ロンドン海軍軍縮条約
日支同盟、日独協力協定を締結した田中内閣は惜しまれつつも田中義一の体調が悪化したことにより[狭心症の為]その幕を閉じ、1929年7月2日に政権を握った濱口雄幸内閣に後を譲る事となった。
濱口は満州国と中華民国に経済協定、ドイツとは貿易協定を結び、恐慌から脱却しようと考えた。この政策が功を奏し、なんとか不況から脱却する事ができた。この際、失業者対策の為に鉄道省の東海道本線を熱海まで電化複々線とする工事を行うなど国内輸送の大動脈の整備を行った。
その頃ロンドンではワシントン海軍軍縮条約に引き続き、ロンドン海軍軍縮条約が行われようとしていた。
1930年1月21日 大英帝国 首都 ロンドン
濱口内閣にとって試練とも言えるロンドン海軍軍縮条約が開かれた。内閣は駆逐艦の保有量を米国の7割に持ち込めたとして、海軍省は賛成の方針であった。しかし重巡洋艦の対米保有量が6割、潜水艦保有量が希望量に達しなかったので軍令部としては反対だった。
一部マスコミからも非難が殺到、野党からも統帥権干犯ではないかと提起したが、昭和天皇はこの条約については一切を内閣に任せてあるという考えだったので野党は以後表立って反対する事は控えた。
紛糾する議論に全権の1人、財部海軍大臣は条約の部分参加を提案。国際協調路線を取ろうとしていた濱口は当初反対していたが軍令部からの陳情や国内世論を考慮した結果、財部海軍大臣の提案を認め、日本は重巡洋艦、潜水艦の分野でのみ参加しない事となった。
アメリカ、イギリスは日本のこの決断に断固として反対の立場だったが日本がイタリア、フランスと密約を交わし、3国の主張が通らなければ条約自体から脱退すると共同声明を発表したことを受け、アメリカとイギリスは3国の部分参加を認めざるを得なかった。
なお、この条約におけるフランスの保有量の少なさにフランスの対米英感情は少なからず悪化した。日本の新聞はこの条約における内閣の判断を全面的に支持し、濱口政権の支持率は大いに上がる事となった。
1930年4月23日 大英帝国 首都 ロンドン 在英米国大使館
ロンドン海軍軍縮条約の調印を終え、大使館へ戻ったヘンリー・スティムソン国務長官の心は穏やかでは無かった。彼は部屋のドアを荒々しく閉めると、こう言い放った
「黄色い猿どもが‼︎」
部屋の外にいた職員がドアを開け様子を伺おうと部屋を覗いたが、彼の心情を察したのかすぐにドアを閉めた。
「フランスもイタリアも猿どもに味方しやがって‼︎」
「俺は大統領にどう言い訳しなきゃならんのだ‼︎」
しばらくして、彼は落ちつこうと机の引き出しから葉巻を取り出した。
今回の条約で、米国のメンツは丸潰れも同然であった。フーバー大統領はこの結果を受けて対日戦略を大きく練り直すことを決定した。それから2ヶ月、米国ニューヨーク港から一隻の貨物船が朝鮮に向けて出航した。
次回はアメリカへと赴いた野山中佐[第2部で少佐から昇進]の話です。若干時が戻ります。