思惑
白い館の主こと、米合衆国大統領は世界地図を複雑な心境で見ていた。一方、日独は新たな関係を築こうとしていた。
1927年 10月2日 アメリカ合衆国 ワシントン州 ホワイトハウス
大統領執務室で第30代合衆国大統領カルビン・クーリッジは大きく描き直された中国の地図を眺めていた。彼は不本意ながらも排日移民法に署名した大統領として日本からいい目では見られてなかった。
「やはり、原因はあれにあったようだ…。」
彼は日本が満州に目を向け、国家まで作った原因は排日移民法だと確信していた。彼はあの日の事を思い出した。排日移民法に渋々調印した日のことを。排日移民法が発表された時、日本からは当然批難の声が上がった。
彼は議会に押し切られた形で調印したのだと言い訳できるはずもなく、後に談話を発表したが日本からの不満は蓄積して行く一方だった。あの新渡戸稲造ですら「米国の地は二度と踏まない‼︎」と言った程である。
しかし彼は合衆国大統領である。やるせない気持ちを引きずっていては内政や外政に影響を及ぼしかねない。気持ちの整理を付けたのか彼は世界地図を閉じ、深く椅子に腰掛けて自分にこう言い聞かせた
「例え結果が違ったとしても、自分は最善を尽くしたんだ」
彼はそのまま居眠りをしてしまった。
日支同盟そして日中満3国同盟の締結は欧米諸国の植民地に大きな影響を与えた、現地では欧米諸国からの独立運動が勃発しており、欧米諸国ではその対応に追われていた。
独立運動自体は日本が国際連盟に人種差別撤廃を提案した時に呼応して大々的に行われていたが、成立されなかった事と欧米諸国が軍隊を使って抑えた為次第に下火になって行き、運動家も逮捕または処刑されたため以後は行えなかった。
このような独立運動を恐れた欧米諸国は植民地に更に軍隊を派遣し、中には戒厳令に等しい処置を下す国もあった。日本でも台湾や朝鮮で同じような運動が起きたが、日本の統治の良さもあってか暴動や略奪といった事は起きず、日本は30年以内に独立させる事を約束した。
1927年 12月20日 中華民国 首都 南京
二ヶ月に渡る協議で日本はドイツと秘密裏に日独協力協定を締結し中華民国の首都 南京で調印した。この協定により中華民国軍はドイツと日本、双方の軍事支援により更に強力な物になった。
焦った中国共産党はソ連に支援を要求したが戦力差は開いていく一方だった。ドイツは満州にも兵器工場を建設し、満州国軍もより強力になっていった。日独間でも技術者の交流が盛んになり。陸海軍に一種の革命を及ぼした。
英国はこの情報を掴んではいたものの、外交ルートでの抗議は何故か無かった。この協定は後に政権を握ったナチス・ドイツにより日独同盟として発展する事となる。
2つの偉業を成し遂げた田中総理は昭和天皇から大勲位菊花章頸飾が受賞された。