23. 現状把握と選曲
(ゆいー、あしたからおしごとなのだ! 1きょくはまいにちおんなじなのだ。でも、もう1きょくはどうするのだ?)
夕食後お風呂に入り、寝る前にハノンの楽譜をいくつか頭の中から引っ張り出し、テーブルを鍵盤代わりにして軽く練習してみる。
ハノンとは、ピアノを弾く人なら知らない人はいないというくらい有名な教本の一つで、指を鍛えるための練習や曲を弾く前のウォーミングアップに使うものだ。私は子どものころから、『筋トレ』と称してこれを毎日1冊練習していた。個人的に、こういう地道な練習は大好きなのだが……
「……全然だめだ。指がそもそもまともに動かないわ。ハノンすら弾けない。いやいや、『筋トレ』すらできないとか、ほんとどうすんのよ」
頭の中でソフィーが何か言ってた気がするけれど、私は私で今ちょっと忙しい。
(ソフィー、ごめん。あと10分待ってて!)
(10ぷんなのだー。まつのだー! ゆいがんばるのだー!)
そんなソフィーの声を聞きながら、私は練習用の楽譜を頭の中で探す。小学生になった時にはもうハノンをやっていたから……幼稚園の時か。えーと、確かあの棒人間が踊ってるやつ……
「ああ、思い出した! バーナムピアノテクニックだ!」
ハノンがまだ無理ならバーナムの1からやろう。バイエルの上巻も引っ張りだしておく。ほんと、身体強化がなければハノンすら弾けないレベルなのに、よくバッハ様とか弾いたなあ。暴走していたとは言え無謀だわ、自分。
うん、バーナムの1とバイエル上くらいがちょうどいいな。これを毎日朝晩机でカタカタやりながら、リュフトシュタインのストップレバーを全部オフにして、無音の状態で練習しよう。チートはないんだから、地道にやるしかない。
私は、ソフィーの身体に合わせた教本を選び終わると、ベッドに入りつつ、ソフィーに声をかけた。
「まっていたのだー! 10ぷんなのだ! つぎはソフィーのたーん、なのだ!」
ソフィーのターンって……一体どこから取ってきたのやら。いや、それを突っ込んだらだいぶ脇道にそれてしまいそうなので、今はやめておこう。
「そうね。お待たせ。明日の曲をどうするかってことでしょう? パイプオルガンの楽譜自体はたくさんあるんだけど……オーケストラのをそのまま編曲したようなやつのほとんどが、今の身体にとっては難易度が高すぎるからね……いや、むしろ普通にしてたら弾ける曲なんて1曲もないんだけど……うーん」
そう、そもそもパイプオルガンは決して簡単な楽器ではない。ピアノだって当然難しいが、パイプオルガンは両手両足、レバーにボタンを駆使して演奏する分、違った難しさがある。
本来は、両手と右足のペダル操作が基本のピアノですらまともに弾けない人間の身体で、いきなりパイプオルガンを弾きこなすなんて無謀なのだ。
でも、やらざるを得ない。私はかなり悩んだ。そもそも、『主よ、人の望みの喜びよ』だって、表現云々は置いておいて、ただ弾くだけなら簡単な曲のはずだったのだ。それが、今は身体強化を使って、なんとか弾けるギリギリのラインだとすると……
「うーん、多少の無理をせざるを得ないのは、もう仕方ないわね。今日1曲弾いた感じから言って、身体強化なしで弾くのは無理。身体強化をすればなんとか弾くだけならできそうなのは、ここらへんかな」
私はそう言うと、頭の中から楽譜の束を探し、いくつかソフィーに手渡す。
「全部弾いたことあるやつだから、記憶の中から音源をかけるわよ。一番上の楽譜からかけるから、明日の分はどれがいいか、ソフィーが選んで? 毎日一人で選曲するのは大変だから、交代でやりましょう。」
「おお! ソフィーがえらぶのだー! このなかなら、ソフィーのすきなのでいいのか? なんだかうれしいのだ!」
張り切るソフィーの頭をひと撫でしながら、私は上から順番にパイプオルガンの音源をかけていく。どれも大学時代に弾いたものだ。懐かしい。向こうの世界にいる家族は、妹は元気にしているのかな……
生前のことを思い出し、ちょっと感傷的な気分に浸っていた。しばらくすると、ソフィーが全部の音源を聴き終わったらしい。そして私に1冊の楽譜を手渡してくる。
「ソフィーはこれがきにいったのだ! あしたの2きょくめは、これにするのだ!」
私は、ソフィーから手渡された楽譜の表紙を見た。そして、そういえばこれをこの身体で弾くには、またリュフトシュタインに助けてもらわなければ弾けないことを思い出した。
『Johann Sebastian Bach : Air on the G string』
その楽譜のタイトルを見ながら、確かにただ弾くだけなら技術的な難易度は高くないけれど、今の身体でこれを候補に入れたのは、もしかしたら間違いだったかもしれないと思い始めていた。
次の日、早めに目が覚めた私は、ソフィーも起こした。一緒に机でバーナムとバイエルを少し練習するためだ。そして手をある程度あたためた後、朝食を摂って屋敷の外に出た。朝7時指定ということは、その時には曲を弾き始めていなきゃいけないだろう。実はあまり時間が無いのだ。
リタに連れられて屋敷の外に出ると、今日の私とおそろいの紺色の騎士服を着て、長い銀色のポニーテールを靡かせたお母様が馬に乗って待ち構えていた。
「さあ、ソフィー。今日からは、私が護衛も兼ねてお仕事の送り迎えをするわ! 人間で私とまともに戦えるのはアランとお義父様くらいだから、安心してね!」
リタが私を軽々と持ち上げ、馬上のお母様に手渡す。え、お母様ってそんなに強いの? いや、お母様とまともに戦えるのが家族の中にしかいない? この王国って大丈夫なの? それともお母様が強すぎるだけ? うーん、わからん。
「お、お母様がいてくだされば安心です。お母様はどれくらい強い騎士様なのですか?」
怖いもの見たさに直接聞いてみる。正直、抱き殺されそうになったことはあるけれど、お母様が闘うところなんて見たことがない。元は侯爵家のお嬢様なんだもの、黙っていればそんな荒事とは全く無縁なご婦人にしか見えないんだけど……
「うふふ、どれくらい強いかって? うーん、今はヘンストリッジ辺境伯爵家が王国内最強の強さを誇る貴族であり、騎士と言われているでしょう?
その中で私が簡単には勝てないのはアランとお義父様だけだから、国内で3番目くらいかしら。
でも、私は生まれた時から戦神アレスの加護を受けていたみたいでね。本気で戦おうとするともっともーっと強くなるんだけど、そうなると全員殲滅するまで止まれなくなっちゃうのよね。アランとお義父様にはそこまでしたことないから、実際のところはわからないわ」
えええ、アレス様ってハルモニア様のお父さんでしょ? 戦の神様で軍神でもある神様でしょ? うわあ、そりゃ強いのも納得だし、お母様がヘンストリッジ家に嫁いできたのもわかるわ。
……強さによほど自信がある人じゃないと、いくらとんでもない美人でも、怖くて絶対嫁になんかできない。ちょっと夫婦喧嘩しただけで自分が死んじゃいそうだもん。
私は、なんて人の娘なんだろう。いや、なんて一族の娘なんだろうと内心頭を抱えながら、とってもご機嫌な様子で馬を操るお母様に連れられて、無事に祈りの塔に到着した。
祈りの塔の前には、その外壁に大きな時計が付いている。6時50分。よし、少しくらいならウォーミングアップをする時間が取れそうだ。そう思いながらお母様と並んで祈りの塔に入ろうとした。
「な、なにこれ……」
祈りの塔の扉を開けると、昨日とは様子が大きく変わっていた。昨日だって、それなりに人がいたが、それぞれ思い思いにおしゃべりしたり、祈ったりしていて、結構自由な雰囲気だった。
しかし、今日は最奥から入り口まで通路を挟んで2列でずらりと並ぶ長椅子に、ぎっしりと人がひしめき合うように座り、そこからあふれた人が壁際や通路脇や入り口付近に膝をついてしゃがんでいる。
私たちが入ってきたのを見ると、通路付近にいた人たちは、まるで波が引いていくように道を開け、椅子に座っている人も、立っている人もしゃがんでいる人も、誰もかれもが私のことを、私の一挙手一投足を見つめているのを感じた。
(ひぃっ! 女神の使徒っていう存在を甘く見てた……!)
この領都にいる人が全員来たのではないかと思うくらいの混雑ぶりだ。きっと、グレゴリウスもそうだけど、昨日ここに来ていた人からも噂となって伝わったのだろう。これはやばい。いくらみんなが知らない曲とは言え、下手なことはできない。
「……お母様。今日も指を痛めてしまうかもしれません。もしその時は、また回復魔法をお願いしてもいいですか?」
私は隣にいたお母様の方は見ず、前を見据えたままそっと尋ねる。お母様がそばでくすりと笑ったのを感じた。
「もちろんよ。あなたが民のため、世界のためにお仕事をするんですもの。その娘を支えるのは、親の役目でしょう?」
「ありがとうございます。がんばります」
私はそう短く答えると身体強化を付けたことを確認し、貴族らしく美しい姿勢で、リュフトシュタインに向かって堂々と歩き始めた。