ドイツ海軍 航空母艦史 【中編】
1933年の時点で船体が完成していたグラーフ・ツェッペリンは日本海軍の艦政本部が考案した建造案である“第3案”を基に当初の予定に修正を加えて建造が再スタートした。当初ドイツ海軍は駆逐艦との砲撃戦にも耐えられる装甲と火力を求めていたが、提供された論文を検討した結果、以下の結論に至った。
①;航空母艦は被弾に弱く、たとえ一発の被弾でも撃沈する可能性がある。
②;航空機は砲の衝撃に弱い。
③;過剰な防御は船体の大型化を招き、結果的に空母としての能力を下げる。
④;飛行甲板にはある程度の装甲が必要。
搭載されていた15㎝砲は撤去され、装甲に関しても見直しが行われた結果、搭載機数の増大と速度の向上が達成された。この頃、2番艦の建造も開始され、自信を付けたドイツ海軍は、この2隻に加えて重巡の船体を基にした軽空母と客船から改造する中型空母の建造計画を立てた。
しかし、大きく駆け出した空母建造計画を影に落とした出来事が起きてしまった。戦後出版されたレーダー元帥執筆の自伝でもこの出来事は大きく取り上げられている。
グラーフ・ツェッペリンに艦橋が設置された頃、ゲーリング国家元帥が艦載機は空軍の所属にするべきと突然言い出した。理由は航空機は全て空軍が一括管理すべきという信条を持っていたからで、空母自体は高い関心を持っていた。ヒトラー総統に艦載機を海軍所属とする事を約束された海軍は混乱した。
当のヒトラー総統も国家元帥からの要請という事もあって、艦載機の件を一旦保留にする事とした。当然の事ながらレーダー元帥を筆頭に海軍高官はあらゆる方法で空軍に抗議したが、逆に目を付けられる事になり。自宅に脅迫文が届くなど、対立は次第にエスカレートしていった。
空軍と海軍の深刻な対立は国防軍全体にも影響し、登庁するにも高官には陸軍の兵士が護衛に付かないといけない異例の事態にまで発達した。
この件を重く受け止めたヒトラーは一時的に艦載機の所属を空軍にする事で事態の収束を図ろうとしていたが、考えが180°変わる大きな事件が起きた。
1934年2月8日の深夜、グラーフ・ツェッペリンで不審火が発生した事件が起きた。火災は格納庫で発生し、床と天井が焦げただけで重大な被害はなかった。当初は電気系統の不具合と思われていたが、人為的に油が撒かれた事が発覚すると事態は急変した。
事件を聞いたヒトラーは親衛隊を捜査に充てた。4日たって犯人は逮捕された。犯人は造船所の職員で尋問の結果、空軍の軍人から依頼を受けたと告白。詳しい内容は捜査資料が喪失した為、明らかにはなっていないが、空軍の権威は地に堕ちることとなった。
ゲーリングが依頼したとも噂されていたが、依頼主の将軍が自首した事とゲーリング本人もグラーフ・ツェッペリンの不審火を聞いた時には寧ろ動揺していたらしく、捜査でも関与を示す証拠が出なかったため疑いは晴れた。
ヒトラーは暴走した空軍に厳しい態度を示したと共に艦載機の所属を海軍所属にする事を正式に発表した。こうして、内紛にまで発展した対立は幕を閉じた。
【次回】“ドイツ空母の実力”




