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世界の暁  作者: ゆきかぜ
第7章
30/31

中蒙戦争

1937年 11月 中国大陸


中華民国を筆頭に日本や満州国との戦いで連敗を続けていた中国共産党は、ソ連の衛星国であったモンゴル人民共和国へ逃げ、そこで亡命政権を樹立してさらなる抵抗を続けようとした。


かつて共産党が支配していた地域は、日本の資本と中華民国の労働力によって急速なインフラ整備が進められる事になり、住民達の生活水準は向上し、民心獲得にも一役買う事にもなった。


中華民国から駆逐されていたかに思われていた共産党は、民間人に紛れるなどしてゲリラ戦法による混乱を起こしていた。1937年 11月から翌年2月まで放火や無差別殺人、駐屯地への襲撃による被害者数は軍民あわせ、1,200人に達していた。


中華民国はモンゴル人民共和国に対して、共産党員残党の引き渡しを何度も要求していたが、モンゴル人民共和国は一貫して拒否し続けた。



1938年 3月 ウランバートル郊外


度重なるゲリラ活動に、とうとう業を煮やした中華民国はモンゴル人民共和国に対し戦線を布告。中蒙戦争が勃発した。


兵力3万人を有する中華民国軍は、そのおよそ半数しかないモンゴル軍・残存中華人民軍に対し圧倒的有利に戦闘を進め、3月末にはウランバートルまで達しようとしていた。


しかし、ウランバートルは既に2万人を有するソ連軍が中華民国軍を迎え打つべく待ち構えていた。



同年 5月


ウランバートルでの戦いは双方で膠着状態となり。攻守が入れ替わる形で戦闘が続いていた。日本は在満陸軍を差し向ける事もできたが、第一航空戦隊の赤城 加賀を筆頭とした艦隊を日本海沖に派遣し海上からソ連を威嚇するに止めた。


一方、ドイツやイタリアなどは武器援助や義勇軍の派遣などを大々的に行っており、中蒙戦争は極東におけるスペイン内戦のようになった。ソ連側は国際連盟を通じて2国を非難し、その矛先は両国と関係がある日本にも向けられた。



同年 9月


国際連盟ではようやく中蒙戦争についての話し合いが行われたものの、独伊ソの大使が互いに口角泡を応酬しあうだけで進捗は無く、時間がいたずらに過ぎていった。


戦況を打開すべく海上を進んでいたソ連軍上陸船団は赤城と加賀の艦載機に常に補足され、恐れをなしたのか引き揚げてしまった。


それに呼応してか、完全に膠着した前線での戦闘次第に下火になってゆき。日本が主体となって現地での休戦協定にいたった。


モンゴルで行われた戦闘はやがて、ヨーロッパに眠っていたとあるものを目覚めさせるきっかけになった。



《参加兵力》


中華民国軍

歩兵;約3万人

戦車;120両

航空機;180機


ドイツ・イタリア義勇軍

歩兵;5,000人

戦車;80両

航空機;40機


日本軍(※直接戦闘には参加せず)

空母;2隻

重巡;2隻

駆逐艦;8隻



ソ連軍

歩兵;約2万

戦車;210両

航空機;120機

(※他に輸送船6隻、駆逐艦2隻)


モンゴル・残存中華人民軍

歩兵;1,3000人


●損害

中華民国軍

歩兵;約3,000人

戦車;45両

航空機;12機


ドイツ・イタリア義勇軍

歩兵;125人

戦車;18両

航空機;9機


日本軍

無し



ソ連軍

歩兵;約2,000人

戦車;60両

航空機;50機


モンゴル・残存中華人民軍

歩兵;4,800人



















日本の内政についてもう少し詳しく書きたいと思います。

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