憎しみの心を持たないなど、私には無理だった。
昨夜の雨の影響か、今日は朝から小さな羽虫が湧いている。
空気に湿気が多いのだなと頭の中で考えて、男は黙然と歩く。
前を歩く仲間たちの足取りは重く、それに気付いてしまった男の足はもっと重くなってしまった。
誰も一言も発しない。喋る余裕は昨夜の雨で流された。
ああ、それでもきっと、もう少し追い詰められたら不安から逃れるために誰もかれも饒舌になるのだ。
隊列の先頭は、小一時間ほど前まで隊員を怒鳴り散らすことで己を鼓舞していたぎょろぎょろとした目の矮小な小隊長だ。
男は虚勢も張れなくなった小隊長の背中を見て思う。
このまま道に迷ってしまって、目的地になど着かなければいいと。もしも本当に最後の最後まで道に迷っていられたら、我々はいったいどのように扱われるのだろうか、と。
多分きっと罰が下る。男にも矮小な小隊長にも、他の隊員たちにも。この寄せ集めの小さな、部隊とも呼ぶには烏滸がましい集まりは、あっさりと罰せられるだろう。
それとも、そんな暇などなく見逃されるだろうか?
軍人ではない男にはわからない。
本来であれば、男は羽虫が飛び交う森の中ではなく、黒板の前に、教壇に立っているべき人物なのだ。
朗々と詩を読み上げ、その意味合いを子供たちに教授する教育者。
しかし、教材や辞書が入った鞄は、予備の弾薬と包帯と消毒液などが入れられた鞄に変わり、手に持つ物は白墨から突撃銃に変わった。変わって、しまった。
嘆く余裕も時間もない。
死神はいつでも鎌を首にかけてくるのだから。
気配など感じるわけもないのに、背中に死神を背負い歩く。
小さなうめき声が聞こえたのはそんな時。男は足を止め、うっそうとした森へと目を向けた。
嫌な、とても嫌な色が目に入る。
「…………」
見なかったことにできないだろうか。ほんの少し時間を巻き戻し、耳をきつく塞いで、ただまっすぐに仲間の疲れた背中を見て歩く。そんなことができないだろうか。
立ち止まった男に最初に気付いたのは前を歩く仲間の一人だった。そして、先頭を歩く小隊長が気付くまで大して時間はかからなかった。
なにをしていると、叱責が飛ぶ。
男はかつては詩を朗読したその口で「なにかいます。」とあきらめて答えた。
隊員たちに緊張が走る。
喜色を浮かべたのは矮小な男だけだ。
小隊長は命令する。奥になにがいるのか確かめてこいと。
足が重く、心も重い。男は一つの希望だけを胸に茂みをかき分ける。
果たしてそこにいたものは希望通りのものなのか。敵兵の服の色をはっきりと目にし、男は細く息を吐いた。
男が近づくとそれは喉をひきつらせて怯えた目を向けてきた。逃げようとはしないその足には、うねうねと蠢く小さな白い幼虫が無数に這っていた。
おぞましさと酷い臭いに男は顔を顰めた。
「なんだ! なにがいた! 報告しろ!」
耳障りな怒声に男は勤めて平坦な声で答える。
「敵兵一名確認しました。足を負傷しており、虫の息です。」
「なんだとお!」と、唾を飛ばしながら通りやすくなった茂みを進み、小隊長は男の隣へ立つ。
腐った肉に沸いた蛆を見つけ小隊長は嫌悪に頬をひきつらせる。
「無様だな。蛆をわかせてなお生きている。おい! お前たち全員来い!」
茂みの向こう側で様子をうかがっていた隊員たちは嫌々ながらも蛆をわかせた敵兵の前に姿を現した。
蛆をわかせた男は後ずさることもできずに獲物として見下ろされている。
「…………もう、放っていてもこいつは死にます。」
「だからなんだ。」
「さきを、急ぎませんか。」
言って、男はすぐさま後悔した。小隊長のぎょろぎょろとした目が蛆男から己へと向けられたから。
「おまえは私に命令できる権限があるのか。」
「――― ありません。」
「そうだ。うむ。このままというのも可哀そうじゃないか。よし。撃て。」
男は呆けたように小隊長をみやる。
「文字通り蛆の国の蛆だが、姿かたちは我々人と酷似している。情けをかけてやれ。」
小さなうめき声が聞こえる。意味の分からない言葉だが、命乞いをしているのだろう敵兵を見下ろして男はだらだらと汗を流した。
指先は動かない。
「銃をかまえろっ! 撃てぇ! 見つけた敵は殲滅せよ! 撃て! おまえは蛆に怖気づくのか! 撃て!」
「ぁ……うぅ」
「撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃てっ」
こんなことをしてなにになる? 死にぞこないを打ち取って。敵が減ったと喜べばいいのか。
「蛆を殺せ! 蛆を生かすな! 蛆を殺せ! 蛆を生かすな!」
抵抗もなにもできなくても『敵』ならば、なぶり殺してもいいのか。
「撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃て撃てっ」
怯えた目と視線があった。足が震える。手が、肩が、恐ろしさで震える。
「お前の街を焼いた敵を討て!」
吹き飛ばされ燃えた校舎。黒く煤けた子供たち。
瞬間。震えが止まった。
白墨を掴んでいた指は躊躇いなく引き金を引いた。




