跫(あしおと)
跫 第3夜
彼の部屋に逃げ込むことに成功した私は安堵のため息をついた。今ので、大分寿命を消費したかもしれない。でも、つかずにはいられないだろう。あれだけ怖い目をした後なら。
「それにしても・・・・」
私は自分の足を見た。膝が擦りむけている。階段で躓いたときだろう。せっかくの綺麗な生足が台無しだ。おまけに靴擦れまでしている。慣れぬヒールで速足は堪えたらしい。本当に散々な目にあってしまった。気を取り直して、夕飯の支度でもするとしよう。・・・・と思ったのだが、私の眼前は暗闇しかなかった。
誰もいない部屋なのだから、逆に電気がついている方が怖いのだが、それでも今は暗闇が嫌だ。私は玄関に腰を下ろしたまま、中に入るのを躊躇する。一瞬、この暗闇の先にはあの足音の人物が存在しているのではという妄想を抱いた。しかし、それはあり得ない。そんなバカなことはない。だが、その妄想を私はなかなか振り払えなかった。
とはいえ、時間も経てば恐怖心も和らぐ。心臓の鼓動が安定するとともに体の自由も取り戻すことが出来た。もう変な妄想に脅かされることもない。私はようやく立ち上がることが出来るようだ。
カツ。
静寂を破る音に私の体は止まった。私は扉の向こう側へ振り返る。
カツカツカツカツ。
足音が聴こえる。あの私の背後にずっとついてきたあの忌まわしい足音が。私はドアに耳を立てて、音がどこから聞こえるのか探る。どうやら、アパートのすぐ傍らしい。まだ私を探しているのだろうか?私は恐怖心に震えた。再び体が動かなくなる。心臓の鼓動が激しくなる。
カツカツカツ。
足音はまだ聞こえる。まるで何かを探しているように彷徨っているようにも思える。身動きをせず、気配を押し殺し、今は過ぎ去るのを待つしかない。
カツカツカツ、カツン。
音が変わった。まるで、歩いているのがアスファルトから鉄板に変わったかのような・・・・。私はそこで凍りついた。確か、このアパートの階段はビルの非常口にあるような鉄製ではなかっただろうか?
カツン、カツン、カツン。
足音が一歩一歩、近づいてくる。明らかにこのアパートの階段を上っている。一歩一歩ゆっくりと私を追いつめるカウントダウンのように。
バクバクバクバクバク・・・・。
心臓が飛び出そうなほど激しい鼓動。音がうるさくて、これだけでも息の根を止められてしまいそうだ。そして、足音は階段から、2階の廊下に移った。音が再び『カツ』に変わる。
だが、もしかしたら、この2階の住人かもしれない。1号室なら、ここにたどり着くこはないだろう。しかし、足音は迷うことなく、1号室の前を抜けた。なら、2号室・・・。しかし、その前も止まる様子はなかった。そうなると・・・・・。
「いやー!」
私は耳を押さえた。目を閉じて、神様に祈った。あいつは確実に私の存在に気づいている。そうやって精神的に私を追いつめながら、なぶり殺しにするつもりなのだ。おそらく明日の朝刊には「若い女性、アパートの部屋で殺害!変質者の仕業か?」という見出しが載るのだろう。
そして、足音はこの部屋の前に、ドアの反対側に、迫った。もう数10センチの差しかない。私は呼吸の仕方すら忘れていた。声も出ない。息も出来ない。それほどの恐怖が、このドア一枚、向こう側に存在する。
カツカツカツ・・・・。
足音はこの部屋を通り過ぎた。私は呆気に取られた。あれ、私に用があるんじゃなかったの?しかし、足音はこの部屋ではなく、その先で止まった。そして、開かれる隣室の扉。これがまたギィーと錆びついた耳障りな開き方をする。そして、足音は隣室に吸い込まれるように消えた。
「な、なんだ・・・・、散々、怖がらせて、隣の部屋の住人だってオチ?バカバカしい・・・・・」
私は強張った表情で笑った。あれだけ怖い思いしたのにバカみたいだ。私は立ち上がる。部屋の暗闇も今となっては何でもない。ただの電気がついていない部屋にしか過ぎなかった。そして、私は未だに帰らない彼のために夕食の支度をすることにした。
*
しかし、それはまだ終わりではなかったのです。