3.魔法の体系性と、「魔法学校」の有意義性、そして道徳面に残された課題
次に「魔法」について考えてみましょう。
ここでも「魔術」の“術”に注目したように、「魔法」の“法”に注目してみたいと思います。
ですが、読み手のみなさまは“法”と聞いたとき、いったい何を連想するでしょうか。人によっては二種類の異なる考えを思い浮かべる人もいるかもしれません。一種類目は「法律」、二種類目は「法則」です(文系の人間は「法律」、理系の人間は「法則」を連想しやすいそうです)。
まず、「魔法」の“法”が「法律」だった場合を考えてみましょう。
「法律」という言葉をそのまま杓子定規に利用してしまうと融通がきかなくなってしまうため、ここではもっと広い意味で「法律=超自然的な能力を駆使するすべての人びとに共通して認知される規範 (ルールやタブーのこと)」として捉えたいと思います。
しかしながら、この定義には何かしらの意義があるでしょうか? 私としては、「魔法」の“法”が「法律」だった場合、そもそも「魔法」が何を意味しているのかさっぱり理解できなくなってしまう気がします。「超自然的な能力を駆使するすべての人びとが守るべき、“超自然的な”ルール」とでもいったことなのでしょうか? そもそも「“超自然的な”ルール」など、守るだけの価値があるのでしょうか? いずれにしても、ここまで考えてきましたが、「魔法」の“法”を「法律」と解釈するのはいささか無理があることのように思われます。
となれば、「魔法」の“法”は必然的に「法則」という意味にならなければなりません。ですが、こちらの解釈のほうがはるかに実情に合致していると私は考えます。その実情こそすなわち、1.1.で提起された「なぜ『魔法学校』が一番頻出なのか」ということの答えにも繫がる核心部分ではないでしょうか。
「魔法」の“法”が「法則」であるということ。それはすなわち「超自然的なパワーが、体系(規則)の中に組み込まれている」ということを示しているのに他なりません。そして「魔法が体系的」であるからこそ「学校」の範疇でカリキュラムを構成して、教授することができる――こういうことなのではないでしょうか。この考えに従えば「身体で覚える」ような直感性に頼らざるを得ない「魔術」に比べ、「魔法」の方が「学校」というシステムになじみやすいということも分かります。
しかし、この考え方が正しいかどうかを確かめるためには、「魔道」についても詳しく調べて見る必要があります。なぜならば、「魔法」が注目しているのはあくまで「超自然的なパワーの体系化」のみであり、「超自然的なパワーを駆使する人びとが守るべきルール」については言及していないからです。