4.魔道の道義性と「師弟関係」の可能性、そして道徳面の補完
これまでの議論と同じように、「魔道」の“道”に注目してみます。この際、「魔術」、「魔法」に対し、「魔道」は際立った別の特徴が現れる、ということに注意しなくてはなりません。
読者のみなさまにはいったん、「魔道」という非現実的な対象から離れていただきたいと思います。そこで、現実に存在する各種の「○道(柔道、剣道あるいは弓道、茶道など)」を考えてもらいたいと思います。
こうした「○道」における究極の目標とは何でしょうか? おそらくは、単にスキルを磨くことが目標ではないはずです。その証拠に、たいていの「○道」では活動の開始・終了時点で「黙想」という、精神を平常な状態に保つための儀式が設置されていることがあげられます(ただ技術を追求してゆくだけであるのなら、この時間を準備体操などに充てたほうが効率的なはずです)。
したがって「○道」は、「○○という技術に習熟してゆく過程で、個人の人格や徳を成熟させる」ということが根底に存在するのではないでしょうか。
この考えを「魔道」に当てはめてみると、「超自然的なパワーに習熟してゆく過程で、個人の人格や徳を成熟させる」ということになります。この考え方に顕著なのは、超自然的なパワーを扱う「スキル」よりも、それを使いこなす「人間の人格」が重視される、という姿勢です。「人格」ではなく「スキル」にのみ注目する「魔術」とは、じつに対照的な位置に「魔道」は君臨することになります。
こうした事情であるがゆえに、「魔道学校」というものもなかなか存在しえないのではないでしょうか。「魔道」の追求する範囲が「徳育」に及ぶ以上、「魔道学校」が追及することは「生徒を人格者として育て上げること」です。ですが「人格」とはそもそも何であるのか、「徳」の観念は教えられて理解するべきものなのか、「徳」は人に教えられるレベルまで体系化できるのか、など、考えなければならない問題は山のようにあります。だからこそ、「魔道学校」という観念は大多数の読者(日本人だと筆者は考えます)になじみが薄く、したがって検索でも最もヒットしにくいのではないかと考えます。
「魔道」が個人の人格を追求するものだ、ということを別の視点から考えてみましょう。和製ファンタジーを世界観にすえた二つのゲーム、「ドラゴンクエスト(ドラゴンクエストⅢ)」と「ファイアーエムブレム(GBA版の『封印の剣』、『烈火の剣』)」を例として扱います。
なぜこの二種類を選んだのかといいますと、どちらの作品にも「職業」として「魔法使い(ドラゴンクエスト)」、「魔道士 (ファイアーエムブレム)」が登場するからです。
ですが、ここでも表記の違いに注意してください。ドラゴンクエストⅢでは「魔“法”使い」である一方、ファイアーエムブレムでは「魔“道”士」です。
両者の違いに注目してみましょう。ドラゴンクエストⅢにおいて、超自然的な力を利用できる「職業」は「魔法使い」以外にも「僧侶」、「賢者」がおります。詳細な分析をすることはここでは省きますが、「魔法使い」が「賢者」になるには「悟りの書」というアイテムが必要です。
「悟りの書」は「魔法使い」限定のアイテムではありません。僧侶が「悟りの書」を利用しても「賢者」にクラスチェンジできます。つまり「賢者」になる以前の職業が何であれ、「悟り」という精神・道義的に高級な行為が可能であれば「賢者」になりうる資格がある、ということです。
一方のファイアーエムブレムではどうかというと、「賢者」にクラスチェンジできるのは「魔道士」だけであり、「僧侶」には「司祭」という別の上級職が用意されています。つまり、「魔道」をある程度極めている「魔道士」のみが「賢者」になれるということが分かります。
いずれのゲームにしても、「賢者」になるために必要なことは「人格・徳が習熟している」という条件に規定されていることが分かります。ただし、ドラゴンクエストⅢにおいては、人格的に高位に達していれば「魔法使い」以外の職でも「賢者」になれますが、逆にファイアーエムブレムにおいては「魔法を通じて人格が成熟した魔道士」のみが「賢者」になれるのです。
こうした状況下において、では「魔道」はどのように教えられるべきものでしょうか。私は、「魔道」においては師弟関係が理想的なのではないかと考えます。師弟関係は「魔術」における徒弟奉公とは少し違います。徒弟奉公が技術の習熟を目的にしているのに対し、師弟関係は弟子が師匠を見習って修行することで、自らの人格形成に役立てる、という趣があるように思います。