跫(あしおと)
跫 最終夜
彼が帰ってきたのは、それから1時間経った頃でした。
彼は遅れたお詫びにと、コンビニでケーキを買ってきた。あれだけ怖い思いをした見返りがケーキ1個なのは納得できませんが、それは彼のせいではないから許すことにしました。
私の方は、あの恐怖はどこへ行ったものか、しっかりと夕食の支度をしていました。コンビニで買った食材と彼の部屋にある食材も使い、私流にアレンジ。お腹を空かせた彼は喜んで、食べ始め、私が料理上手だと思ったことでしょう。彼の胃袋はすでに私がしっかりと押さえたようです。私たちは向かい合って座り、まるで新婚さんのように仲睦まじく、ディナーを愉しんだのでした。
そして、デザートは彼の買ってきたケーキ。そこで、私は自分がいかに怖い思いをして、この部屋にたどり着いたのかを、わざと同情させるように、擦りむいた痛々しい膝を見せつつ、話したのでした。
最初は「それは大変だったね、頑張ったね、偉いね」なんて、幼児をあやすような冗談交じりの言い方をしていた彼でしたが、いつからか、その表情が強張っていることに私は気づきました。フォークで突き刺したケーキが口の前で止まっていました。
「どうしたの?顔色が悪いけど。もしかして、私の作った料理のせい?」
私は冗談めいた言い方をしましたが、それにも彼は無反応。顔を動かさずに目玉だけを私に向けて、眉を寄せました。
「足音はどこへ消えたって?」彼は擦れた声で私に訊きました。
「足音?ああ、それなら、隣の部屋に・・・・」
あれ?私は何か大きな勘違いをしていないだろうか?その時の私はそう思ったのです。そして、徐々に彼が何を言わんとしているのかに気づきました。
私は壁を見ます。あの足音が消えた隣室のある壁の方に。そこで、私はあり得ないモノがその壁にあることに気づいたのです。
あの夜の私はバカでした。彼氏が出来たことに有頂天になり、足音に怯えた直後は恐怖で思考が止まっていました。だから、こんな簡単な矛盾に気づかずにいたのでしょう。
壁にはカーテンがかかっていました。外の光を全く通さない厚手のカーテン。カーテンがあるのなら、それをめくれば何があるのか当然、分かるでしょう。
窓です。普段はあまり開かないのですが、そこに窓があるのは私も知っていました。
「ここは一番奥の部屋だ。ここより先に部屋はないんだぜ?」
彼氏は言いました。そんなのもう言われなくても分かっています。その時の私はそう思いました。彼の無神経さに腹も立ちました。さらに無神経な彼は立ち上がって、窓の方へ行って、カーテンを開けようと・・・・・。
「やめて!開けないで!」
私は叫びました。耳を塞ぎ、反対側の壁に背をつけて、メイクしなおした顔はまた崩れたことでしょう。しかし、そのときはそんなことを気にする余裕もありませんでした。
「き、・・・・気にするなよ・・・・、お、音しか聴いていないんだろ?」
彼は私を宥めようとしたのでしょう。しかし、宥めようとする彼の声まで強張っていては、説得力はありません。私には逆に音しか聴いていないことの方が恐ろしく思えたのです。何も見ていないということは、頭の中で幾らでも恐ろしい想像が出来るからです。それはその後の私を苦しめ続けました。明るくてもあの足音に似た音がすれば、心臓が止まるくらいドキリとするし、錆びついたドアが開かれれば、そこから足音が聴こえてくるような予感に怯えるのです。
私は、その夜、宥める彼を押しのけて、この部屋から逃げました。そのまま、暗い夜道を駅に向かって走ったのです。ヒールを履いていましたが、もう気にもしませんでした。私の足がどうなろうと、一刻も早くここから早く逃げたかったのです。何度転んだか分かりません。彼も追ってきたみたいですが、それも今ではよく覚えていません。私はどこでいつ拾ったのか覚えていませんが、タクシーに乗って自分の部屋に帰っていました。そして、どのように寝たのかも分からぬまま、朝を迎えたのです。
その夜以来、私は彼の部屋には行っていません。彼とも会っていません。彼とは携帯で「別れましょう」と言ったきり。後は自然消滅です。その後、私はあの町にも、あの町の周辺にすら行っていません。
噂では彼はあの後、すぐ引っ越したようです。さすがに彼も怖かったのでしょう。その後、彼がどうなったのか、消息は全く分かりません。知りたいとも思わないのですが。
ただ、それから数年後、彼の部屋で男女間の諍いから殺人にまで発展したという噂を聞きました。その後、彼の部屋に悪い霊が憑いているという噂も聞きました。私はそれを聞いて苦笑しました。本当に悪霊が憑いているのは、彼の部屋ではなくて、その隣の存在しない部屋だというのに。噂によるとその部屋で霊能力者が大がかりな除霊の儀を行ったようです。それにも私は苦笑しました。だって、隣の部屋を除霊しなければ、何の意味もないじゃないですか?
あれから、数年の月日が流れました。その間、私はずっと独りです。これは別に彼が忘れられない訳ではありません。ただ、私はとんでもないものを返し忘れていたのです。
それは彼の部屋の合鍵。
あのとき返しそびれて、そのままなのです。かといって、彼とも連絡は取りたくないし、消息不明なので、送り返すことも出来ない。それなら、捨ててしまえばいいのですが、それも怖かったのです。なんだか祟られるんじゃないかと思って。ただ、いつまでもそういう訳にはいかなくなっていました。
私の手には今、二つの鍵があります。一つはあのときの彼の部屋の合鍵。もう一つはやっと出来た新しい彼の部屋の鍵。私は元彼の部屋の鍵から恋愛成就のストラップを引きちぎりました。そして、新たな彼氏の合鍵に取りつけます。古い鍵は燃えないごみの中に捨てました。
新たな恋が始まるのなら、古い鍵を捨てても罰当たりにはなりませんよね?