ドイツ海軍 航空母艦史 【前編】
1936年7月25日、ドイツ海軍初の航空母艦であるグラーフ・ツェッペリンが就役した。記念式典は華やかに行われ、日本海軍の駐独大使館付海軍武官である小島 秀雄も招待されていた。レーダー元帥は式典の初めにこんなスピーチをした。
《“この艦が完成するまでに様々な困難があった。工事が中断しかけた日もあった。今こうして彼女がいるのは、我がドイツ海軍の執念と偉大なる総統のご理解のおかげである。私はここに宣言しよう、この新たな期待の星が、いかなる敵も波間に沈める事を‼︎”》
このスピーチでも述べられている通り、グラーフ・ツェッペリンを就役させるまでには沢山の乗り越えなくてはならない壁があった。ドイツ海軍が航空母艦に着目したのは再軍備を宣言する2年前、まだワイマール共和国海軍時代の事だった。但しこの時はヴェルサイユ体制下であったため、幾つかのプランを構想するのみで終わった。
転機が訪れたのは1931年のヒンデンブルク大統領による再軍備宣言後の時であった。その時、2つの艦艇増備計画がドイツ海軍内であった。一つはUボートや魚雷艇などを主体としたもの、もう一つは戦艦や空母を含んだ大規模水上艦隊を主体とする物であった。
仮想敵国のイギリス、フランス海軍に対抗する為に、後者の案が採用される事となった。ここで2つの障害が立ちはだかった。それは、航空母艦のような大型艦船の建造がベルサイユ条約によって途絶えていた事による技術の衰退と慢性的な水兵の不足であった。
そんなドイツ海軍に手を差し伸べたのが日本海軍である。日独協力協定が適用され、日本が欲していた電気溶接の技術と引き換えに、空母に必要な航空艤装品の入手に成功。更にヒトラー総統訪日の際、調査団に空母 赤城の見学が許可された。
それだけに留まらず、日本海軍の艦政本部は空母に関する論文や独自に考案した複数の建造案をドイツ海軍に提供した。これらの提供により空母建造計画は更なる前進を遂げる事となった。
【次回】“空軍との駆け引き”




