て思考が中断された。そして、彼女はさっと跪いて頭を垂れたかと思うと、小さな震える声でこちらに挨拶をし始めた。
「お、お初にお目にかかります、ヘンストリッジ辺境伯爵様、レイモンド様、ソフィア様。お、王宮楽師のリリーと申します。苗字はありませんので、リリーとお呼びください。
こ、国王陛下の遣いより先触れを受けましたが、その……実は、昨夜演奏会だったため、今日はみなお休みを取っておりまして……。も、申し訳ありませんが、今こちらにいる楽師が私しかいないのです……」
私たちが怒ると思ったのだろうか、リリーはその身体をぷるぷると震わせ、声は段々小さくなって聞こえなくなっていく。日本にいた時も、オーケストラのコンサートは土日の夜とかが多かった。昨日は七の日だけど、こちらでも楽師の演奏会はみんながお休みの時に催すものなのかもしれない。そもそも急に来たのはこちらなのだから、怒るどころか申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「楽師リリー、顔を上げよ。陛下の遣いから聞いていると思うが、我が娘のソフィアが楽師や楽器に興味があるようなのだ。そういう事情であれば、そなたが一人で出来ることだけで構わない。ソフィアに色々教えてやってくれぬか?」
お父様が、あまりに縮こまるリリーをちょっと心配するような声で話しかける。領内だと、領民とヘンストリッジ家はもっと距離が近い。ちゃんと貴族として尊重されてはいるが、普段はこんな風にひれ伏すというか、怯えられたりはしないからちょっとびっくりしてしまう。
苗字が無いということは、リリーはいわゆる平民出身なのだろう。それなのに、自分しかいない日に高位貴族、しかも国内最強との噂さえある、怒らせたらやばそうなヘンストリッジ辺境伯爵家が突然来るとなったら、そりゃビビるし怖いだろう。そんなつもりはなかったんだけど……ごめんね、リリー。
「リリーさん、そんなに怖がらないでください。私が急に言い出したことなのです。むしろリリーさんお一人だけでも、楽師の方にお会いできて嬉しいのです。だから、どうぞ顔をあげてください」
私はちょこちょこと跪くリリーに歩み寄り、彼女の震える腕をぽんぽんと優しく叩きながら言う。触れられたことに驚いて顔を上げたリリーに満面の笑みを向けると、リリーも少し気が楽になったのか、ちょっと表情が緩んだようだった。良かった。
「ソフィア様、リリーとお呼びください。それから、私は平民です。辺境伯御令嬢のソフィア様が、私にそのように丁寧なお言葉をお使いになる必要はございません。私にわかる範囲でもよろしければ、どうぞ何なりとお聞きください」
リリーはベルを後ろに向けて右肩にかけ、脇に挟んでいた楽器を両手で持ち直し、注意深くゆっくりと立ち上がった。そして、私たちに幾分リラックスした表情を向けてそう返してきた。
案内してくれた使用人と別れ、リリーに楽師塔の一室に案内してもらう。普段ここまでくる貴族はいないらしく、簡素なテーブルといすしかないことをリリーがしきりに詫びていたが、お父様もお爺様も気にしないように言ってくれる。
あとでお父様とお爺様から聞いたことだが、楽師の身分はあまり高いとは言えないらしく、貴族は絶対にやりたがらない仕事の一つらしい。自分たちが王宮の舞踏会で踊る間、ずっと演奏していたりするのだ。貴族ならば、当然踊る側にいたい。そういうものらしい。
リリーが用意してくれた椅子に座り、彼女に色々と話を聞いてみた。どうやらリリーは今15歳で、今年正式な王宮楽師になったばかりなのだそう。どうりでわかる範囲、とか言うわけだ。一応、王宮楽師も7歳から奉公のような形で楽団に入り、楽譜の読み方を学んだり、色々な楽器に触れて、自分の適性のある楽器はどれかを見極めていくらしい。そして、12歳から見習いになって実際に自分専用の楽器を持つらしい。
自分専用の楽器とは言え、楽器は楽師にとってもとんでもなく高いものだそうだ。金額を試しに聞いてみたが、リリーの楽器は3百万バルくらいらしい。バルはこの国の通貨の単位で、1バルは恐らく1円だが、ものの値段が日本とは全然違うようだ。3万バルあれば、一般的な平民の家族が1か月間余裕をもって生活できるらしい。そして3百万バルあれば、新築のレンガまたは石造りで、平民にはかなり大きめの立派な家が建つそうだ。お母様が以前言っていたのは、恐らくこのことなのだろう。
王宮楽師は、その楽器のお金を一旦国に建て替えてもらうらしい。そして、毎月のお給料から、少しずつ楽器のレンタル料のような形で支払いをするのだそうだ。そして、楽器ごとに決まった年数を王宮楽師として働くと、その楽器を最終的に自分のものにすることもできるそうだが、それにはとても長い間勤め上げなければならない。
「この楽器は、ホルンという種類の楽器です。どの楽器も高いことに変わりはありませんが、わかっていたこととは言え、平民の私がこんなに高価な楽器を持つなんて……盗られたり、壊されたりしないかいつも怖くて……肌身離さず持って、王宮から極力出ないようにしているのです」
「そうなんだ。でも、どうしてそんなに高価なの? 見たところ、金属の管をぐるぐる巻いただけで、作るのはそんなに難しくなさそうに見えてしまうんだけど……」
楽器を大事そうに抱きしめながら話すリリーに、私は率直な疑問をぶつけてみる。リリーの持つホルンは、現代の日本から来た私に言わせれば、あまり出来が良いとは言えない。鈍い金色のそのホルンは、金属の管をただ巻いただけで、しかも製作途中で無理矢理曲げたみたいに、あちこちに金属を何かで叩いたような細かい痕やへこみが残っている。その上、仕上げの塗装も無い。金色が鈍ったような色になっているのも、よく見るとすでに表面が酸化して錆が出始めているからだ。いやいや、3百万円のホルンだよ? 仕事雑すぎでしょ、どうなってんのよ。
「えっと、金管楽器を制作できるようなところは、ベルナルド工房と言う1か所だけしかなくて……その、材料が高価で、この形を作るのもとても大変なんだそうで……。それに、他に競争相手になる工房もいないから、値段が下がることもなくて……」
ふむ。現代の地球だと、例えば吹奏楽部とかで使うようなレベルの楽器なら、フレンチホルンは高くても50万円くらいだったはず。上を望めばきりがないが、機械生産ができるおかげでもっと安いのだってある。今も地球で制作されているナチュラルホルンでさえ、有名なメーカーのでも百万円くらいだったはずだ。当たり前だけど、こんなへこみなんかない、ちゃんと塗装とか整備された状態でだ。
いくら手作りとは言え、この状態でこの値段は、楽器大好きクラオタの私としてはちょっと納得できない。こんなに高かったら、使える人が限られすぎて音楽も楽器も全然広まらない。その上、高いのに錆がすぐ生えるような状態なら、楽師がお金を払いきるころにはもうボロボロだろう。しかも、管楽器はほんのわずかなへこみが音程や音色に影響を及ぼす。これでその値段とか……うーん、なんとかならないのかなあ。
もし何かあっても修理代なんて払えないので、リリーの楽器に決して触れたりはしない。でも、見るだけはタダなのだ。じっとその楽器を観察しながら考える。
うちの領内に金属加工ができる工房ないのかな? むしろ鉱山とかどこにあるのかな? 貧乏問題が片付いたら、グラナディラで木管楽器を作りつつ、金管楽器にも手を出そうかな? ついでにナチュラルホルンをフルダブルのフレンチホルンまで進化させられないかな。だって、これこのままだと演奏するのが難しすぎるからなあ……
色々頭の中でぐるぐると考えが巡っているが、今すぐにできることはない。私は一旦思考を切り替え、リリーとの会話に集中する。
「そうなんだ、仕方ないんだね。それより、これってさっき演奏してたけど、どうやって吹いてたの? ねえ、もう一回さっきの曲を吹いてみて?」
「構いませんが……実は、あれはホルンの曲ではないのです。ホルンは16個しか音がなくて、それをこの前弦楽器の同僚に馬鹿にされてしまいまして……なんとか音の種類を増やして、弦楽器と同じ曲だって演奏できるんだぞ、って見返してやりたくて……同僚がいない時を見計らって、こっそり練習していた曲なのです」
だから、まだ練習中なのですが、と言いつつもリリーはホルンを構えて演奏を始める。先ほどの、スピード感のある快活な曲が流れてくる。でも、やっぱりところどころ音色と音程が不安定だ。
やっぱり。ゲシュトップ奏法という、右手でベルの中を塞ぎながら音程を変える方法で演奏をしている。これはとても難しい奏法だ。音色がここだけ変わってしまうのもそうだけれど、音程も上がってしまうからだ。どれくらい上がるかを想定しながら吹かないといけない。現在のバルブホルンでも、楽譜によってこの奏法は出てくるが、バルブがあっても高い技術が求められる奏法なのだ。ナチュラルホルンを実際に目の前で吹いているのは初めて見たが、本当にとんでもない技術を求める楽器だ。もはや恐ろしいわ。
この世界の弦楽器がどれくらい発達してるのかわからないが、リリーの同僚はこれがどんなに難しい楽器なのか全然わかってないな。そいつがここにいたら、これがいかに高い技術を求める楽器なのかを懇切丁寧に説明してあげるのに!
「こんなところでどうでしょうか。音が足りない分、管をあちこち握ったり、布を巻いてみたり、色々やってみたのですが……ベルの中で調整するのが一番音の種類が増えるような気がして、こんな風に演奏しているのです。どうしても、音色や音程が不安定になるので、ホルンの先輩方からは『無駄なことをするんじゃない』といつも怒られているんですけどね……
あ、そうだ! せっかく来ていただいたんですから、よければ少しホルンを吹いてみませんか? 奉公の子たちに体験のために使わせる楽器ならお貸しすることができると思います。よければいかがですか?」
そうか、ゲシュトップ奏法はまだ一般的じゃないのか。リリーが自分で考えて試行錯誤した結果なら、リリーはもしかしてとんでもない天才なんじゃないか……と演奏後のリリーの話を聞きながら私が考えを巡らせていたところで、彼女がこの上なく素晴らしい提案をしてくれた。
な、なんだって!? ナチュラルホルンが吹けるの? ひゃっほう! フレンチホルンなら吹けるからね! もとは同じ楽器だもの、音を鳴らすくらいならできるはず! うふふ! リュフトシュタインのお陰で楽器に飢えているわけじゃないけど、初めて触る楽器なのよ、嬉しくないわけがないわ! リリー最高! うふふ、ふははは!
私は大喜びでリリーの提案に乗り、お父様とお爺様にももう少し付き合ってもらえるようにお願いした。2人は、嬉しさのあまりそわそわする私を微笑ましいものを見るような表情で見守ってくれている。
リリーが一旦席を外して体験用の楽器を用意する間、私は頭の中で大はしゃぎしながら楽譜を掘り返し、ナチュラルホルンで吹く曲を探していた。




